想像してみてほしい。米国が今後10年間、過去10年間と全く同じ道を歩むことになったらどうなるだろうか。恐らく、インフラの劣化がさらに進み、公教育の質の相対的な低下が続き、中間層のスキルも衰えていくだろう。
米国で起こったことは日本でも起こる。インフラの劣化、公教育の質的低下、中間層のスキル低下、それによって生産性はどんどん低下し、国としての貧困化が進んでいく。
同記事ではベーシックインカムの導入を打開策としているが、これは経済情報誌としては珍しいことではないか。このような「社会主義的政策」は、資本主義の広報誌のもっとも憎む政策だったはずなのだが。それほど、打つ手が無くなっている、ということなのだろうか。
(以下引用)
米国の生産性低迷のナゾ 停滞からついにマイナス転落へ、次世代の暮らしはどうなるのか(Financial Times)
http://www.asyura2.com/16/hasan109/msg/513.html
米ニューヨークで資源ごみをカートに積んで歩く男性(2016年3月4日撮影、資料写真)。(c)AFP/Jewel SAMAD〔AFPBB News〕
米国の生産性低迷のナゾ 停滞からついにマイナス転落へ、次世代の暮らしはどうなるのか
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/47023
2016.6.7 Financial Times :JBpress
(英フィナンシャル・タイムズ紙 2016年5月30日付)
ちょっと辺りを見回してみてほしい。荷物の宅配に使われるドローンから迫り来る自律運転車に至るまで、世の中の変化は加速しているような感じがする。かの偉大なる投資家ウォーレン・バフェットは、我々の子供たちの世代は「史上最も幸運な人たち」になるだろうと断言している。
世界はどこもかしこもスピードアップしている。ただし、生産性の指標だけは別だ。
米国の生産性伸び率はここ10年間低下し続けており、今年は三十数年ぶりのマイナスになることがほぼ確実視されている。だが、腕にはめられた「Fitbit(フィットビット)」は、そんなことはないと訴えているような気がする。さて、どちらを信用すべきなのだろうか。経済統計だろうか、それとも、ふしあなだったりする自分の目だろうか。
多くのことがこの答え次第で決まってくる。我々が富を作り出す能力は、究極的には生産性に左右される。短期間であれば、労働時間を長くしたり外国からの移民を増やしたりして経済成長率を押し上げることができる。定年退職を延長するというやり方もあるだろう。だが、しばらくすればそういう手法は効き目がなくなる。
人間がもっと賢いやり方で仕事ができるようにならなければ、経済成長も息切れをし始める。
ほかの指標もこの悲観論を裏付けている。例えば、今日の米国経済のトレンド成長率は2%をわずかに上回る程度で、30年前の半分ほどでしかない。ポール・クルーグマン氏が指摘したように、「生産性がすべてではないが、長期的には生産性がほぼすべて」なのだ。
計測の方法を間違えているだけだという可能性もある。例えば、経済学者の中には、フェイスブックに自分のプロフィールを書き込んだりウィキペディアから情報を無料でダウンロードしたりすることの有用性を経済統計は認識できていない、と考える向きもある。また、ギグ・エコノミー*1は適切に評価されていないとの指摘もある。
*1=インターネット経由で単発の仕事を依頼したり請け負ったりすること
ただ、この議論は逆方向にも展開できる。生産性とは、生み出された価値をそれに投じた労働時間(このデータは雇用主が提供する)で割って計算するものだ。ところが最近の研究――そして常識的な考え方――によれば、「iPhone(アイフォーン)」を持っているために従業員は遊びに出掛けているときでも雇用主に縛り付けられている。ということは、我々は労働時間を実際よりも少なく見せることによって生産性の伸び率を過大評価しているかもしれないのだ。
後者の見方は、米国で働く人のほとんどが経験していることと間違いなく合致する。世論調査で、自分の子供たちの暮らし向きは自分たちよりも悪くなるだろうという回答が2004年に過半数を占め始めたのは、決して偶然ではない。この2004年とは、1990年代にインターネットによって急激に向上した生産性が失われ始めた年だ。
