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生の主観的価値と客観的価値

漫画家山本貴嗣(あつじ)のブログ「あつじ屋日記」から転載。

「けなげ」という言葉は幼い者が頑張っている姿に言うものだが、年寄りがこのように前向きに生きる姿にも、微笑ましいと同時に「けなげ」という印象がある。いや、人生の先輩たちに対して、そういう言い方は失礼か。

麻生大臣が、老人の延命治療に対し、終末期老人は「さっさと死ねるように」するべきだ、という趣旨の事を言っているようで、(引用2)それは私が前々から主張していることでもあるのだが、それには保留条件がある。その条件まで含めて言えば、「自分から死にたいと思う人間には、そのための便宜を図ってもいいのではないか」ということだ。麻生大臣の頭にあるのは老人医療費の国家負担のことだけだろう。私の「患者家族の経済問題をもっと考慮して、医療側は延命治療絶対主義を捨てるべきだ」という主張とは少し違うように思う。
今の老人延命治療は、本人がボケ状態になっていてもひたすら生かし続けるというものだから、家族にとっては金銭的に大変な負担であり、「生ける屍」状態の老人を生かしておくために他の家族は極度な生活水準低下や極貧生活を強いられる。そのようなことは、その老人にまともな意識があれば、当人にとっても耐え難い状態のはずである。少なくとも、私ならそう考える。だから私は、年を取って自分一人の力では日常生活が無理な状態になったら自殺する、という意思を自分のブログで書いてきたような記憶がある。(本当にやるかどうかは別である。その時にはあさましく生にしがみつくかもしれない。w)
もちろん、年金や障害者手当を受けることは国民の当然の権利であるから、自分で稼げるかどうかが問題なのではない。私は日常の起居や入浴、排便などに他人の手を借りてまで生きるつもりはない、ということだが、これは主に美意識に基づく私の個人的な思想であり、他の人には無関係な話だ。私が自分自身を「生きる価値無し」と判断した時には、潔く死にたい、と夢想しているだけである。その「価値」は他人が判断するのではなく、あくまで私自身の判断だ。
世の中には、自分だけでの日常生活が不可能でも、その人が存在するだけで周囲の人に好影響を与える老人や障害者は無数にいるだろう。そういう人は主観的にも客観的にも「生きる価値」が大いにある。しかし、私は、あらゆる人間に存在価値があるとは思わないし、逆に存在自体が有害な人間は無数にいると思っている。
念のために言うが、生活に他人の手を煩わすという程度の存在は有害であるとは思わない。政治家や官僚や実業家などの中のある種の「犯罪的存在」の話である。もちろん、本物の犯罪者も「生きる価値無し」である。(ただし、冤罪問題がある以上は、積極的に死刑を実施しろ、とも言わない。)

昭和天皇は生物学研究者でもあったようだが、侍従が天皇にある草の名前を聞かれた時に、「雑草」だ、と答えると、「雑草という植物は無い」と(多分、厳しい口調で)言ったそうである。
私は、昭和天皇の戦争責任問題などは別にして、昭和天皇の人格が優れていたことを、こうした些細な言動の中から窺うことができるように思う。
私のように「生きる価値のある人間と、この世から除去したほうがいい人間がいる」というような思想の人間と、「雑草という植物は無い」と言った昭和天皇とでは、人間のレベルが違うなあ、と思うし、それが天皇教育というものの一つの現れだと思うから、私は「尊皇主義者」なのである。
「雑草という草は無い」という思想は、人間世界に置き換えれば、「あらゆる人間は等しく生きる権利があり、等しく幸福になる権利がある」という、民主主義の根本理念になる、と言えば強弁になるだろうか。
そのような「民主主義的象徴天皇制」というのが今の憲法の特徴であり、特長なのである。だからこそ世界でも稀な、貴重な憲法なのだが、その憲法を弊履のごとく捨てようとする動きが、今日本の政治の中心にある。
そして、国民の生きる権利、幸福になる権利の最悪の否定が、憲法改定の向こう側に待っている戦争であることは言うまでもないだろう。


かなり強引な、というか、支離滅裂な文章展開になったが、まあそれは毎度言うように、私の文章は「行雲流水のごとし」であり、「出ずるかと思えば消え、逝きては永遠に帰るを忘る」ものだからご勘弁願おう。もともとあまり物事を精密に考える頭など無いのである。




(以下引用)



