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政府の「棄民政策(?)」への「世に倦む日々」氏の批判

「世に倦む日々」記事で、この筆者の考えに私は反対なのだが、とりあえず叩き台として(記事を叩くという意味ではないww)転載しておく。私は「世に倦む日々」氏の硬直的な思想傾向には批判的だが、その真面目さや熱心な研究心は尊敬している。
なお、政府自体が「棄民政策」をしたのではなく、「各自治体の判断に任せる」ということであり、これはワクチン接種の場合(「接種するかどうかは個人の判断に任せる」)と同じパターンである。新コロ問題に関しては強圧的に、全国一律の政府決定に従わせるべきだ、というのが「世に倦む日々」氏の考えなのだろう。それをやったイスラエルや欧米諸国の惨状を知っているのだろうか。

(以下引用)

今回の棄民政策は誰が動かした政治なのか ー 謀略の真相と背景

今回の棄民政策は誰が動かした政治なのか ー 謀略の真相と背景_c0315619_14444792.png今回の棄民政策はどういう経緯と背景で方針決定されたのだろう。以下はその政治的正体についての推察である。普通に考えて、岸田文雄のイメージはネオリベの範疇と属性から遠い。宏池会は新自由主義とは距離のある政策集団だ。総裁選総選挙の公約と政見を聞いた印象でも、安倍晋三や菅義偉のネオリベ一色の感染対策とは異なる方向性が期待された。12月から始めた無料のPCR検査センターの開設なども、微弱ながら脱ネオリベを標榜する岸田カラーの発現の一端だろうと好感して眺めていた。

その岸田政権の厚労省から、今回突然、PCR検査しません、自費で転売ヤーから抗原検査キット買って調べなさい、陽性が出たら自宅で健康観察しなさい、保健所は忙しいので面倒みません、という驚くべき対処方針が発表された。菅義偉以上にグロテスクな極超ネオリベの棄民政策の発動であり、冷酷な弱者切り捨ての処断である。正直、衝撃を覚えて狼狽する気分を否めない。本当に岸田文雄がこの政策を了承し裁可したのか。なぜ葛藤も躊躇もなくこのような暴挙の意思決定に出たのか。




今回の棄民政策は誰が動かした政治なのか ー 謀略の真相と背景_c0315619_14445723.png厚労省が新方針を出してマスコミが報道した直後、26日、神奈川県の黒岩祐治が、医師の診断と確定検査を経ず、抗原検査キットで感染を自分で判断して療養する「自宅療養」の措置を始めると発表した。健康管理と食事調達は自己責任だと言い切り、パルスオキシメーターの貸与もせず、看護師らによる健康観察の電話も取りやめると堂々と宣言している。26日の神奈川県に続いて、27日には大阪府が、28日には千葉県が「みなし陽性」の制度導入を始める旨を会見で告知した。厚労省の新方針の具体化の流れ作業だ。

厚労省の24日の通達文書には、「自治体の判断で下記の(新方針の)対応を行うことが可能である」と書いてある。自治体にとっては少なからずショッキングな内容に違いないが、要するに、神奈川県や大阪府や千葉県とはネゴが終わっていて、根回し済みだという裏であり、これらの新自由主義府県をアーリーアダプターとして新方針が五月雨的に全国自治体で実施される進行が想定されている。つまり、この棄民政策が、ネオリベ知事とネオリベ厚労官僚の間で事前に水面下で連携され合意されている。知事会から異論が出ず、波風が立っていない。


今回の棄民政策は誰が動かした政治なのか ー 謀略の真相と背景_c0315619_15151239.png通常、こんな過激な棄民政策が厚労省から出れば、知事は「県民の命と健康に責任がとれない」と反発するものだ。検査キットと治療薬の配布供給ぐらいは国が保障しろ、と要求するものだ。一体、この政治の真相は何なのだろうか。私が推理する図式の中でおのずと視線が向かう人物は、コロナ対策担当相の山際大志郎である。この男が全体の根回しの中軸に位置するのではないか。検査キット不足の問題を共産党議員が予算委で質問した際も、この男が答弁に立っていた(首相や厚労相ではなく)。西村康稔の後釜でポストに就いた目立たない男。

小物で目立たないので注意してなかったが、実は毒々しく生臭いプロフィールを持っていて、いかにも今回の棄民政策の立役者に相応しい。まず何より、この男は甘利明の最側近である。そして、ひょっとしてと思って確認したら、やはり選挙区は神奈川18区(高津区と宮前区)
だった。天下のネオリベ伏魔殿。東の大阪府。その中堅幹部。神奈川ネオリベ一家の陣笠ということは、菅義偉の息もかかっている。甘利明の子分だから麻生派であり、甘利明と麻生太郎が内閣に押し込んでいる。甘利明と麻生太郎の手足であり、甘利明の名代として、麻生太郎が放った目付として、岸田文雄をチェックしリモコンする特殊任務の隠密閣僚なのだ。