ほとんどの米国人はここ15年あまり、賃金の伸び悩みや低下に苦しんできた。実質ベースでは、今日の大卒者の初任給は2000年当時のそれを大幅に下回る。経済協力開発機構(OECD)によれば、米国では次世代の労働者の教育水準が現世代のそれを下回ることになるという。これは史上初めてのことであり、状況が今後もっと悪くなりそうなことを意味するものだ。先日発表された米国の生産性に関する報告書は、それを裏付ける内容になっている。
一方で、我々はルネサンスの先端にいる、それに気がついていないだけだ、という可能性もある。かつて経済学者のロバート・ソローはこんな皮肉を口にした。「今はコンピューターの時代。どこを見てもそうだと分かるのに、生産性の統計だけはそうじゃない」
これは1987年の発言で、この数年後にはコンピューターの時代がものすごい数字になって現れた。これと同じように、我々は人工知能(AI)とかオーダーメード医療といったものの恩恵をもう少ししたら享受できるのかもしれない。そう考えたほうが我々の期待や想像にはよく合致するかもしれない。あるいは、根拠のない幻想でしかない可能性もある。
そうした恩恵が享受できる日まで、米国をはじめとする西側世界のほとんどでは、悪化する生産性危機が続くことになる。この減速には明らかな影響が1つ、そして魅惑的な救済策が1つある。
第1に、変わり映えのしない現状への怒りのこもった反発はすでに始まっている。ドナルド・トランプ氏の台頭を見ればいい。米国の中間層の苦しみに対して同氏が提示した治療法のほとんどは、その病気よりもひどいものだ。移民の流入を止めたり貿易障壁を作ったりすれば、米国の経済成長率は低下する。
同様に、予算に大きな穴を開ける高所得層向けの減税を再度実施するなどというアイデアについては、それ以上の資源のムダが思いつかないほどだ。それでも、同氏の人気が経済に関するいら立ちによって押し上げられていることは明らかだ。
トランプ氏のアイデアには、米国のインフラに多額の投資を行うなど、有望なものも1つか2つある。ただ、今のような時代、これはほとんど当たり前だ。さらに言うなら、ヒラリー・クリントン氏と合意できる数少ない点でもある。
ある調査によれば、米国の経済成長の一部は、ボストンからニューヨークに至る地域やロサンゼルスのように小さな都市が互いに密接に結びついてできた小数の大都会で作り出されているという。であれば、景気が良い都会と不景気にあえいでいるその周辺の広い地域とをもっと上手に結びつければ、経済成長をもっといろいろなところに広げていくのに役立つだろう。
そうしたプロジェクトが実を結ぶには時間がかかるだろう。だがしばらくの間は、映画「ハンガー・ゲーム」に出てくるような中央とその周辺というイメージにこだわってみる価値はある。
想像してみてほしい。米国が今後10年間、過去10年間と全く同じ道を歩むことになったらどうなるだろうか。恐らく、インフラの劣化がさらに進み、公教育の質の相対的な低下が続き、中間層のスキルも衰えていくだろう。
米国の都会で最も裕福な地区の住人とその周辺に住むほかの人々との分離が加速され、教育を受けたエリートたちはさらに豊かになるだろう。下手をすると、それによって民主主義的秩序の崩壊の引き金が引かれることもあるかもしれない。もしトランプ氏の台頭が不吉だと思うのなら、これからの10年間がこれまでの10年間のようになった場合の米国を想像してみるといい。
ここで、救済策の話になる。ユニバーサル・ベーシック・インカム(UBI)*2がそれだ。UBIには利点がいくつかある。第1に、すべての思想傾向の人々から、つまり右のリバタリアンからも左の社会主義者からも支持を得られる。
第2に、今日のように重複の甚だしい給付金制度に取って代わることができ、受給資格があることを連邦政府のお役人に証明するときに屈辱感を味わう必要もなくなる。
だが、とりわけ重要なのは、社会の平安がいくらか買えるということだ。今日の経済の停滞は一時的なものかもしれないし、永続的なものかもしれない。両者を区別する手だてはない。従って我々は常識通りに、つまりこの停滞があたかも定着するかのように考え、行動していかなければならない。
*2=政府が国民全員に必要最低限の生活費を無条件に支給する制度