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女性漫画家の多くが陥る陥穽

これは面白い論考だが、全部を引用すると私が重要と思うポイントが不明瞭になるので、関連部分だけ引用する。
なお、私は女性漫画家の作品のうち成年女性向け漫画は苦手なので、紙屋氏の書かれている漫画家は東村アキ子以外にはまったく知らない。東村の漫画も、たいして好きではないが、紙屋氏がここに書いていることが分かる程度には知っていると思う。いや、実は東村の成年女性向け漫画はひとつも読んでいないのだが、よく理解できるのである。つまり、私が知っている成年女性向け漫画の範疇に入る内容だろう、と推定すれば、よく理解できるわけだ。
何だか、持って回ったような言い方になってしまったが、「知らない事柄について図々しく論じている」のだから、仕方がない。

で、何が言いたいかと言うと、「一般に信じられているのとは逆に、女性は理性と感情の切り替えがうまい」のではないか、ということである。と言うより、自分でも知らないうちに、その切り替えを見事に行っているのではないか、ということだ。
「女性作家の中での『物語作品』と『エッセイ作品』の出来の(良さの)差はなんなんだ」
という紙屋氏の問いかけは、「女性作家」とひとくくりにしてしまうとよろしくないが、多くの女性作家(女性漫画家)は、「エッセイ的作品」あるいはギャグ的作品では抜群の達成を示すのに、同じ作家が「物語作品」あるいはシリアス作品を描くと、本当につまらないものを描いてしまう。だが、彼女らが描きたいのはシリアス作品の方なのだろうなあ、というのも何となく分かるのである。
で、そのシリアス作品とは、要するに「恋愛とセックス」すなわちエロス方面の作品なのである。恋愛(への憧れ)をギャグで描いた「恋愛ラボ」のような傑作もあるが、女性にとって恋愛は概して真面目に扱うもので、そうなると第三者、特に男から見ると「正視に耐えない」ものになる。つまり、そこに描かれる「自己陶酔性」(というのは、作者自身のナルシシズムや理想が当然作品に反映されていると推測されるからだが。)が、見ていて何とも気恥ずかしいのである。
まあ、これが「女性コミック」を男が読まない理由の大きな部分だが、もちろん、女性コミックは女性読者を対象にしているから、それでいい。男から見たら女性コミックは女性用ポルノ漫画という印象にしかすぎない。絵柄が男性用ポルノ漫画より装飾的で女性的だというだけだ。そこにどのような「文学的」陰影があろうと、総体的にはポルノである。もちろん、私は女性コミックを読まないから、これは「知らない事柄について図々しく論じている」のだ、というのは最初に書いた通りだ。

さて、ここから女性一般を論じるが、これも「知らない事柄について」論じているのは同じである。私は女性になったことはないのだから知りようがない。あまり外界の観察が得意でもない、穴に閉じ込められた「山椒魚」的人間の感想だ。

女性は、自分の外部世界(社会)に規定された「女性だけに命じられた檻」の中で生きねばならないことを幼いころから意識して成長する、と思われる。もちろん、髪を長く伸ばし、スカートをはき、ピンク系の色を好む、というようなことが生来好きである、という場合が多いとは思うが、そういう「女性らしさ」を演技することもやがて覚えていくだろう。それが、この世界で楽に生きる方法だろうからだ。
つまり、女性は「嘘と演技」を生存の必修事項として身に付ける点で、頭のぼんやりとした男連中より、はるかに厳しい条件の中で成長していくわけである。
その結果どうなるか、と言えば、女性は「理想と現実」の使い分け、心の切り替えに熟達することになる。たとえば、恋愛の場ではあくまで理想を追求し、結婚では現実的になる、というようなことだ。

さて、ここで再び女性漫画家の多くが、なぜエッセイ作品で優れた才能を示すか、という問題に戻ると、彼女たちは、「社会の差別の中で厳しい現実を生きてきたから、現実をシビアに見る目が養われ、その現実の不合理性が笑いに容易に転化できることを知っている」からではないか、というのが私の仮説である。それは、エッセイ作品で扱うことはほとんどが「身の回りのこと」であることから推測できる。差別的状況の中で起こる不条理は、不条理だからこそ、現実なら悲劇、フィクションなら喜劇化できるのである。
だが、「物語作品」だと、現実を離れ、自分の「理想」を追求できる、と彼女たちは考える。そこに陥穽がある。理想とは結局自己愛の充足であり、野放図な自己愛の表現は見る者を辟易とさせる。