今回の棄民政策は誰が動かした政治なのか ー 謀略の真相と背景_c0315619_15212482.pngそして、外せないのが策動に噛んだ分科会のネオリベ専門家である。それが誰なのか、恐縮ながらものぐさで調査と特定に至っていないが、マスコミ報道に匿名で発言して頻繁に登場する。この男が、岸田文雄が分科会を開かないとか、分科会の意見と立場を軽視しているとか批判と不満をタレ込んでいる。岸田官邸を揺さぶって牽制をかけ、感染症対策の主導権を握る立ち回りを演じている。安倍・菅時代の人事産物である分科会に冷淡な岸田文雄からヘゲモニーを奪うべく暗躍している。この分科会のネオリベ専門家と山際大志郎が密謀し、黒岩祐治などと謀計して、今回の棄民政策が立案され厚労省の施策となったのだろう。

感染症対策をめぐってのネオリベ陣営のカウンター攻勢である。当然、背後に安倍晋三の存在があり、安倍晋三と岸田文雄の静かな暗闘が影を落としている。ネオリベ勢力を側面支援し、マスコミに岸田文雄の悪口を言わせているのは安倍晋三だ。岸田文雄の高い支持率が気に入らず、感染症対策を公共主義寄りに転換しようとする動きが不快なのだ。12月からずっと5類に変えろと喚いてきたのも、維新・ネオリベ系と安倍晋三だった。オミクロン株の感染爆発の機会を捉え、いわばクーデター的な電撃作戦で、恐怖の棄民政策を一気に政府決定にしてしまった。安倍晋三と麻生太郎はほくそ笑んでいるだろう。菅義偉と橋下徹も。


今回の棄民政策は誰が動かした政治なのか ー 謀略の真相と背景_c0315619_15241744.png棄民政策を獰猛に推進するネオリベ族のコロナ対策の理想は、英国ジョンソン政権の規制撤廃であり、その発想の疫学的根拠は「集団免疫」論にある。社会成員の一定の割合が免疫を持つと、感染症に対する防疫は達成するという考え方だ。この考え方に従って、英国では2年前の当初、コロナに対してノーガード・フルオープンの姿勢で臨んで挫折し、スウェーデンでも同じモデルが採用されて失敗した。失敗して犠牲を出して懲りたにもかかわらず、同じ方式を試みて克服を果たそうとする。スイスでも同様の動きがあり、ワクチンさえ対策できていればコロナは解決できるという態度が見られる。ワクチン万能論の戦略も、やはり基礎にあるのは「集団免疫」の発想だろう。

そして、感染症に立ち向かう責任は個人にあり、社会全体を一律に制御して負担をかけるのはよくないという思想がある。ウィルスに対しては個人個人が自由に対処すればよく、能力と資産のある者は生き残り、それを欠く者は淘汰され、適者生存・優勝劣敗・弱肉強食の哲理と原則で世界は回るのだという価値観がある。今回、黒岩祐治は堂々と「自己責任」という言葉を発した。新自由主義のイデオロギーを正義であると衒いなく語り、この棄民政策を正当化して開き直った。感染症対策は理系の範疇で、基本的に自然科学の領域なのだけれど、やはりそこには抜き差しならぬ価値観の問題が存在する。リベラリズムかソシアリズムか、どちらが正しいのかという対立構図があり、どちらの理念を選ぶのかという社会科学の選択の問題がある。


今回の棄民政策は誰が動かした政治なのか ー 謀略の真相と背景_c0315619_15344328.png管見を言えば、この欧米仕様のレッセフェールの感染症対策の論理は、プロテスタンティズムの思想を源流としているように直観される。今、ハイエクとロールズの全盛の時代であり、リベラル・デモクラシーが絶対視されるご時世だから、感染症対策も自由主義・個人主義の原理が基本に据わるのだろう。もし英国が労働党政権であったなら、これほど極端なウィズコロナへのシフトはなく、アーダーン的な公共重視の規制策が模索されていたに違いない。とまれ、自由放任が彼らの信念ならそれでよい。が、日本がそれを信奉しそこに準拠する必要はない。日本は日本である。われわれ日本は、どういう価値観を選び、何を感染症対策の羅針盤に置くべきだろうか。私は、憲法25条の生存権の人権規定だろうと思う。迷いなくそう確信する。


第25条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。② 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。


憲法の中で「公衆衛生」の語が登場するのはこの条文であり、政府に行政の責任と義務を課している。主権者である国民は、国から公衆衛生のサービスを受ける基本的権利を持っている。そして、第1項では「すべて国民は」と表記されていて、公衆衛生行政が差別なく平等に提供されることが明記されている。だから、この国の感染症対策において、カネとコネのある国民が検査と投薬と入院にありつけ、無い国民が「自宅療養」を要請されて医療から切断されること、その措置が政府方針として示達され自治体によって実行されること、それが正当化され当然視されてまかり通ることは許されないのだ。それは憲法違反なのだ。

