最近では珍しい、ひどい広告を目にしたので紹介する。
今朝、地下鉄の中づりにぶら下がっていたものだ。
今月、長居公園である日本陸上競技選手権大会のポスターだ。
どこかの広告代理店が請け負い、コピーライターが考え、デザイナーが絵をつけた何案かのうちから主催者と、陸連が選んだものだろう。
日本陸上競技選手権は、日本の陸上競技の最高峰に位置する大会だ。実業団、大学、高校などから多くのアスリートがやってくる。
トップクラスの選手もいれば、そこには手が届かないが、キャリアハイを目標に大会に臨む選手もいるだろう。
このポスターは、敗者として長居競技場を去る多くのアスリートを「無価値だ」と断じているのである。
広告表現かも知れないが、よくもこんなひどいキャッチフレーズを採用するものだ。
昔、運動靴メーカー(名前は忘れた)が「走るから人間」というキャッチの広告を打って、身体障碍者の団体から抗議されて謝罪、広告撤回に追い込まれたことがあった。
アスリートたちは、自分たちと同じように運動ができない人間が馬鹿に見えて仕方がないときがあるようだ。
小学校時代、運動が苦手だった私は若い体育教師からみんなの前で「どこか体が悪いんと違うか、医者に診てもらえ」と言われて傷ついたことがあるが、こうしたスポーツ馬鹿の一念、勝者が絶対という狭量で思い上がった根性が、スポーツ選手を社会から遊離させた存在にする。
日本のスポーツは、普及がまったく進んでいない段階で、嘉納治五郎が「オリンピック」という冠を無理やりかぶせて、体制を急造した経緯がある。以来、メダル崇拝、勝利至上主義が蔓延して今に至る。
いうまでもないが、スポーツとは国民が健康で文化的な生活を送るための手段であり、能力があろうがなかろうが、だれにでも等しく享受する権利がある。
運動ができる者はその能力を磨いて高みを目指せばいいが、そうでないものは自分たちのレベルで体を動かすことを楽しめばいいのだ。両者はベクトルこそ違え、全く同格であり、等しく権利を与えられている。
しかし日本のスポーツ界は、「スポーツができる人間は、できない人間より偉い」と思っている。できない人間を排除するだけでなく、馬鹿にし、差別している。
甲子園至上主義の高校野球もそうだが、勝利至上主義、能力至上主義がまかり通っているのだ。
日本のスポーツ行政が貧困とされ、なかなかすそ野が広がらないのは「できるやつが偉い」と思っているアスリート上りがスポーツ行政を牛耳っているからだ。
スポーツのスの字も理解していない、スポーツ馬鹿が、行政をつかさどっているからだ。
2020年東京五輪に向けて、彼らの鼻息は荒いが、いくら金メダルをとっても、高齢化が進む国民のスポーツの機会が増えない限り、成果は皆無のはずだ。
子供の運動能力がみるみる低下する中、一握りのアスリートが金ぴかのメダルをぶら下げても何の意味もないのだ。国威発揚は北朝鮮に任せておけばいいのだ。
「ナンバーワンしかいらない」のならば、多くの陸上競技者は全国から時間や金をかけて大阪くんだりまでくる必要はないだろう。何日もかけて大会をする必要もない。みんな帰ってはどうだろうか。
桐生祥秀やケンブリッジ飛鳥など、数人のアスリートが何分か走ればそれで済む。1日でいいのではないか。
「一将功成りて万骨枯る」というが、多くの敗者たちは、勝者の捨て石になるために競技をしているのではない。
全国の競技者、そして一般市民に対して失礼にもほどがあるだろう。
今月、長居公園である日本陸上競技選手権大会のポスターだ。
どこかの広告代理店が請け負い、コピーライターが考え、デザイナーが絵をつけた何案かのうちから主催者と、陸連が選んだものだろう。
日本陸上競技選手権は、日本の陸上競技の最高峰に位置する大会だ。実業団、大学、高校などから多くのアスリートがやってくる。
トップクラスの選手もいれば、そこには手が届かないが、キャリアハイを目標に大会に臨む選手もいるだろう。
このポスターは、敗者として長居競技場を去る多くのアスリートを「無価値だ」と断じているのである。
広告表現かも知れないが、よくもこんなひどいキャッチフレーズを採用するものだ。
昔、運動靴メーカー(名前は忘れた)が「走るから人間」というキャッチの広告を打って、身体障碍者の団体から抗議されて謝罪、広告撤回に追い込まれたことがあった。
アスリートたちは、自分たちと同じように運動ができない人間が馬鹿に見えて仕方がないときがあるようだ。
小学校時代、運動が苦手だった私は若い体育教師からみんなの前で「どこか体が悪いんと違うか、医者に診てもらえ」と言われて傷ついたことがあるが、こうしたスポーツ馬鹿の一念、勝者が絶対という狭量で思い上がった根性が、スポーツ選手を社会から遊離させた存在にする。
日本のスポーツは、普及がまったく進んでいない段階で、嘉納治五郎が「オリンピック」という冠を無理やりかぶせて、体制を急造した経緯がある。以来、メダル崇拝、勝利至上主義が蔓延して今に至る。
いうまでもないが、スポーツとは国民が健康で文化的な生活を送るための手段であり、能力があろうがなかろうが、だれにでも等しく享受する権利がある。
運動ができる者はその能力を磨いて高みを目指せばいいが、そうでないものは自分たちのレベルで体を動かすことを楽しめばいいのだ。両者はベクトルこそ違え、全く同格であり、等しく権利を与えられている。
しかし日本のスポーツ界は、「スポーツができる人間は、できない人間より偉い」と思っている。できない人間を排除するだけでなく、馬鹿にし、差別している。
甲子園至上主義の高校野球もそうだが、勝利至上主義、能力至上主義がまかり通っているのだ。
日本のスポーツ行政が貧困とされ、なかなかすそ野が広がらないのは「できるやつが偉い」と思っているアスリート上りがスポーツ行政を牛耳っているからだ。
スポーツのスの字も理解していない、スポーツ馬鹿が、行政をつかさどっているからだ。
2020年東京五輪に向けて、彼らの鼻息は荒いが、いくら金メダルをとっても、高齢化が進む国民のスポーツの機会が増えない限り、成果は皆無のはずだ。
子供の運動能力がみるみる低下する中、一握りのアスリートが金ぴかのメダルをぶら下げても何の意味もないのだ。国威発揚は北朝鮮に任せておけばいいのだ。
「ナンバーワンしかいらない」のならば、多くの陸上競技者は全国から時間や金をかけて大阪くんだりまでくる必要はないだろう。何日もかけて大会をする必要もない。みんな帰ってはどうだろうか。
桐生祥秀やケンブリッジ飛鳥など、数人のアスリートが何分か走ればそれで済む。1日でいいのではないか。
「一将功成りて万骨枯る」というが、多くの敗者たちは、勝者の捨て石になるために競技をしているのではない。
全国の競技者、そして一般市民に対して失礼にもほどがあるだろう。