早朝の散歩の時は、私の頭は思考の運動場になっていて、いろいろな思考や妄想が生まれてくる。その考察が、私の娯楽なのである。特に、世間の人間には些末事と思われることの考察が面白い。
今朝は、最初に考えたのが(これはしばしば頭に沸き起こる問題だが、それは散歩が「歩く」という運動だからだろう。)「正しい歩き方」はどういう歩き方か、という問題だった。特に、つま先着地か踵着地かは大きな問題で、これで歩き方の半分は決まると思う。普通は、自然に踵着地で歩く人が大半だと思うが、それは、はたして正しいのだろうか。踵着地は、着地の衝撃がモロに膝関節を直撃するのである。陸上競走などでは当然踵着地だが、それは運動選手の体(特に膝関節)が若く柔軟性があるからで、それと老人や一般人の日常の歩行を同一視してはいけないだろう。
私の意見は、足裏全体を着地させるのが正しいという考えだ。そのためには、膝が少し先行する歩き方になる。(膝先行歩行は「隠居爺」氏も同意見のようだが、氏は着地の仕方は論じていない。)*ファッションモデルなどは欧米人的な、足を棒のように伸ばした「膝を曲げない」歩き方をするようだが、それも例外。欧米人が中年以降異常に肥満するのは、彼らが「歩かない」からで、それは彼らの歩き方が間違いだから歩くのが苦痛になるからではないか。西洋での馬車や自動車の発達も、「歩かない」工夫の結果だろう。
私が歩き方にこだわるのは、サバイバルで生死を分けるのは体調であり、歩兵のように毎日長い歩行(行軍)をする生活だと、体調は歩き方で決まると思うからだ。まあ、サバイバルは妄想的思考だが、毎日の健康のためにも歩き方は大事だというのが私の考えだ。
足裏全体で着地し、そのまま体重移動をし、足が離れる時も足裏全体が同時に離れる。つまり、歩いている時間の半分くらいは左右のどちらかの足裏全体で体重を保持しているわけだ。これは爪先や踵だけで体重を保持するより安定的ではないだろうか。実際、この歩き方だと、私の故障している膝の負担がほとんどなく、疲労感も少ない。(疲労とは何かという考察もしたが、それは別の機会にきちんと考えたい。)
いつも考える問題以外に、散歩の途中で見た出来事などが、考察の対象になる。
今日は、シラサギが目の前の草むらを歩いているのを見た。ほんの数メートルしか離れていない私を気にする様子もなく、散歩していた。つまり、この辺のシラサギなどの野鳥は人を怖れていない。
その直後に見たのが、道の傍の家の新築工事らしい現場で、まだ7時ころだのにたったひとりで働いている男の姿だった。おそらく、現場監督か何かだろう。上の命令でいやいや作業している雰囲気ではなかった。作業空間の整理など、その日の作業の下準備をしているように見えた。
こういう人たちのおかげで、社会は上手く回っているのだろうな、と思った。いわゆる、地の塩である。
今朝は、最初に考えたのが(これはしばしば頭に沸き起こる問題だが、それは散歩が「歩く」という運動だからだろう。)「正しい歩き方」はどういう歩き方か、という問題だった。特に、つま先着地か踵着地かは大きな問題で、これで歩き方の半分は決まると思う。普通は、自然に踵着地で歩く人が大半だと思うが、それは、はたして正しいのだろうか。踵着地は、着地の衝撃がモロに膝関節を直撃するのである。陸上競走などでは当然踵着地だが、それは運動選手の体(特に膝関節)が若く柔軟性があるからで、それと老人や一般人の日常の歩行を同一視してはいけないだろう。
私の意見は、足裏全体を着地させるのが正しいという考えだ。そのためには、膝が少し先行する歩き方になる。(膝先行歩行は「隠居爺」氏も同意見のようだが、氏は着地の仕方は論じていない。)*ファッションモデルなどは欧米人的な、足を棒のように伸ばした「膝を曲げない」歩き方をするようだが、それも例外。欧米人が中年以降異常に肥満するのは、彼らが「歩かない」からで、それは彼らの歩き方が間違いだから歩くのが苦痛になるからではないか。西洋での馬車や自動車の発達も、「歩かない」工夫の結果だろう。
私が歩き方にこだわるのは、サバイバルで生死を分けるのは体調であり、歩兵のように毎日長い歩行(行軍)をする生活だと、体調は歩き方で決まると思うからだ。まあ、サバイバルは妄想的思考だが、毎日の健康のためにも歩き方は大事だというのが私の考えだ。
足裏全体で着地し、そのまま体重移動をし、足が離れる時も足裏全体が同時に離れる。つまり、歩いている時間の半分くらいは左右のどちらかの足裏全体で体重を保持しているわけだ。これは爪先や踵だけで体重を保持するより安定的ではないだろうか。実際、この歩き方だと、私の故障している膝の負担がほとんどなく、疲労感も少ない。(疲労とは何かという考察もしたが、それは別の機会にきちんと考えたい。)
いつも考える問題以外に、散歩の途中で見た出来事などが、考察の対象になる。
今日は、シラサギが目の前の草むらを歩いているのを見た。ほんの数メートルしか離れていない私を気にする様子もなく、散歩していた。つまり、この辺のシラサギなどの野鳥は人を怖れていない。
その直後に見たのが、道の傍の家の新築工事らしい現場で、まだ7時ころだのにたったひとりで働いている男の姿だった。おそらく、現場監督か何かだろう。上の命令でいやいや作業している雰囲気ではなかった。作業空間の整理など、その日の作業の下準備をしているように見えた。
こういう人たちのおかげで、社会は上手く回っているのだろうな、と思った。いわゆる、地の塩である。
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