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混沌堂主人の「天皇論」

「混沌堂主人雑記(旧題)」記事の一部で、その中の引用はウクライナ情勢関連で米国の政治を批判した「deeply japan」記事の一文である。
「尊皇主義者」である私(何度も言うが「象徴天皇」としての天皇を尊重する意味だ。明治から敗戦までの「国家君主としての天皇」の天皇制は長所も短所も大きかったと思う。)はもちろん、ここで書かれた意見に反対だが、まあ、意見を持つことは大事だし、議論も大事である。
そこで、混沌堂主人の「反天皇論」の根拠らしいものが書かれているこの文章を転載する所以である。過去の天皇制への批判としてならともかく、現在の「象徴天皇制」への反対の理由としては薄弱だと思うが、一応参考までに載せておく。
私自身の現在の「象徴天皇制」に関する意見は、何度も書いてきたので省略する。まあ、民主主義が「仮面民主主義」に過ぎないこの日本(西側諸国はすべてそうだろうが)で、日本という国から国家統合の象徴としての天皇を除去したら、どんなアノミー(価値観を喪失した混乱状態とでも言っておく。)社会になるか、予測できる気がする。ただ、現在の天皇(今上天皇)夫妻は、前天皇(現上皇)夫妻にくらべて、「象徴天皇はいかにあるべきか」の意識が未成熟である感じがあるが、前の天皇も年齢とともに人間的成熟をしていったと思うので、さほど心配はしていない。秋篠宮夫妻などは、その点で「皇室の人間はいかにあるべきか」の意識が低いように思える。それが眞子様騒動で露呈した感じだ。
まあ、江戸時代までの庶民にとって天皇や皇室はほとんど無縁の存在だったわけで、天皇という存在が本格的に「国家統合の象徴」になったのは明治維新以降だろう。そういう意味では、天皇という存在がいなくなっても大きな影響は無い、という考え方も可能だろうが、日本の文化の歴史の根本存在を自ら消し去ることは愚劣だと私は思っている。その点では、三島由紀夫ではないが、「文化防衛論」の根本である天皇という存在が消滅すれば、日本という国の歴史と伝統は消え、ただ金儲けと目先の快楽と利益しか頭に無い野卑な小国が生まれるだけだろう。つまり、日本維新の会から「大統領」が生まれ、竹中平蔵が財政実権を握ったような社会だ。


(以下引用)

>アメリカの敵はロシアじゃない。国内外で飼い続けてきた、ISみたいなメンタリティーの人々こそ敵。
そのISみたいなメンタリティーの人々ばかりなのが、天皇家とその信者。
そういう意味で、天皇は、アメリカの「民主主義」と「国家の存亡を損ねる」公敵になりつつある。
なんせ、天皇とその信者は、最初から「日本人を守る義務・責務」もなく、売国だけしかできないからね。
何故に「天皇に日本の統治の責務」が無いのか。
一つは「古代から天皇が政治・軍事で脆弱で、全国土を統一できなかった」のが大きい。
国土の統一ができたのは、太閤さん・家康だし。
その前の「日本の統治の理由」は神話と「圧倒的な文化力とそれにも由来する軍事力」で、なんにも「日本の庶民」には理由も恩恵はなかったし、日本の庶民を養う・食わせる活動も寡聞にして聞いたことが無い。
なんせ高野聖や念仏聖がおらんかったら、インフラも整備がまともにできなかった時代が長かったしな。
で、統治の理由は、さておいて「天皇って偉いから統治する」ってその「偉さ」が、神話だけでまったく理由がない。
それを明治になって「天皇が偉いから全国民を戦争に狩り出せる」て、では天皇は一体に国民に何をしてくれるの?ってが無い。
まさに「古代から延々と続くジャイアン集団」が天皇なのである。
そんなものが、「日本の元首・統治者・象徴」で、「そもそも、日本人を守ることなどしない」のだから、
当然に、明治以降は、天皇家とその軍隊やその財閥に日本人が殺され続けてきたわけだよね。
アメリカも「民主主義の敵」が、天皇。
韓国も「民族の仇」が、天皇
中国も「祖国の敵」が、天皇
日本人も、「父祖を裏切った売国奴で仇敵」が、天皇
なら天皇廃止か天皇家絶滅が、ベストチョイスってなるよね。

