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私の「哲学」

「哲学」という言葉に嫌悪感を持っている人もいるかと思うが、言語化されていなくても「人生哲学」を持って生きている人がほとんどだろう。哲学を嫌悪する人が嫌悪している哲学は「学問としての哲学」なのではないか。それなら私も同じである。
philosophyを日本語に訳するとき、「哲学」のほかに候補になった言葉のひとつに「希賢学」というのがあったとか聞いた記憶があるが、当然これは「賢者になることを希(のぞ)む学問」の意味である。しかし、私の勝手な印象だとむしろ職業哲学者の中に真の賢者は「希(まれ)」だから、「賢者が希な学問」の意味で「希賢学」だと言ったほうがいいのではないかwww 少なくとも職業哲学者が論じている事柄は世間一般の人には何の関心も影響も無い問題だ。

私自身の「人生哲学」は、つまり「世間知」であり、それは「いかにして人生を生きていけばいいか」という、特に青年期には重要な問題の答えである。それがたとえば「人間の本性は善である」とか「人間の本性は悪である」とかいう単純な答えにならないのはもちろんで、誰からも答えは得られないから、人によってはたとえば宗教にその答えを求めたりする。
そういう意味では私も若いころには聖書を読んだり般若心経を読んだりして人生と宇宙(世界)の「答え」を探したものである。で、般若心経の「一切皆空」の思想はその後の私に最高の心の平安と思想の土台を与えている。つまり、それが私の哲学と言えば哲学だ。しかし、これは「色即是空」であると同時に「空即是色」であるのは言うまでもない。(「色」は「すべての現象」の意味だとすればいい。)
思考の土台としてはデカルトの「分析と総合」が私の思考の基本である。物事はそのままでは思考対象として扱えないから、まず問題を構成要素に分解し、そのひとつひとつを検討し、その後でそれらを総合して答えを出す。これが基本だ。そうすると、たとえば誰かの議論の胡散臭さも分かる。たいていは「自分の結論に不都合な部分を隠し、都合のいい部分だけを結論の前提条件にしている」のである。言い換えると「結論から出発した議論」になっている。

まあ、「人生哲学」など無くても生きるのに不都合はないさ、というのもひとつの考えだが、若者の自殺も、ある意味では「人生は生きるに値しない」という哲学的判断だと言える。つまり、世の中には能天気には生きられない人間もたくさんいるのであり、しかもその悩みの答えは学校の教師も親も誰も教えてくれない、いや、教える能力はない。だが、ふと読んだ本や、ふと耳にしたたったひとつの歌が、その歌詞や曲がその人に生きる気力を与えるかもしれないのである。それも哲学のひとつだと言えるだろう。そういう意味では現代の「(声が楽器化して)歌詞の聞き取れないポップス」は、私には、何だかなあ、と思わせるのだ。

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酔生夢人
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男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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