以上で、紙屋氏の疑問への回答とする。QED


(以下「紙屋研究所」から引用)

女性作家の中での「物語作品」と「エッセイ作品」の出来の良さの差はなんなんだ

 ぼくは(当時のぼくにとっての)女性マンガ家の一つの傾向として、作品ではかなり叙情的な絵柄を使うのに、エッセイコミックでは全く違う、上記のような絵柄を使うことへの違和感を抱いていました。


 絵柄が違うことそのものではありません。叙情的な絵柄の「本体の作品」の方は、「ふわっ」としていて「雰囲気だけ」で描かれていてつまらないのに、エッセイコミックの方は無性に面白い。なんで本体の方の作品もエッセイコミックみたいに面白くできなのかなあと。ふわふわした無根拠なものをなんで書いちゃうんだという苛立ち。


 例えば、高橋由佳利は『トルコで私も考えた』というエッセイコミックがものすごく楽しみで、そこで高橋の物語系のフィクション作品もいくつか読んだのですが、少なくともぼくにはピンときませんでした。


 初期のかわかみじゅんこなどもそうです。


 かわかみが登場して来たとき、世間で絶賛されていた『ワレワレハ』や『銀河ガールパンダボーイ』にぼくはあまり馴染めずに、そのまま忘れていたのですが、パリ暮らしを綴った『パリパリ伝説』に出会って熱狂しました。『パリパリ伝説』を経た後で発表されている物語作品であるところの『日曜日はマルシェでボンボン』や『中学聖日記』は、エッセイコミック的な諧謔が随所に生きています。




 このような「エッセイコミック的なもの」という絵柄を装備した東村は、登場からすでに(ぼくのなかで)アドバンテージを持っていました。


 ただ、最初は東村自身が苦戦していたとぼくは思います。


 つまり「女の新人漫画家が必ず一度はやっちゃうシリーズ」は東村自身の反省ではないのか、少なくとも自分の中にその要素があったのではないか、という自戒・自虐を込めているのではないでしょうか。




 東村の初期作品『白い約束』に、ぼくは不満があります。


 これも、ぼくのホームページに当時(2004年)の感想が残っているので、紹介しましょう。


 この漫画については、ある種の楽しみがあった。なぜかこの前、ぼくが同級生の女性2名と旅行先の電車に5時間閉じ込められ、退屈した女性二人が、ぼくが偶然持っていたこの漫画を読んだからだ(買ったばかりだった)。二人の感想は「だから何なのよ、というかんじ」「あんまり面白くない」であった。


 ぼくはその時点でこの東村の短編集を読んでいなかったので、『きせかえユカちゃん』を描いた東村はいったいどういう短編を描いているのか、家に帰って読むのが楽しみだったからである。もしぼくが面白いと感ずれば、女性二人との感性の違いは決定的となる。


 結果は、この女性二人の勝利といってよい。えーと、そこそこに面白いとはおもうけど、「だから何なのよ」と確かに言いたくなる。あれほどオトナのギャグが描け、「ヤングユー」で味のある短編を描いているくせに、この『白い約束』は、まるきし『ラブ☆コン』『ハツカレ』並のお子ちゃま度である。


 3つの短編に出てくるオトコが3人とも似た感じで(いや、東村はどの作品にもこのタイプのオトコが出てくる。よほど萌え萌えなのであろう)、3人とも魅力に欠ける。主人公となっている女性のイキのよさを殺している。


 同級生どもに、「これが東村という漫画家か」と思われたのがくやしい。いや、別に東村に義理はないけど。


http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/tanpyou0407.html#shiroi

ギャグが担保する客観

 東村はぼくの中では「ギャグの人」です(羽海野チカもぼくの中では長い間そういうポジションでした)。対象を冷徹に客観視して笑いものにする批評性は、『ママはテンパリスト』のようなエッセイコミックで本領を発揮しますが、そこから派生して『東京タラレバ娘』『海月姫』『ひまわりっ』のような物語フィクションにも生かされます。




 逆に言えば、ギャグとは別に、陶酔感が入り込む「カッコよさ」「叙情」「懐古」のようなものを扱うときは、危険さがつきまといます。


 つまり、下手をするとギャグやロジックのような客観性を担保する武器が封じられて「ちゃお」少女マンガのような「雰囲気だけで書いたもの」、陶酔感全開のものになってしまう恐れがあります。


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