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新コロと戦争

「谷間の百合」さんの言葉だが、実に鋭いと思う。
私はウクライナ情勢と新コロ問題を結び付ける想像力が無かった。

もしコロナが本当に怖い伝染病ならそんなことを考える余裕はないはずです。

という指摘は実にもっともで、たとえば、第二次大戦中に強力な伝染病が流行っていたら、どの陣営も戦争どころではなかっただろう。軍隊というのは、感染症には極度に警戒するものだ。軍の中に感染症が大流行していたのでは軍事行動どころではないからだ。ところが、沖縄でのオミクロン流行は米軍基地から始まった。つまり、軍隊内部ではほとんどオミクロンを警戒していなかったわけだ。オミクロンが、いや、新コロ全体が「2類相当」の感染症ではない、ということが軍の上層部には明白に分かっていたからだろう。
米英の新コロ感染状況がマスコミで報道されるようなものだったなら、ロシアとの戦争どころではない、というのはまさにその通りである。ワクチンを接種していても感染する、とされているのだから、防御方法は無いのである。マスクをして手洗いをして「三密」を避けて戦争するのかwww
つまり、新コロはすべて狂言、詐欺だというのは各国の上層部には明白な事実として認識されているわけだ。
DSは「新コロ」と「戦争挑発」という二兎を追ったために、新コロ詐欺の正体がばれたようだ。


(以下引用)


ロシアを何とか戦争に引き込みたい米英ですが、もしコロナが本当に怖い伝染病ならそんなことを考える余裕はないはずです。
だから、ウクライナ一色になっているのは、コロナがなんでもない証拠であり、ワクチンの弊害に気付き出した人々の目を逸らす意図もあるのだと思います。
ワクチンの次に戦争や食料危機が予定されていたのだと思います。

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新コロ詐欺は首相の首より重い

誕生パーティを開いただけで警察の捜査対象になり、下手をしたら政権が倒れるかもしれない(現在、支持率が20%まで下がっているらしい)というキチガイ沙汰だが、一国の首相が「誕生パーティを開いた」だけでこうなる、ということこそ、DSの存在を明白に示しているのではないか。


(以下引用)


英警察、官邸パーティー疑惑で捜査 政権不信増大も


配信

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時事通信

ジョンソン英首相=19日、ロンドン(EPA時事)



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人間の高齢化だけでなく建物・設備も「老朽化」

読売新聞とも思えない好記事だが、冒頭の写真はコピーできなかった。
これからは、高度成長時代やバブル時代のつけを全国民が税金で払うことになりそうである。つまり、一部の無責任な馬鹿の尻ぬぐいである。


(以下引用)

廃虚となった巨大観音像、なぜかオーナーは国…「税金」9億円かけて異例の解体工事中

2022年1月21日 13:03読売新聞オンライン

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東大理Ⅲという「虚栄の塔」

「絵に何が描いてあるかは明白に分かるが、何が描かれていないかは分からない」というのは私が以前に何度か書いたことだが、これは「何を言っているかは分かるが、何を言っていないかは分からない」「何を文章に書いているかは分かるが、何を書いていないかは分からない」ことの比喩であるのは言うまでもない。
下の文章も、「医学部に行くことと理Ⅲに行くことは意味が違う」ことは分かるが、「理Ⅲに行くことのメリットは何か」が書かれていない。単に「最難関だからこそ行く」という、劣等生から見たら、虚栄心としか思えない話である。まあ、自分から苦労を背負いこむだけの馬鹿の集団ではないか、とすら思う。努力することの価値と、その努力で得るものの価値は別の話だ。理Ⅲを出たからといって、医者としての能力が高いとはまったく言えないだろう。医者になるというだけで、普通の人間から見れば、あきれるほどの努力が必要なのである。その上に、東大理Ⅲを目指すことなど、「最高峰を目指す」という、いわば「自分は偉い、凄い」を周囲に示したいという虚栄心以外の意味は無い。つまり、学歴社会のヒエラルキーの象徴が理Ⅲだが、その「虚栄の塔」のために膨大な数の若者が無内容な「受験勉強」に苦しみ、貴重な青春の時間を勉強だけに費やし、それに耐えきれない者は劣等感を持ち周囲から軽蔑の視線を浴びながら廃棄されるわけだ。まあ、社会のほとんどの人間は高学歴の人間から見れば、そういう廃棄物だろう。
ついでに言えば、理Ⅲを出た人間が日本の支配層になるわけではない。成蹊大だろうが法大(明大か?)だろうが、前々総理と前総理である。地方議員には三流どころか名前も聞いたことが無い私大卒もたくさんいる。政治だろうが普通の会社内の出世だろうが、出世したければ、学校の勉強をするより、弁舌を磨くのがマシだろう。そう言えば、アナウンサー出身の女性政治家も多い。なぜか右翼系というか、自民党系に多いのは、彼女らが「社会を泳ぐための嗅覚」が鋭いからだろう。

(以下引用)


 
 
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受験生が切り付けられた現場を調べる捜査員ら。逮捕された少年は在籍する高校の偏差値を叫んでいたという(時事通信フォト)© NEWSポストセブン 提供 受験生が切り付けられた現場を調べる捜査員ら。逮捕された少年は在籍する高校の偏差値を叫んでいたという(時事通信フォト)