最後まで楽しく


 最近テレビでもCMやってるカリグラフィーの本。
 田舎の母が見て近所の本屋に行ったけど第一号がない(そもそも仕入れてない)貴嗣の近くに売ってないかって先日電話かかってきました。
 アマゾンでも売り切れだったので、近くを回ると幸い一軒目で発見。
 送ったのですが
 母は膠原病やリウマチで手足が不自由になっていて、もう箸も使えずサジで食事をしています。
 若い頃は生真面目なきれいな字だったのが、ミミズが這ったような字になり、本人は悔しがっていますが、私は、一生懸命生きてきた証だから胸張ってればいいよ、と言ってます。
 リハビリにでもなればいいけど、ちょっとペン字は難しいかなあと思いました。

 果たして電話がかかってきて、
 本は届いた、付録のペンとインクは使えないけど、記事だけ読みたい。
 週間で二年以上続くようだが購読できるか。
 医者の話だと最後まで自分は生きてないかもしれないが死んだら解約できるのか、と。

 さっそく書店で聞いて見ると、別に全然問題ないとのことで、購読頼んできました。
 がんばれママ♪

 友人のお母様も、もうかなりの御高齢だけど、なにやら資格試験の突破を目指して(友人は無理だと言ってますが)勉強中で公文にも通っておいでとか。
 老い先短い老人がめげすに前向きに生きてるのを見ると、若いのにグチたれて後ろ向きになってるヒマはないなと、頭をかいてしまいます;
 いや、そういう自分もかなり「古い」方になってきてるんですけど(笑




(引用2)


麻生副総理「さっさと死ねるように」 高齢者高額医療で発言
2013.1.21 13:08

麻生太郎副総理兼財務相は21日開かれた政府の社会保障制度改革国民会議で、余命わずかな高齢者など終末期の高額医療費に関連し、「死にたいと思っても生きられる。政府の金で(高額医療を)やっていると思うと寝覚めが悪い。さっさと死ねるようにしてもらうなど、いろいろと考えないと解決しない」と持論を展開した。

また、「月に一千数百万円かかるという現実を厚生労働省は一番よく知っている」とも述べ、財政負担が重い現実を指摘した。

http://sankei.jp.msn.com/life/news/130121/trd13012113100011-n1.htm




(引用3「スロウ忍ブログ」より転載)



2013年1月21日月曜日
麻生太郎副総理の終末期医療を巡る発言にマスゴミが揚げ足取り。
http://surouninja.blogspot.jp/2013/01/blog-post_3474.html

麻生太郎副総理兼財務金融担当相が、本日(2013年1月21日)開かれた「社会保障制度改革国民会議」で、終末医療について、「『生きられるから』といって生かされちゃかなわない。それを政府のお金でやってもらうと思ったら、ますます寝覚めが悪い」と述べたとのことである。

此の麻生の発言について、マスゴミ各社が一斉に叩いている様である。



1月21日 18時12分
麻生氏 終末期医療巡る発言で釈明
21日に開かれた「社会保障制度改革国民会議」で、麻生副総理兼財務大臣が終末期の医療について、「『生きられるから』といって生かされちゃかなわない。それを政府のお金でやってもらうと思ったら、ますます寝覚めが悪い」などと述べました。
このあと麻生副総理は記者会見し、「私の個人的なことであり、終末期医療のあるべき姿を申し上げたわけではない」と釈明しました。

だが、此れは飽くまでも麻生個人の意見であるのだから、其処まで叩く必要も無いと思うし、麻生の考え方が必ずしも間違っているとも俺は思わないけどな。

己の人生を医療業界の金儲けの道具にされたのでは溜まったものでは無いと誰しも思うだろう。「命を救う」という大義名分のもと、上から目線で患者に接する医者のやり方が正しいとは思えないのである。

人間は長生きしてれば何時かは癌になるわけだが、癌自体が死因というよりも、“癌治療”で殺されると言っても過言ではない。癌治療と言う名の“医療ビジネス”で人体実験の末に殺されるくらいなら、癌と共に生きていく道を俺は選ぶけどな。

体の中の黒子(ほくろ)を必死に探し出して、大げさに「癌認定」して、身体を開けたり閉じたりして高価なクスリを延々と投与してりゃ、ヤブ医者や多国籍製薬企業、そして厚労省の役人共はがっぽり儲かるのだろう。だが其の負担は、全部国民(特に若い世代)に降り掛かってくるわけだからね。






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酔生夢人
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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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