まあ、要するに、彼らの「怒り」は「固定された階級社会」への怒りとはならず、革命にも、有効な社会運動にもつながらず、うやむやになったようである。しかし、それが「ロックンロール」の精神とも言える「何か得体の知れないもの(既成秩序や道徳のように、自分たちを拘束するもの?)への怒り」「自由の渇望」となって続いてきたとは思うが 今ではその「ロック」な精神も、ただのお洒落な現代ポップスに圧倒されているようだ。
まあ、要するに「反体制運動」というもの自体が「体制の何をどう変えるのか」という具体性を持たず、明確な敵を特定していなかったのが彼らの無様な闘争とその結果だろう。
で、現代の若者たちは、彼らの「生き苦しさ」が経済的問題から来ていて、その根本原因は社会の見えない階級性にある、ということを分かっているだろうか。さらに、社会変革を叫ぶ一派(一部の野党議員たち)もまた、その見えない階級の上級国民であることに気づいているだろうか。
(以下ウィキから転載)
シリトーの文壇への登場は、『怒りをこめてふりかえれ』のジョン・オズボーン(en:John Osborne)、『ラッキー・ジム』のキングスレー・エイミス、『急いで駆け降りよ』のジョン・ウェイン(en:John Wain)など、「怒れる若者たち」と呼ばれる一派と時を同じくしていたため、そのメンバーの一人と見なされることが多い。
しかし、この一派の中心となった作家たちは、おおむねオックスフォード大学卒のインテリであった(ただし、オズボーンの学歴は高くなく、出身階級もシリトーと同じ労働者階級である)。この点、工場労働者の息子であり、自らも工場労働者であったシリトーとは異質のものであった。反体制を叫ぶ「怒れる若者たち」の怒りは、体制の改革と共に消えてゆく。しかし、シリトーの主人公たちはなおも怒り続ける。
社会が不当に築いた彼らの周りの規制への反撥、その規制を守ろうとする権力者の偽善に対するアナーキックな憤りから、不道徳行為という方法で権威へのささやかなプロテストを試みる。しかし彼らの行動は、積極的に体制を破壊しようとする方向には向かわない。反体制的反抗ではなく「非体制的」な反逆とでも呼べそうなものである。