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「自己愛性パーソナリティ障害」という言葉への批判

長文の引用なので前説は簡単にし、いずれ詳しく書こうと思う。
前々から書いているように、自己愛は人間、いや動物の最大の本能であり、自己保存本能とほぼ同じである、というのが私の考えだ。
当然、その「自己愛」という言葉を病名に用いて、自己愛が異常なものであるかのように世間を誤って導くことに私は激しく反対するものである。
そういう意図ではない、と精神医学界が主張しても、すでにネットやマスコミでは「自己愛性パーソナリティ障害」という言葉が他者への悪口や批判の言葉として飛び交っている。その事実についての言及も下の記事にあるが、これはそもそも「自己愛性パーソナリティ障害」という命名自体が大きな問題である、ということだ。
しかも、たいていの場合、その悪口や批判は、「自分以外の人間が、自分の望むような行動を取らない」場合に、相手を精神障碍者扱いする、という用い方をされているはずだ。昔なら、単なる「エゴイスト」という、性格的問題とされていたのが、「精神障害」にされてしまうのだ。それは、逆に言えば、何か犯罪を行った場合に、「精神障碍者」として免責されることへの道を開いた、ということになるのではないか。
とりあえず、ここまでにしておく。
なお、後ひとつだけ無駄口を書いておく。「自己愛」の反対は「自己嫌悪」である、とすれば、「自己愛」を否定する立場からは(まあ、精神医学界もそこまでは言わないが)、「自己嫌悪」に満ちた「生まれてすみません」という人間こそが健全な人間になるのだろうかwww
「自己愛」の反対をもうひとつ考えれば、それは「無我無心」であり、こちらは仏教的な理想の状態である。そんな境地に至れるのは100万人にひとりくらいだろう。つまり、「自己愛」は「普通人の精神」なのである。この病名が愚かしいことは明白ではないか。せめて「過剰自己愛性云々」または「自己執着性云々」とでもすればまだよかったのだが。



(以下「白熊のくずかご」から引用)


「自己愛性パーソナリティ障害」という診断の意味を考える

 
www3.nhk.or.jp
 
 相模原市で起こった障害者殺傷事件の精神鑑定が終わり、診断名は「自己愛性パーソナリティ障害など」であると報道された。
 
 リンク先にもあるように、自己愛性パーソナリティ障害とは、「他者の都合を度外視し、周囲からの称賛を求めたり、みずからを特別な存在だと過度に考えたりすることを特徴とする」。それに関連して、自尊心が脆く、自分が軽視されたと感じると激怒や抑うつに陥りやすい。
 
 では、自己愛性パーソナリティ障害と診断することに、どのような意味があるだろうか。
 
 精神鑑定に関して言えば、責任能力を見極めるうえで、自己愛性パーソナリティ障害という診断名は大きな意味を持つ。すなわち、急性期の統合失調症や双極性障害*1のような重度の精神病性障害ではなく、また重度の発達障害にも該当しないのだから、責任能力に問題は無いことになる。
 
 この診断名には、私も疑問を感じない。報道されている情報と矛盾するものではないし、そもそも、専門家が時間をかけて鑑定した結果だからだ。これを踏まえて、裁判は粛々と進んでいくだろう。
 
 

「自己愛性パーソナリティ障害と診断すること」の曖昧さ

 
 その一方で、私は、自己愛性パーソナリティ障害という診断名の存在意義とはなんだろうか? と改めて疑問を感じた。
 
 ひとことでパーソナリティ障害といっても色々なものがあり、妄想性パーソナリティ障害や境界性パーソナリティ障害などは、精神医療の現場との関わりが大きい。なかでも、境界性パーソナリティ障害は患者さんの数も多く、社会的な影響も甚だしく、それでいて自殺や事故を防げれば存外に予後が良い疾患であるためか、積極的に研究が行われ、あれこれの心理療法的アプローチが考案されている*2
 
 かつて、境界性パーソナリティ障害という病名は、家族や医療関係者を振り回し、衝動的で、こらえ性が無く、自殺未遂やかんしゃくを繰り返す患者さんにレッテルのごとく付けられていた。しかし、21世紀に入って双極性障害や発達障害の割合が高くなったためか、最近は「まさに教科書どおりの、境界性パーソナリティ障害としか言いようのない」患者さんだけに診断されるようになった。それだけに、わざわざ境界性パーソナリティ障害と診断し、相応の治療的対処を試みる意味がくっきりしたと言えよう。
 
 では、自己愛性パーソナリティ障害はどうか。
 
 自己愛性パーソナリティ障害と診断される患者さんは、それほど多くはない。控えめに言っても、この診断名を積極的につけたがる精神科医は少ない。私が見知っている限り、境界性パーソナリティ障害と診断された患者さんを現在進行形で診ていない精神科医はそれほどいないだろうが、自己愛性パーソナリティ障害と診断された患者さんを現在進行形で診ていない精神科医なら、ごまんといるだろう。
 
 その一方で、自己愛性パーソナリティ障害は全人口の1~6%が該当するという統計も存在する。だとしたら、なぜ、精神科医は自己愛性パーソナリティ障害という診断名で患者さんを診ようとしないのか?
 
