他人に向かって映画や何かの感想を言う時の心理を、かなり正確に表現していると思う。
感想なんて、個人の主観だのに、その「正当性」を他者から否定されまいと構えてしまう、という心理である。その反対に、自分の主観にすぎないだけの感想を、まるでそれが「絶対的真理」か何かのように断言し、周囲にもそれに強引に同意させないと気が済まない人間もいる。で、そういう人間の「主観」がその場の「空気」になるわけだ。
映画の感想などに限らず、日本的な集団的意思決定というものはだいたいそうではないか。
これを「声が大きい者が勝つ」と言えば話が簡単だが、その根底には弱気な大多数というもの、空気に弱い国民性というものがある。
声の大きさでなく論理的正当性で問題が決定されればいいのだが、日本人は論理的に考える習慣も欠如しているから、橋下徹のような詐欺師的ディベート強者に言いくるめられてしまい、そういう人間の意見が通ってしまう。そして、いったん、そういう決議が出ると、その場にいた人間はみな、その理不尽な決議に賛成した者(共犯者)ということになるわけである。
(以下引用)
2013-02-18 独楽な感想と言葉
ウェットな侍
何かを鑑賞した後、周りが面白かったと絶賛。
でも、自分はいまいち面白くなくて、言い辛いってことあると思うんです。
逆のパターンもあると思います。
私自身は、遠慮して言わなかったり、言葉を控えめに言ったりします。
それが悪いとは思いません。人間関係はとても複雑だし、他人を大事にしたい気持ちは良いと思うのです。
ただ、自分の言いたい気持ちが、残ってモヤモヤすることはありますし、ちょっと後悔することもあります。
なんでしょうね、あの言いたい気持ちは。
でも個人的には面白いとか、面白くないって、本当はどうでもよい話だと思ってます…っていうと語弊がありますが、ただ面白い、面白くないは本当にその時の個人的な主観でしかないと思うのです。
鑑賞は当の本人に、何の意味が生まれるかで十分価値があります。
その意味も、観る人の経験や好み、何かしらの不幸や、体調不良、時には座席の隣の人の言動にも左右されてしまうほど、揺らぎやすいものです。
言ってみれば当たり前のことなのですが、いざ感想を口に出す時、言う側も、聞く側も、言われる側も、その意識ではなくなるように思います。
そこが問題だと思うのですが、それも当然だと思うのです。
ややこしくてすいません(笑)
自分が感想を言うときは、どうでもよい個人的主観であっても、一生懸命に観て、感じて、考えたことを言いたくなります。
自身が何かしらを得たいのでそうなっちゃいます。
そうなると普通は、言われた方や聞く側も、どうでもいいって感じではなくなってしまいます。
「そんなの一意見なんだから、軽く流しときゃいいんだよ。」
っていうドライな意見もあると思いますし、そうじゃなきゃやってられないのですが、私はウェットで感傷的な日本人気質も良いなーと思うのです。
軽く流される方になったとき、ちょっと悲しいので。
ただ、私自身どうも現状対応の仕方ではちょっとモヤモヤするのです。
そんな時、凄くいいなーと思った言葉がありまして。
「恐れながら申し上げます」
です。
凄くいいなーと思うんです。
この言葉は相手の立場と敬意、自身の立場にさっと線を引いてはっきりさせますし、しかも清々しい堂々とした感じです(勿論、言い方はありますが)。
感動的な時代劇だと、忠誠あふれる家臣と、名君のお殿さまが、お互いの様々なことをくんだ上で、涙堪えて、決定を下しますよね。
以前は、まわりくどい、へりくだった言葉にしか思ってなかったのですが、ああいった身分社会で生まれた、文化的にウェットな言葉だと思えてきました。
「恐れながら申し上げます」…現代ではまんま使えなさそうですが(笑)
あの清々しさと、お互いを想う気持ちは活かしていきたいです。