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「酔生夢人=トマス・モア」かwww

このブログの「思想・哲学・宗教」ジャンルの中に入れてある「価値論」の一節が、今読んでいるトマス・モアの「ユートピア」の一節とそっくりなので、後者を紹介する。なお、この書は冒頭部が実に読みにくいので、私はこれまで通読したことが無かった。したがって、私の「価値論」は、この書とは無関係である。つまり、私はトマス・モアと同じレベルの思想家らしいwww

(「ユートピア」から抜粋転載)

こういう見かたからすれば、金銀が鉄に比べてはるかに劣っているということをわからない人がいるでしょうか。人間は鉄がなければ火や水がないのと同様に生きてゆけません。ところが、人間はその愚かさゆえに稀少なものは価値あるものだと決めたから話は別ですが、自然は金銀にたいして、われわれが容易に無視できぬようなたいせつな用途を与えはしませんでした。かえってその反対に、自然は慈愛あふれる母親のように、たとえば空気、水、大地のような、それぞれ最善の贈りものを公開してわれわれの手近なところにおき、空虚かつ虚無なるものをわれわれからなるべく離れたところに遠ざけたのです。

(以下自己引用)


第3節 物の価値




 




 第1節で「社会的価値観」について述べたが、実は、価値の相場は合理的に形成されるわけではない。




 誰でも、黄金は価値があると思っている。だが、その価値は主として「希少さ」によっているのである。誰かが言っているが、黄金より土が少なかったら、土のほうが価値が出るだろう。希少さとは無関係に、実際に土のほうが価値があるとも言える。なぜなら、黄金の上に作物はできないからだ。我々は土に価値があるなどとは思わない。それは周りに膨大にあるからだ。だが、飢饉が来れば、作物を生やしてくれる土地の価値が、はっきりとわかるはずである。そのとき、黄金が、いかに無価値かもわかるだろう。問題が少し違うが、インカ帝国にもしも黄金がなければ、スペイン人たちはインカ帝国を滅ぼさなかったかもしれない。インカ帝国にとっては、黄金は災いを招く存在であった。インカ人自身にとっても黄金が、価値がそれほどあったとは思われない。なぜなら、スペイン人に略奪されるまでは、彼らにとって黄金はありふれた存在だったからである。そのへんの石ころと同じ比率で黄金があれば、誰が黄金を崇めるだろうか。(このことを敷衍すれば、世界中の人間が美男・美女になった世界では、美男・美女の存在価値は無いことになる。)




 土と同様に、我々がその価値に気付かないものが、空気と水である。我々が生存できるのは、ひとえに空気と水と土のおかげであり、それ以外のものは生きる上では剰余にすぎない。もちろん、文化とはその剰余のことではあるのだが、少なくとも生存上の第一義的なものは、この三者なのである。




 さて、この人間社会では、黄金は価値があるとされている。そこで、黄金を独占した人々は、その相場を自分たちで決めることで、他人の上に立ち、優雅な生活を送ることができるわけである。つまり、社会の構成人員を「黄金は価値がある」と教育すれば、その後はほぼ永遠に富の独占ができるわけである。




 いや、黄金はそれ自体価値がある、と異論を述べる人もいるだろう。何しろ、容易に加工できる「美しい」金属で、しかも時の浸食を受けない。だから黄金には絶対的な価値があるのだと。なるほど、それらの美点は確かにある。特に、貨幣を作る上で、黄金はいい原材料だろう。そうした価値を否定はしない。貨幣経済の上に成り立っているこの社会を維持する上で、黄金は重要な要素には違いない。しかし、黄金の持つ価値は、必要以上に吊り上げられているのではないだろうか。他の貴金属や宝石なども同じである。




 では、芸術品の価値はどうだろうか。

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HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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