私は「公地公民制」は日本最初(で最後)の共産主義だと思っている。で、中大兄皇子の冷徹な他豪族排斥の手法はスターリンによく似ている。つまり、大化の改新とは「ソ連誕生(ロシア革命)」の日本版だったわけであるwww
ついでながら、「公民」の「民」とは当時は豪族の財産であり、生産のための奴隷だったわけだ。それを「国家のもの(公民)」としたのは、奴隷解放という面があり、「国家」という無形の存在が何かを所有することはできないから、「公民」とは当時の民が自由な存在になった(もちろん、かなり限定的だが)とも言える。で、その自由や人権の代償に税金(年貢)を納めるというのは現在も同じだ。(現在の我々が「公民」たりえているかも問題だが。)
念のために言えば、私は中大兄皇子(天智天皇)も大海人皇子(天武天皇)も好きである。大昔の人間を現在の道徳観念で評価するほど馬鹿げたことはない。
(以下引用)「日本史」という大雑把な名前のサイトから転載。赤字は夢人による強調。
権力を手に入れた蘇我入鹿は早速、ライバル的な存在だったに山背大兄王に対して兵を動かし攻撃を仕掛け、彼を自害に追い込んでしまいました。さすがの蘇我蝦夷も「何てことをしてくれたんだ!」と嘆いたそうです。さすがにやりすぎると何されるか解らないぞ、というわけでしょうね。
その嫌な予感は見事に的中。
645年、皇極天皇の息子だった中大兄皇子(なかのおおえのおうじ 当時20歳)と、前回で紹介した南淵請安の弟子である中臣鎌足(なかとみのかまたり 当時32歳)らのグループは、飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)で蘇我入鹿を暗殺。隠居していた蘇我蝦夷は、「もはやこれまで」と自害し、ここに蘇我氏本家は滅亡しました。これを、乙巳の変(いっしのへん)といいます。
ちなみに、よく「蘇我氏滅亡」なんて表現する本がありますが、蘇我氏といっても蘇我馬子らの本家に快く思っていないグループも多く存在し、この乙巳の変でも蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらのやまだのいしかわのまろ)が中大兄皇子に協力しています。ただ、やはり蘇我氏それ自体の排除は次第に進められ、僅かに蘇我一族の石川氏などが活躍するに留まっています。
そのために、必然的に蘇我氏が悪者扱い状態ですが・・・。
理想とする国家観の違いや、朝鮮半島を巡る外交政策などの、政治的対立によって発生した権力闘争的な面も強く、そんな「勝手な振る舞い」とか「独裁的な・・・」などの記録は、どこまで鵜呑みにして良いのかな、と個人的には思います。特にこれ以後、平安時代まで続く藤原氏の最初の権力闘争が、この蘇我本家排除であるとも言えるわけでして・・・。
※注:中臣鎌足は、藤原氏の祖。
飛鳥寺付近に残る蘇我入鹿の首塚
飛鳥寺西門跡
間口11.5m、奥行き5.5mという規模で、四方にあった門の中で最も大きかった西門。大化の改新の際には、中大兄皇子と中臣鎌足は飛鳥寺に陣を置き、この西門から蘇我蝦夷・入鹿の館をにらみ、広場は軍隊で埋め尽くされていたそうです。
そして唐のように元号を定め、大化とします。
さらに646(大化2)年には、改新の詔(みことのり)を発表し、
1.公地公民制(=すべての土地と人民は国家のもの)へ移行し、屯倉・田荘などの私地私民制を廃止
2.中央・地方の行政区画を定め、軍事施設を整備、
3.戸籍を作って人民を登録し、全国の土地を班田収授法により分配
4.全国に統一的な税制を作る
としました。そして、難波宮(大阪市)に遷都します。
こうした、一連の改革を大化の改新といい、「本当に実行されたの? 後世の創作じゃないの?」と、信憑性にやや疑問もあるものの、ともあれ天皇中心の国家の整備が進められていきました。その中で、残念なことに蘇我倉山田石川麻呂は、謀反の疑いをかけられて「私は無実だが、潔く死んでやる」と自殺しています。石川麻呂の異母弟、蘇我日向(ひむか)が「兄が、中大兄皇子を暗殺しようとしています」と密告し、中大兄皇子がそれを信じたのが原因。
また、孝徳天皇と中大兄皇子の対立が激化。
結局、中大兄皇子らは飛鳥に事実上遷都し、難波宮には孝徳天皇が置き去りにされることに。
こうして孤独にさせられた孝徳天皇は、失意のうちに没しました。
そして中大兄皇子の母親、皇極上皇が再び即位します(斉明天皇)。
この政変劇の中で、孝徳天皇の息子の有馬皇子は、情勢の推移を見守っていましたが、蘇我赤兄(あかえ)に謀反を勧められて決起を決意しました。ところが、なんと蘇我赤兄に裏切られて逮捕されてしまうのです。そして有馬皇子は、中大兄皇子に処刑されてしまいました。どうやら、仕組まれていたようで・・・。
先ほどの蘇我石川麻呂の死も、おそらく中大兄皇子にとって権力を脅かす存在を排除したものでしょう。
中大兄皇子の権力基盤も磐石ではなく、孝徳天皇・蘇我石川麻呂VS中大兄皇子・中臣鎌足なんて状態だったんじゃないのでしょうか。蘇我本家打倒では目的が一致したとはいえ、その後は孝徳天皇系の勢力を排除することが、中大兄皇子らには必要不可欠だったのでしょう。
