余生があとどのくらいあるか分からないが、その残された時間をどう使うか、と考えたとき、詩や歌を読んで、それを解釈するという作業もなかなか面白いのではないかと思う。
詩(歌も含む)というのは論理を超越したところがあるから詩なのであって、そうでなければ、それは散文だ。
その非論理性、と言うより「超論理性」が苦手で、私は詩を読むことにはあまり積極的ではなかったのだが、人生が残り少ないとすれば、詩の研究というのも面白そうだ。
幸い、優れた詩人の作品はたくさんあるだろうし、詩人自身は亡くなっていても、その「詩人の魂」は今も生きて世界の隅々に残っている。
詩の超論理性というのは、おそらくほとんどの子供には理解不可能なもので、理解できても「何となく面白い」程度だろう。その程度でも何かが伝わればいいのである。だが、基本的には学校教育の国語で詩を扱うのは無理だろう。つまり、詩を理解するには、或る程度の知的成熟が必要だと思われるので、詩の鑑賞は老人の趣味としてこそふさわしい。まあ、文学全体が実はそうなのではないか。若いころに幾つか本を読んで、「これで文学は卒業」というのは間違いだろう。
などと書いたのは、眠れぬままに、たまたま宮沢賢治詩集を読んで、以前にはまったく理解できなかった詩句が、幾つか、「解釈」ができたような気がしたからだ。そして、それらの詩句を自分で解釈したら、詩全体も面白く思えたのである。
宮沢賢治という人は、現実世界と幻想世界を二重写しで眺めながら一生を終えた人間だったのではないか。彼の詩の難解さは、その「二重性」にあると思う。
たとえば、水槽の中で赤いボウフラが跳ね動く様を彼はダンサーにたとえる。いや、ダンサーとして見る。
あるいは、世界の悪や不条理や不可解さに悩む自分をひとりの、あるいは一匹の修羅と見る。
世界や現実を彼はこう見る。
けだしわれわれがわれわれの感官や
風景や人物をかんずるやうに
そしてただ共通に感ずるだけであるやうに
記録や歴史 あるひは地史といふものも
それのいろいろな論料といっしょに *「論料」は「データ」と振り仮名。
(因果の時空的制約のもとに)
われわれがかんじているにすぎません
宮沢賢治の目で世界を改めて眺めることができたら、それは別の人生を改めて生きる「リライフ」になるのではないか。宮沢賢治の詩を解釈する、あるいは咀嚼するというのは、そういうことだ。
詩(歌も含む)というのは論理を超越したところがあるから詩なのであって、そうでなければ、それは散文だ。
その非論理性、と言うより「超論理性」が苦手で、私は詩を読むことにはあまり積極的ではなかったのだが、人生が残り少ないとすれば、詩の研究というのも面白そうだ。
幸い、優れた詩人の作品はたくさんあるだろうし、詩人自身は亡くなっていても、その「詩人の魂」は今も生きて世界の隅々に残っている。
詩の超論理性というのは、おそらくほとんどの子供には理解不可能なもので、理解できても「何となく面白い」程度だろう。その程度でも何かが伝わればいいのである。だが、基本的には学校教育の国語で詩を扱うのは無理だろう。つまり、詩を理解するには、或る程度の知的成熟が必要だと思われるので、詩の鑑賞は老人の趣味としてこそふさわしい。まあ、文学全体が実はそうなのではないか。若いころに幾つか本を読んで、「これで文学は卒業」というのは間違いだろう。
などと書いたのは、眠れぬままに、たまたま宮沢賢治詩集を読んで、以前にはまったく理解できなかった詩句が、幾つか、「解釈」ができたような気がしたからだ。そして、それらの詩句を自分で解釈したら、詩全体も面白く思えたのである。
宮沢賢治という人は、現実世界と幻想世界を二重写しで眺めながら一生を終えた人間だったのではないか。彼の詩の難解さは、その「二重性」にあると思う。
たとえば、水槽の中で赤いボウフラが跳ね動く様を彼はダンサーにたとえる。いや、ダンサーとして見る。
あるいは、世界の悪や不条理や不可解さに悩む自分をひとりの、あるいは一匹の修羅と見る。
世界や現実を彼はこう見る。
けだしわれわれがわれわれの感官や
風景や人物をかんずるやうに
そしてただ共通に感ずるだけであるやうに
記録や歴史 あるひは地史といふものも
それのいろいろな論料といっしょに *「論料」は「データ」と振り仮名。
(因果の時空的制約のもとに)
われわれがかんじているにすぎません
宮沢賢治の目で世界を改めて眺めることができたら、それは別の人生を改めて生きる「リライフ」になるのではないか。宮沢賢治の詩を解釈する、あるいは咀嚼するというのは、そういうことだ。
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