 新型コロナウイルスオミクロン株の拡大により濃厚接触者の入試方法が変更されるなど注目を集めていた2022年の大学入学共通テストは、初日に起きた東京大学前の刺傷事件によって、別の関心も集めることとなった。殺人未遂で現行犯逮捕された名古屋市在住の私立高校2年生の少年は事件の目撃者によれば、事件時に高校の偏差値や「僕は来年東大を受けるんです」と叫んでいたという。警察で「医者を目指し東大(理III)に入りたかったが、約1年前から成績が振るわず自信をなくした」と話していることが報じられ、動機と起こした事件のちぐはぐさに驚かされた人も多いだろう。俳人で著作家の日野百草氏が、東大に入ることを当然と考える子供たちがどんな心の闇を抱えるリスクを背負うのか探った。


 * * *


「東大に入れなければ負けです。極端ですが日本のトップ校の子というのはそういうものです。とくに理IIIは別格です」


 そう言ってのけるだけのトップ校を卒業した教育関連企業のベテラン室長が語る。


「日本のトップ校というのは田舎の公立進学校の話ではありません。本当に日本のトップ、選ばれた子供たちが通う学校のことです」


 それは開成、灘、筑波大学附属駒場(以下、筑駒)、桜蔭、ラ・サール(鹿児島)、麻布、東大寺、洛南、甲陽学院、東海(愛知)といったテレビでもお馴染み、全国区のトップ私学だという。東大、まして理IIIとなるとこうした中学から(高校入学もまれにある)一貫校に入る道を選ぶことが多い。もちろん地域によっては地元公立のナンバースクール以外選択肢のないところもある。本稿では便宜上、東大に入ることが当然のような日本の最上位層の私学を「トップ校」としている。


「日本でトップを競う子たちです。口には出さずとも小中時代は誰もが東大、とくに理IIIを目指します。東大生は珍しくもありませんが、理IIIとなると別です」


 あえて平易に書くが、東大の理III(理科III類)とはいわゆる東大医学部のこと。日本国の受験でもっとも難しいとされている。実際、日本の大学受験の最高偏差値は常に理IIIである。定員はわずか100人。


「勉強で勝ち続けた受験エリートが集まる学校ですから、できれば一番偏差値の高い大学の、一番偏差値の高い学部に入りたい、それが理IIIなわけです。プロ野球とかと同じ構図ですね」


 なるほど、確かにプロ野球も強豪校には少年野球のエリートが来る。その中でプロになる子は一握りどころかひとつまみ、東大理IIIも毎年の合格者が約100人と考えればプロ野球も全12球団で毎年約120人(例外あり)がドラフトに掛かるわけで、そのジャンル別の難易度はともあれ数字の上では似ているかもしれない。


「はい。野球やサッカーのエリートがプロを目指すように、受験のエリートは理IIIを目指します。あくまで最初は、ですが」

秀才かつ受験に特化した訓練と対策をした人しか東大理IIIは入れません

 素朴な疑問だが野球やサッカーのエリートはプロを目指す、理IIIということは医者を目指すのだろう。ごく一部には医師免許を持たずに研究者を目指す場合もあるが、ほとんどは医者になる。理III入試という日本で一番難しい試験に合格することと医者になることは命題が違うような気がするのだが、どうか。


「いえ、トップクラスの子たちにとっては医者より理IIIなんです。親や学校からずっと思い込まされてきた子たちです。洗脳と言っても構いません」


 洗脳とは穏やかでないが、親にそのつもりがなくとも、そうした学校や環境で自然とそう思い込んでしまう子もいるのかもしれない。だが、程度の差はあれそれくらいの「受験マシーン」にならなければ日本のトップ校、まして日本の受験上位100人とされる理IIIには入れないのだろうか。


「違います。それでも入れないんです。いや、受けるレベルに達しない。よく『勉強しない秀才が入った』なんて話がありますが実際はどうか」


 極稀にニュースでスポーツなど他のことも成し遂げながら理IIIに入れてしまう子などが話題になるが、レアケースだからこその全国ニュース。受験業界からすれば、何十年も関わってきた関係者からすれば一般的な現実は違う、ということだろう。本旨ではないのでエクスキューズに留めるが、世の中には何もかも自然に記憶できてしまう特殊な人もいる。


「東大というだけならそういう子もいますが、理IIIとなると別です。(経験上は)秀才かつ受験に特化した訓練と対策をした人しか入れません。その上で受験の向き不向きがある、ともいえます。極端な向き不向きで理III受験に向いているような子、それを『才能』と言う人はいるかもしれませんが」


 日本中の子供は中学であれ、高校であれほぼ全員が受験を経験しているだろう、理IIIに入るのがその世代の受験上位100人余(多世代から入る浪人もいるだろうが)と考えれば恐ろしいほどの狭き門。ましてやその毎年合格者の3割から5割近くを占めるとされる筑駒、灘、開成、桜蔭の子たちは受験における「究極」だろうか。それにしても受験に「向き不向き」とは面白い話。


「おっしゃる通りその4校が日本では別格です。他のトップ校なら(理III は)数人出れば万々歳です。それすら凄い。田舎の公立進学校で1人出たら学校側も大喜びですよ。宣伝になります」