1.理由のひとつは、そういう患者さんには他に治すべき(そして治療的な対処が可能な)精神疾患が存在するからである。
 
 自己愛性パーソナリティ障害に該当する患者さんが、自分の性格を治したいと望んで医療機関を受診することはまず無い。ほとんどの場合、うつ病や適応障害といったほかの精神疾患に陥った時に受診し、早急な治療的対処を求めている。そのような患者さんに関して、カンファレンスの場で性格傾向が議論されることは珍しくないが、“第一の診断名として”自己愛性パーソナリティ障害が選ばれることは珍しい。
  
2.理由のもうひとつは、自己愛性パーソナリティ障害への治療的対処が確立していない点である。
 
 さきに挙げた境界性パーソナリティ障害に関しては、治療的対処について多くのことが語られ、研究もされている。精神医学のスタンダードな教科書『カプラン臨床精神医学テキスト DSM-5診断基準の臨床への展開 第3版』でも、境界性パーソナリティ障害の治療についてほぼ丸々1ページが費やされている。
 
 ところが、自己愛性パーソナリティ障害の治療的対処については、ほんの少ししか書かれていない。短いので抜粋すると、
 


 治療
 
 精神療法 患者が前進するためには彼らの自己愛を捨てなければならないので、自己愛性パーソナリティ障害の治療は難しい。カーンバーグ(Kernberg)とコフート(Heinz Kohut)のような精神科医は精神分析的アプローチによって変化をもたらすと唱道した。しかし、診断を確認し最良の治療を決定するにはこれからの多くの研究が必要である。理想的な環境において分かち合いを学ぶ集団療法により、他者への共感的反応を促すことができると論ずる臨床医もいる。
 
 薬物療法 リチウム(リーマス)が、臨床像の一部に気分変動を含む患者に使われている。自己愛性パーソナリティ障害の患者は拒絶にはほとんど耐性がなく、抑うつ的になりやすいので、抗うつ薬(特に、セロトニン作動薬)が有用な場合もある。

 たったこれだけである。内容的にも、あまり研究が進んでいないことがうかがえる。
 
 しかも悪いことに、この記載はひとつ前のバージョンの第二版と同じである。境界性パーソナリティ障害をはじめとする多くの精神疾患は、第三版になって内容がかなり書き換わっていた――つまり、それだけ診断や治療に進展があったわけだ――が、自己愛性パーソナリティ障害については、それほどの進展があったわけではない、ということである。
 
3.三つ目の理由は、これは私の推測混じりになるが、現代人は多かれ少なかれ自己愛性パーソナリティ障害に近い心性をもっていて、病的な自己愛と正常な自己愛の境目を議論するのが難しい、ということもあるだろう。
 
 この疾患の第一人者の一人、カーンバーグは、自己愛性パーソナリティ障害の人は、正常な自己愛とは区別される異常な自己愛を持っていると論じた。他方、もう一人の第一人者、コフートは、自己愛性パーソナリティ障害を未熟な自己愛とみなし、成熟した自己愛と連続的なものとして論じた。
 
 自己愛性パーソナリティ障害に該当する人のなかには、その心性に急き立てられて富や名声を求め、(一時的に、または永続的に)社会的成功をおさめる人も少なくない。病碩学の世界では、世界的指揮者のヘルベルト・フォン・カラヤンが自己愛性パーソナリティ障害の傾向を持つと論じられている*3が、私のみる限り、インターネットも含めたメディア上で名を成した人のなかには同じような心性を持った人が少なくないようにみえる。
 
 もっと卑近な例として、自己顕示的なtwitterアカウントのたぐいなどは、多かれ少なかれ自己愛性パーソナリティ障害寄りだと言えるし、「意識高い系」と呼ばれるような人達、「自撮り棒」で写真を撮ることを好む人達、鮮やかな体験をInstagramにアップロードすることを生き甲斐にしている人達についても、近い心性を持っていると想定される。そういった、現代人の典型ともいえる人々にパーソナリティ障害というレッテルを貼ってまわることに意味はない。
 