ついでながら、「公民」の「民」とは当時は豪族の財産であり、生産のための奴隷だったわけだ。それを「国家のもの(公民)」としたのは、奴隷解放という面があり、「国家」という無形の存在が何かを所有することはできないから、「公民」とは当時の民が自由な存在になった(もちろん、かなり限定的だが)とも言える。で、その自由や人権の代償に税金(年貢)を納めるというのは現在も同じだ。(現在の我々が「公民」たりえているかも問題だが。)
念のために言えば、私は中大兄皇子(天智天皇)も大海人皇子(天武天皇)も好きである。大昔の人間を現在の道徳観念で評価するほど馬鹿げたことはない。
(以下引用)「日本史」という大雑把な名前のサイトから転載。赤字は夢人による強調。
○蘇我氏本家の滅亡
643年、蘇我蝦夷は大臣の位を、息子の蘇我入鹿(そがのいるか)へ私的に譲渡しました。権力を手に入れた蘇我入鹿は早速、ライバル的な存在だったに山背大兄王に対して兵を動かし攻撃を仕掛け、彼を自害に追い込んでしまいました。さすがの蘇我蝦夷も「何てことをしてくれたんだ!」と嘆いたそうです。さすがにやりすぎると何されるか解らないぞ、というわけでしょうね。
その嫌な予感は見事に的中。
645年、皇極天皇の息子だった中大兄皇子(なかのおおえのおうじ 当時20歳)と、前回で紹介した南淵請安の弟子である中臣鎌足(なかとみのかまたり 当時32歳)らのグループは、飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)で蘇我入鹿を暗殺。隠居していた蘇我蝦夷は、「もはやこれまで」と自害し、ここに蘇我氏本家は滅亡しました。これを、乙巳の変(いっしのへん)といいます。
ちなみに、よく「蘇我氏滅亡」なんて表現する本がありますが、蘇我氏といっても蘇我馬子らの本家に快く思っていないグループも多く存在し、この乙巳の変でも蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらのやまだのいしかわのまろ)が中大兄皇子に協力しています。ただ、やはり蘇我氏それ自体の排除は次第に進められ、僅かに蘇我一族の石川氏などが活躍するに留まっています。
そのために、必然的に蘇我氏が悪者扱い状態ですが・・・。
理想とする国家観の違いや、朝鮮半島を巡る外交政策などの、政治的対立によって発生した権力闘争的な面も強く、そんな「勝手な振る舞い」とか「独裁的な・・・」などの記録は、どこまで鵜呑みにして良いのかな、と個人的には思います。特にこれ以後、平安時代まで続く藤原氏の最初の権力闘争が、この蘇我本家排除であるとも言えるわけでして・・・。
※注:中臣鎌足は、藤原氏の祖。
飛鳥寺付近に残る蘇我入鹿の首塚
飛鳥寺西門跡
間口11.5m、奥行き5.5mという規模で、四方にあった門の中で最も大きかった西門。大化の改新の際には、中大兄皇子と中臣鎌足は飛鳥寺に陣を置き、この西門から蘇我蝦夷・入鹿の館をにらみ、広場は軍隊で埋め尽くされていたそうです。
○大化の改新
さて、こうして蘇我氏の強大な権力を排除した中大兄皇子らは、皇極天皇の弟、軽皇子を即位させ(孝徳天皇)、左大臣に阿倍倉梯内麻呂(あべのくらはしのうちのまろ)、右大臣に蘇我倉山田石川麻呂を、内臣に中臣鎌足を配置する新政府を樹立。中大兄皇子は皇太子になりました。そして唐のように元号を定め、大化とします。
さらに646(大化2)年には、改新の詔(みことのり)を発表し、
1.公地公民制(=すべての土地と人民は国家のもの)へ移行し、屯倉・田荘などの私地私民制を廃止
2.中央・地方の行政区画を定め、軍事施設を整備、
3.戸籍を作って人民を登録し、全国の土地を班田収授法により分配
4.全国に統一的な税制を作る
としました。そして、難波宮(大阪市)に遷都します。
こうした、一連の改革を大化の改新といい、「本当に実行されたの? 後世の創作じゃないの?」と、信憑性にやや疑問もあるものの、ともあれ天皇中心の国家の整備が進められていきました。その中で、残念なことに蘇我倉山田石川麻呂は、謀反の疑いをかけられて「私は無実だが、潔く死んでやる」と自殺しています。石川麻呂の異母弟、蘇我日向(ひむか)が「兄が、中大兄皇子を暗殺しようとしています」と密告し、中大兄皇子がそれを信じたのが原因。
また、孝徳天皇と中大兄皇子の対立が激化。
結局、中大兄皇子らは飛鳥に事実上遷都し、難波宮には孝徳天皇が置き去りにされることに。
こうして孤独にさせられた孝徳天皇は、失意のうちに没しました。
そして中大兄皇子の母親、皇極上皇が再び即位します(斉明天皇)。
この政変劇の中で、孝徳天皇の息子の有馬皇子は、情勢の推移を見守っていましたが、蘇我赤兄(あかえ)に謀反を勧められて決起を決意しました。ところが、なんと蘇我赤兄に裏切られて逮捕されてしまうのです。そして有馬皇子は、中大兄皇子に処刑されてしまいました。どうやら、仕組まれていたようで・・・。
先ほどの蘇我石川麻呂の死も、おそらく中大兄皇子にとって権力を脅かす存在を排除したものでしょう。
中大兄皇子の権力基盤も磐石ではなく、孝徳天皇・蘇我石川麻呂VS中大兄皇子・中臣鎌足なんて状態だったんじゃないのでしょうか。蘇我本家打倒では目的が一致したとはいえ、その後は孝徳天皇系の勢力を排除することが、中大兄皇子らには必要不可欠だったのでしょう。
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