 受験の価値観はさまざまだが、こと理IIIとなると問答無用にトップ中のトップ、正直、普通に生きていると別世界のように感じる。実際、別世界なのだろう。しかし先の言葉を借りるなら「洗脳」が溶けないままに、その合格者100人余に入れなかった、その前の段階で否定された子はどうなるのか。


「これに限りませんが、普通は子供なりに軌道修正するじゃないですか。中学受験でふるい落とされて、高校受験でふるい落とされて、校内や予備校でふるい落とされて、どこかで『それなり』に落ち着きます。でもふるい落とされても洗脳が解けない、洗脳され続けてしまう、勝手に思い込んでしまう場合があります。その子次第、と言われればそれまでですが」


 かけっこの速い子も、いずれ明確なタイムでふるい落とされる。受験も模試なり定期テストで点数は出る。こちらも明確な偏差値の輪切りで志望校を決めるわけで、理IIIも不合格はもちろん受けるに達しない、という結果が100mの持ちタイムと同様に突きつけられる。芸術や創作の世界は才能のあるなしを量るに難いが、数字の世界は残酷なほどに明確だ。


「はい。だから怖いんです。それまで理IIIに行くはずと思い込んでいた受験エリートがその100人にはなれないと知ってしまう。洗脳がひどい場合や思い込みの激しい子だとおかしくなる子もいます。とくに学校のプレッシャーと家庭のプレッシャー、最近だとネットのプレッシャーの三方向で追い詰められた子は『それなり』に落ち着けなくなるのです」


 極端で多くの大人からすれば異常に思えてしまうかもしれないが、ずっとそう思い込まされてきた子供、その期待に応えてきた子供からすれば「逃げ場」が無くなってしまうということか。またネットというのは匿名掲示板やSNSはもちろん、学校や塾の仲間で内々に作られるメッセンジャーアプリによるグループのことだろう。昔はなかったこうした情報の氾濫もまた、多感な思春期には堪えるかもしれない。


「学校や教師によっては東大か医学部以外は負け、と考えるトップ校は普通にあります。私学も営利企業ですから理III合格者はいい宣伝になりますからね。それでも受験段階で多くはエリートとしての『それなり』に落ち着くのですが、そうなれない子は追い詰められます」


 なんだか甲子園常連の野球エリート校のようだ。少年野球時代はエースで4番でも3年間スタンド応援というのは珍しくない。もちろん大半は『それなり』の進路に落ち着いたり、野球部を去っても別の夢に切り替えたりするが、不器用で真っ正直な子供によっては行き場をなくす、いや、生き場をなくしてしまう。真摯で本気だったからこそ。親も学校も手を差し伸べなければ、そう錯覚してしまう。


「残酷ですけど、日本の上位100人とかになるって時点でなれない確率のほうが高いわけです。オリンピックのメダリストとか宇宙飛行士に比べれば間口は広いですが、プロ野球も理IIIもその点は同じです」


 同世代で「世界の数人」に比べれば間口が広いのは確か。例えばバレエは「世界一残酷な職業」とまで言われるほどに死屍累々である。日本限定なら将棋がその究極のひとつだろうか、あれは本当に残酷で、それをわかって目指すものだ。プロになれるのすらごくわずか、ほとんどが奨励会で挫折する。中には不幸な道をたどる人もいる。それらに比べれば同世代の100人は間口としては広いが、やはり理III合格が究極の「選ばれし受験勝者」であることには変わらないのだろう。


「医者になるという夢なら国公立でも私立大学でも、当たり前の話ですが東大以外たくさんあります。日本の最上位クラスの私立高校の子ならどこかの医大には入れるでしょう。裕福な家ばかりですしね。でも医者になりたいのではなく受験の頂点に立ちたい子もいるんです。そういう子は理IIIでなければだめなんです。そういう子の親も教師、学校もです」

たとえ勉強ができても心の不器用な子は追い込まれると思考停止に陥る

 2018年度から理IIIは面接試験が復活した。一連のオウム真理教事件で理IIIはじめ多くの理系エリートがカルトにハマり犯罪に関与したこと、合格者に同じ私学の高校生が大半を占めたことなどをきっかけに1999年度から面接が導入されたが、2008年度から廃止されていた。


「東京大学受験指導の専門塾とかにいる『医者になる以上に理IIIに受かりたい』という受験マシーンを排除するためでしょう。もっとも、そういう塾はその対策もしてますが」


 日本中の一番勉強ができる子供たちが受けに来るだけに東大、とくに人の命を扱う医師や研究者を養成する理IIIとしては対応に苦慮していることが伺える。あくまで目的は医師養成なので当然だ。


「それでも受験エリートはまず東大を目指すんです。理IIIを目指すんです。それは社会も認めています」


 受験業界の長い彼の話なので極端に思えるかもしれないが、こうしたトップ校は存在し、なにがなんでも理IIIという親子は実在する。テレビも東大には「東大王」として「王」までつけている。社会もそれを受け入れている。むしろ煽っている。


