先ほど、以前のブログで使った「生き方」と「行き方」の違いを漠然と考えてみたが、後者はあまり人口に膾炙した言い方ではないというか、私の造語かもしれない。で、それを使ったのはそれなりの理由があるはずなのだが、自分自身でもそれが曖昧だったので、考えてみたわけだ。
その時に、「これを英語でどう表現できるかな」と思って考えてみたが、その時に、「英語と日本語を対照すること自体が、私の思考方法のひとつかもしれない」と考えたので、それを後に書く。
言うまでもないが、私は英語は大の苦手で、英米人との会話はほぼ不可能であり、英米の原書を一冊通して読んだ経験もほとんどない。にもかかわらず、英語がかなり好きなのである。英米人や英米文化の「植民地主義」や「白人優越思考」は大嫌いだが、英米の文化そのものはかなり好きだ。
さて、先に「生き方」と「行き方」の英訳をしてみる。
「生き方」は、たぶん「way of life」でいいかと思うが、「行き方」はどうか。私の案は「way of decision」である。(「decision」という綴りがあやふやなので、今調べたwww)つまり、「決定方法」だ。あれこれの問題に関して、その決定の仕方、癖である。たとえば、何も考えずに即断即決するのもひとつの「way of decision」で、これも立派な決定方法だ。つまり、「直観や本能に従って決定する」わけで、これは「論理や合理性に従って決定する」より、はるかに優れた判断になることもある。どころか、そのほうが正しい判断になることが多いのではないか。もっとも、女性が結婚相手を判断する場合、直観はたいていダメな方を選ぶようだが、それは(暴力的な悪党でも嘘つきでも「生存能力の高い雄」を選ぶという)「雌の本能」が「(親などが下す)冷静で常識的な判断」を上回るからではないかww
さて、日本語と英語を比較対照して、その概念の本質を考えてみるという方法は、言語間だけの話ではない。二つの要素、あるいはいくつかの要素を比較することで、その本質が明示化されるわけだ。たとえば、私がよくやるのは「ある単語の意味そのもの、その単語を構成する漢字の意味そのものや、漢字を構成する各部の意味を考える」ことで、これは英語でも単語を構成する各部の意味を考えることと同じである。これ自体はデカルトの「分析と総合」だが、その際に「比較検討をする」という部分があり、これが分析的思考の最重要点だろう。せっかく、買い物の値段の比較検討をしながら、同じ性質性能だのに、なぜか高い方を選ぶような「気まぐれ」「直観的行為」もあるのであり、しかもその選択がすべてマチガイとも限らないのが厄介なところだ。
要するに言葉とは「思考の道具」であり、自分に使える道具がトンカチやノコギリやノミしかなくても、それで雨がしのげる小屋を建てることもできるから、その道具をせいぜい使いこなすのがいいよ、という話だ。私にとっての英語はその(かなり質の悪い)ノコギリやノミである。ちなみに、コンピューターだけを使って家を建てることはできない。トンカチやノミが「武器にもなる」のはご存じのとおりだ。
その時に、「これを英語でどう表現できるかな」と思って考えてみたが、その時に、「英語と日本語を対照すること自体が、私の思考方法のひとつかもしれない」と考えたので、それを後に書く。
言うまでもないが、私は英語は大の苦手で、英米人との会話はほぼ不可能であり、英米の原書を一冊通して読んだ経験もほとんどない。にもかかわらず、英語がかなり好きなのである。英米人や英米文化の「植民地主義」や「白人優越思考」は大嫌いだが、英米の文化そのものはかなり好きだ。
さて、先に「生き方」と「行き方」の英訳をしてみる。
「生き方」は、たぶん「way of life」でいいかと思うが、「行き方」はどうか。私の案は「way of decision」である。(「decision」という綴りがあやふやなので、今調べたwww)つまり、「決定方法」だ。あれこれの問題に関して、その決定の仕方、癖である。たとえば、何も考えずに即断即決するのもひとつの「way of decision」で、これも立派な決定方法だ。つまり、「直観や本能に従って決定する」わけで、これは「論理や合理性に従って決定する」より、はるかに優れた判断になることもある。どころか、そのほうが正しい判断になることが多いのではないか。もっとも、女性が結婚相手を判断する場合、直観はたいていダメな方を選ぶようだが、それは(暴力的な悪党でも嘘つきでも「生存能力の高い雄」を選ぶという)「雌の本能」が「(親などが下す)冷静で常識的な判断」を上回るからではないかww
さて、日本語と英語を比較対照して、その概念の本質を考えてみるという方法は、言語間だけの話ではない。二つの要素、あるいはいくつかの要素を比較することで、その本質が明示化されるわけだ。たとえば、私がよくやるのは「ある単語の意味そのもの、その単語を構成する漢字の意味そのものや、漢字を構成する各部の意味を考える」ことで、これは英語でも単語を構成する各部の意味を考えることと同じである。これ自体はデカルトの「分析と総合」だが、その際に「比較検討をする」という部分があり、これが分析的思考の最重要点だろう。せっかく、買い物の値段の比較検討をしながら、同じ性質性能だのに、なぜか高い方を選ぶような「気まぐれ」「直観的行為」もあるのであり、しかもその選択がすべてマチガイとも限らないのが厄介なところだ。
要するに言葉とは「思考の道具」であり、自分に使える道具がトンカチやノコギリやノミしかなくても、それで雨がしのげる小屋を建てることもできるから、その道具をせいぜい使いこなすのがいいよ、という話だ。私にとっての英語はその(かなり質の悪い)ノコギリやノミである。ちなみに、コンピューターだけを使って家を建てることはできない。トンカチやノミが「武器にもなる」のはご存じのとおりだ。
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