 
 こうした1.2.3.を振り返るにつけても、精神医療の現場で自己愛性パーソナリティ障害という診断名があまり選ばれないのは当然のことだと私は思う。他に治すべき精神疾患が併存し、研究がそれほど進んでおらず、正常と異常の境目の曖昧な疾患概念を、第一の診断名として選ぶのはなかなかできることではない。
 
 ちなみに私自身はコフートの自己愛理論を愛好しているので(→関連)、患者さんの自己愛の状態は意識するようにしているけれども、それですら、第一の診断名として自己愛性パーソナリティ障害と付けたことはほとんど無い。医療というコンテキストで考えるなら、他につけるべき診断病名があり、他に優先すべき対処があることがほとんどである。
 
 


鑑定上の「自己愛性パーソナリティ障害」とは「重篤な精神病ではありません」ではないか

 
 こうした実情を踏まえて、くだんの精神鑑定について考えると、鑑定を担当した先生が積極的に「自己愛性パーソナリティ障害」と診断したとは、私には思えないのだ。
 
 統合失調症や双極性障害に該当せず、種々の発達障害にも該当せず、境界性パーソナリティ障害のようなクッキリとした人格障害にも該当しないがために、消去法的に自己愛性パーソナリティ障害という診断名が“残った”のではないか、と想像したくなる。
 
 繰り返すが、報道されている範囲では、容疑者の振る舞いは自己愛性パーソナリティ障害の診断基準と矛盾しないようにみえる。しかし、これは精神科医が積極的に診断したくなるものとは考えにくい。鑑定を担当した先生は、いろいろな精神疾患をさんざん検討したうえで、ひねり出すような気持ちでこの診断名に至ったのではないだろうか。
 
 重大事件の容疑者には、ときとして自己愛性パーソナリティ障害という鑑定結果が付けられる。さしあたって、責任能力について判断する際には十分な診断名だろう。しかし、ここまで述べてきたように、自己愛性パーソナリティ障害とは曖昧な疾患概念なので、この鑑定結果から容疑者の内実を深読みするのは難しいように私は思う。記事詳細で“複合的な人格障害”という表現を伴っていることを踏まえるにつけても、「重篤な精神病ではありません」以上の読みは、しないほうが良いのではないだろうか。
 
 


どうか、「自己愛」が嫌悪されませんように。

 
 ところで、自己愛性パーソナリティ障害という言葉は、かなり悪いイメージを伴って巷に流通している。匿名掲示板やtwitterなどでも、この言葉が一種の罵倒文句のように用いられているのを何度も目にしてきた。尊大な態度や他者への無神経さが嫌われやすいことを思えば、それ自体は仕方のないことかもしれない。
 
 ただ、こういった重大事件の鑑定結果として(積極的か、消極的かに関わらず)自己愛性パーソナリティ障害という病名が登場するたび、私は、この診断名のイメージがますます悪くなるのではないか、ひいては、自己愛そのものを否定する人が増えるのではないかと心配になる。
 
 これが他の精神疾患、たとえば種々の精神病や発達障害なら、病名に対するスティグマが広がらないよう注意を促す人々が現れるものだが、自己愛性パーソナリティ障害についてはどうだろうか?
 
 自己愛の暴走がトラブルを生むこと自体は否定できないし、自己愛性パーソナリティ障害に該当し、現に苦しんでいる人がいるのも事実だ。だがそれだけでなく、自己愛は、自分自身のために切磋琢磨し、富や名声やスキルを掴むための原動力にもなり得るものだ。また、世間ではあまり知られていないが、自己愛の概念の範疇には、誰かに憧れたり応援したりする心性も含まれている。そういった部分も含めて、自己愛には健全な側面も多分にあるのだから、やたら否定せず、適切に付き合っていくべきだと思う。そして、例示したカラヤンをはじめ、自己愛性パーソナリティ障害に相当する心性を持っているけれども、否、ひょっとしたらそのおかげで社会的成功に至る人だっているのだから、ネットの巷で悪しざまに言われているほど、否定しないで欲しい、と願う。
 
 



*1:いわゆる躁うつ病のカテゴリ


*2:注:境界性パーソナリティ障害の心理療法的アプローチのなかには「急いで治そうと治療者が頑張り過ぎない」ことも含まれているので、やたらと一生懸命に治そうとするようなイメージを過度に持ち過ぎないようにご注意を。


*3:参考:中広全延『カラヤンはなぜ目を閉じるのか―精神科医から診た“自己愛”』、新潮社、2008


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