 しかし彼もその危険は知っている。最後に教えてくれた。


「いくらトップ校でも、挫折のリスクヘッジを子供に作らない学校や親は危険です。勉強ができることと心の器用さは違います。たとえ勉強ができても心の不器用な子は追い込まれると思考停止に陥ります」


 また中学受験や高校受験の成功を過信するのは危険だという。


「大学受験とは別です。子供によっては中学(高校)受験まで、という極端な子もいます。遊びまくったとか勉強サボったでなく、ただ大学受験に向いてない子ですね。不思議なんですが、偏差値70超えの学校に入れたのに大学受験では中堅大学がやっと、なんて子もいるんです。そのときこそ『それなり』に落ち着くことを親も学校もサポートすべきですね」


【プロフィール】


日野百草(ひの・ひゃくそう)ジャーナリスト、著述家、俳人。1972年千葉県野田市生まれ。日本ペンクラブ会員。出版社勤務を経てフリーランス。社会問題や生命倫理の他、日本のロジスティクスに関するルポルタージュも手掛ける。





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表現弾圧という「ファシズム」が勢力拡大している

「表現の自由」をどんどん縮小していく圧力について、筒井康隆のインタビュー記事である。末尾が尻切れトンボだが、「残りは文芸春秋本紙で読め」ということだろう。
いかにも筒井康隆らしい「まともな思考」であり、言っていることはすべて正論だ。小説などの中で何を書こうが、それは表現の自由である。右翼作家だろうが左翼作家だろうが、表現の自由はある。内容がアホらしければ、それは「まともな人間」には読まれないだけだ。マルキ・ド・サドの作品によってサディズムが生まれ、広がったわけではない。そういう性的嗜好の存在が表面化し、議論の対象とすることが可能になっただけである。
まあ、そのうち「聖書」も「論語」も禁書になるかもしれないwww

(以下引用)


 
 
 
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 30年以上も前に出した『残像に口紅を』という私の小説が、いま話題になっているそうです。20代の若者が動画投稿サイトで話題にしたところ、急に売れ出して、4ヶ月で11万5000部も増刷されました。


 4年くらい前には同志社大の後輩、タレントのカズレーザー君がテレビ番組で紹介してくれたのですが、あのときも10万部くらい売れました。若い人が紹介してくれることで、これまで僕の作品など読んだこともないような中高生が手に取ってくれていると聞きました。時代を超えて読みつがれることは、作者冥利につきますね。


 この小説は日本語の音が消えていく「文字落とし」という、和歌などで古来より使われている手法で書いています。「あ」という音がなくなれば「愛」という言葉は消えるし、「あなた」と呼びかけることもできなくなる。「ぱ」という音が消えると「パン」という言葉もなくなり、「香ばしく柔らかい食べ物」と言い換えざるをえなくなる。その上、小説の世界ではパンそのものが消失するのです。


表現規制を題材に『残像に口紅を』を書いた筒井康隆氏© 文春オンライン 表現規制を題材に『残像に口紅を』を書いた筒井康隆氏

 この徐々に言葉が消えていくという設定が、〈表現の規制が強まり、これまで使っていた言葉が消えている今の社会状況を予言していたのではないか〉と、言われたことがあります。たしかに、いまの時代、そうした読み方もできるでしょう。


 この小説を書いているときは、ユーモアのために、ある言葉がなくなると、できるだけ長ったらしい言い回しに置き換えてやろうと意図していました。いま振り返ってみると、いわゆる差別語の言い換えに対する皮肉も、意識の中にはあったように思います。

「美人」「美女」がルッキズムと批判される時代

 聞くところによると、いまは「美人」「美女」という言葉は、「ルッキズムだ」ということで、使いにくくなっているそうですね。このルッキズムというのも変な言葉ですが、外見至上主義とか、外見にもとづく差別や偏見を意味するのだとか。「美女」という言葉を使っていけないのであれば、もっと下品な言葉で、いくらでも言い換えはできます。まあ、ここでは止めておきましょう(笑)。


 ルッキズムだけではなく「主人」「旦那」や「奥さん」のように、性別によって立場や役割を決めつけるような言葉も使わないほうがいい、とされているとか。


 私に言わせれば、その程度でワーワーと騒ぎ立てるほうがおかしい。それこそ本当の言葉狩りになってしまいます。


 1993年ですから、いまから30年ほど前になりますが、私はこんなことを書いています。


〈小説に美人が登場しても差別につながるという常識が一般化した社会を想像することもでき、そんな想像を現実よりも先にしてしまうのが「炭坑のカナリヤ」としての作家であろう〉


