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幸せの後ろ姿

私は演歌が嫌いなのだが、大衆歌謡は好きで、なぜ演歌が嫌いかというと、その「酒臭さ」「夜の匂い」が嫌いなのだろう。大衆歌謡というのは基本的に明るいものだ。というのは私の主観的な思想で、もちろん暗い大衆歌謡もたくさんあるが、それらと「演歌」は別物の気がする。
まあ、フォークソングだろうがジャズだろうが、酒臭い唄、夜の匂いのする歌はあるので、「場末の酒場の匂い」が嫌いだ、と言い換えておこう。たとえば、夜の歌でも「スターダスト」などには酒の匂いも酒場の匂いもまったく無い。酒の歌でもオペラ「椿姫」の「乾杯の歌」などは好きなのだから、日本の演歌独特の湿った情感が嫌いなのかもしれない。あるいは「酒と薔薇の日々」などは、私のもっとも好きな歌のひとつだ。ここには日本の場末の酒場のトイレ臭さが無い。なお、シャンソンには、「アコーディオン弾き」のように場末の酒場の匂いを感じる歌も少しあるようだが、なぜか「トイレ臭さ」を感じないのは、演歌と異なる曲調のせいだろう。
と言うのは前置きで、私が書こうとしているのは、寝起きの時からなぜか頭の片隅にあった「ウナセラディ東京」という演歌のことである。まあ、演歌に分類できると思うが、それを酒場歌とするのは適切かどうか知らない。私のイメージでは、酒場の女の失恋を歌った歌なのである。なお、「ウナセラディ」がどういう意味なのか私は知らないし、調べる気もない。何かに「うなされている」のではなさそうだwww
で、本論だが、この中に「街はいつでも、後ろ姿の幸せばかり」という一節がある。最初に言えば、この「街」を「町」と書いてはいけないだろう。「町」では、その辺のおばさんが買い物籠を下げて歩いている風景を想像してしまう。この歌の曲調からして、これはそういう町ではなく、東京の、しかも繁華街だと推定するのが妥当だろう。
とすると、この歌の女主人公が見ている街は、六本木とか渋谷といった「夜の繁華街」ではないか、と推定するのが自然だと思える。まあ、格が下がるが、新宿や池袋でもいい。(私は昔のイメージで書いているが、現在でもさほど変わらないだろう。)
そういう「夜の繁華街」で彼女が見ているのは、「幸せそうなカップル」の姿である。それを彼女は自分を拒絶する「幸せ」の後ろ姿だと見るわけだ。
しかし、立ち止まって考えると、「不幸せな人間」が果たして繁華街に出るものだろうか。出れば、当然、孤独感や孤立感にさいなまれるだろう。まあ、歌の主人公の女性は、夜の勤めにでも出る途中で、そういう幸せそうなカップルを見るしかないのかもしれないが、基本的に「繁華街」というのは幸せな人々の街であり、つまり彼女の嘆きは自業自得だ、ということを私は言っているわけだ。
まあ、恋をしたら失恋も覚悟する必要がある。打算のつきあいだけでなく、恋ができるだけでも、人間が上等だ、と言えるかもしれない。もっとも、たいていの恋は自分自身が作り上げた幻想へのピグマリオン的な恋だ、と私自身は思っているのだが、盲目になることこそ恋の醍醐味だ、という考えも可能である。恋をまったく知らないのと失恋経験と、どちらがマシだろうか。
という、誰のためにもならないくだらない考察だが、些末事を考察するのは私の趣味であり、考えた以上は書くのが私の習慣である。


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酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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