「炭坑のカナリヤ」というのは、炭坑夫がガスの突出をいち早く知るためつれて入る、ガスに敏感なカナリヤのことで、これは私が発表した「断筆宣言」の一部です。


〈93年、国語教科書に掲載された筒井氏の短編「無人警察」に対し、日本てんかん協会が〈てんかんに対する差別を助長し、誤解を広める〉として抗議したことを契機に、筒井氏は「差別表現への糾弾がますます過激になる今の社会の風潮は、小説の自由にとって極めて不都合になってきた」として、「筆を断つことにした」と宣言した。〉


〈筒井氏は、てんかん協会と2度、往復書簡を交わして、互いの権利を尊重することで合意したが、断筆はその後も3年以上も続いた。解除されたのは96年。角川書店、新潮社、文藝春秋の3社と、「著者に断りなく表現を変えない」「抗議があった場合は著者の意思を充分に尊重して対処する」といった内容の覚書をかわして、執筆が再開された。〉


 このとき「断筆しろ」と向こうが言ったわけではありません。こっちが勝手に、半分おもしろがってやったのです。すると向こうが驚いたし、こちらも向こうが驚いたことに驚いた(笑)。


 個人が批判的なことを言ってくることは、その前からありました。しかし、あの時は、れっきとした団体が自分たちの名前を出して批判してきたので、これは、いかんなと思い、自分の立場を守り、表現の自由のために、真摯に対応しました。和解後も断筆を続けたのは、取材しておきながら小生の意見を少しも報道せず、その後もひたすら自主規制に走るマスコミの姿勢に不満があったからです。


 そのころから、いずれ「美人が登場しても差別」になる時代が到来するだろうとは思っていました。小説家としては当然のことですが、僕は基本的に「表現は自由だ」という立場です。「美人」でも「美女」でも使うのは自由だし、気に食わないのであれば、「おかしい」と言って騒ぐのも自由です。


 てんかん協会との往復書簡でも、僕は、〈抗議する自由と表現の自由を尊重し、このふたつの自由が共に何かを勝ち得たという形で終結を迎えることが望ましい〉と書いています。


 いま僕には誰も何も言いません。昔は出版社の校正者が、原稿に「この表現でいいですか?」と赤ペンで書きこんできましたが、ここ10年はなにを書いても、校正者の書きこみはないし、編集者も何も言わない。もうじき死ぬと思われているのでしょう(笑)。この人はもはやレジェンドだから、古典としての扱いにしようということなのか。


 いまでも若い作家に対しては、そのような校正からの指摘があるそうですね。それを見て、「この表現はいかんのか」と思って他の言葉に変えてしまうとしたら、僕に言わせると、作家のくせに何たることか、と。

「昔の作品を『直せ』と言われても、僕は直しません」

 昔の僕の作品を読み返したら、それはひどいものです(笑)。差別語満載。よくこんなことを書いたな、ということを平気で書いている。


 しかし、そうした昔の作品を「直せ」と言われても、僕は直しません。この時代に、こういう差別語があったという証明になるからです。小説は書かれたその時代の表現なのです。時代がたてば表現が変わっていくのは当然で、現在とはそぐわないものがたくさん出てくる。そうした言葉を残しておけるのは小説ぐらいです。


 僕は言葉のプロではなくて、あくまで作家のプロなのです。だから表現の自由の味方だし、その立場で発言してきました。以前、新聞社のインタビューでこう言いました。


「戦争が好きとあえて言ってみたらどうか。それが小説家だと思う」


 戦争について議論すると、みんな戦争反対ばかりですが、それでは議論は深まらない。人間の本質として戦争はなくなりません。戦争は面白いものなのですよ。小林信彦が『ぼくたちの好きな戦争』なんて小説を書いているし、僕も昔からそう思っていました。面白くなければ、こんなたくさんの戦争映画ができるわけない。


 自分が戦争に行くのは嫌だし、戦争を起こされたらたまったものではないけど、戦争は面白い、戦争映画は面白いと言ってもいいと思います。戦中や戦後、僕は人間の醜さを目にしたけど、千里山から見た大阪の大空襲を見て、美しいと思った。そのとき、そのときで感じたこと、考えたことを自由に言ったり、書いたりすればいい。まあ、無責任なものですよ。小説家だから。

死ぬまで追いつめてはならない

 ただ表現の自由か人権かと問われれば、一も二もなく人権、さらにいえば命のほうが大切です。


 誰が何を言ってもいい時代だからといって、SNSに非常に差別的な言葉や、誹謗中傷を匿名で書きこんでいる輩がいます。まずは、この問題に取り組むべきではないでしょうか。


 僕は30年前に朝日新聞で『朝のガスパール』を連載したとき、「パソコン通信」で読者の声を集めて、それを連載中の小説に反映させることを試みました。このとき投稿には署名が必要でしたが、にもかかわらず言葉が過激になっていくことがあった。電子空間で人は凶暴になるのです。


 一昨年、「テラスハウス」というテレビ番組に出演していた女性が、匿名でSNSに書きこまれた誹謗中傷に痛めつけられ、自殺にまで追い込まれたことがありました。


(筒井 康隆/文藝春秋 2022年2月号)





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酔生夢人
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仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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