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風の中の鳥 4

第三章 騎士への道

 六畳ほどの大きさの室内には、大きな木箱のようなベッド以外には家具らしい物はない。部屋の壁には、聖者の像が棚に載っていて、お灯明が上げられている。窓から見えた明かりは、この灯明であった。
「御覧の通り、ここにはベッドは一つしかない。床に寝て貰うしかないが、それでもいいかね」
 老人は、フリードをじっと見て言った。
 老人は、年の頃は五十くらいだろうか。背が高く、肩幅が広く、まだ腰も曲がっていない。骨太のがっしりした体は、若い頃何かで鍛えたものらしく思われる。頭はてっぺんがほとんど禿げて、灰色の髪がその禿頭の周りを後光のように囲んでいるところは、何やら神々しい感じさえある。しかし、その目は、鋭かった。
「もちろん結構です。屋根と壁さえあれば、文句はありません」
「食事はパンと水しかないぞ」
「それも結構です。私が干し肉と炙り肉を持っていますから、それを一緒に食べましょう」
「ほう、炙り肉とは有り難い。ここのところ肉とは縁がなかったから、肉の味を忘れておったところだ」
 老人は部屋の隅にあった大きな樽を運んできて、それを食卓にした。
「そのベッドに腰掛けなさい。わしはこっち側に座る」
 樽の上に置かれた炙り肉を老人は手に取って、逞しい歯で噛みちぎった。まだ、歯が抜ける年ではなさそうだ。
「うむ、美味い。年は取っても、やはり肉より美味いものはない」
 老人は美味そうに兎の炙り肉を食い尽くした。
「ところで、お前はどうしてこんな山の中を歩いておる」
「フランシアに行こうと思って旅をしているのです」
「ほほう、どうしてだ」
 フリードは返事に困ったが、嘘をつくことに慣れていなかったので、つい本当の事を言ってしまった。
「実は、人を殺して逃げているのです」
「ほう、そんな無邪気な顔をして、お主は人殺しなのか。どんな事情で殺したのだ」
 老人は面白そうな顔をした。フリードの言葉に驚いた様子はない。
 フリードは、この老人が自分の人殺しの話を少しも怖がらないので、安心して、村を離れた事情を話した。
 老人は、頷いた。
「そんな事か。それならお前には罪はない。父親を救うためにお前が役人に刃向かったのは、息子としては当然だ。だが、それでお主は居場所を失ったわけだな。そいつはとんだ災難だった。しかし、何が自分の幸いになるかは分からん。お前には、これからいいことがあるはずだ。お前は、いい顔をしている」
「あなたには、人の運命が分かるのですか? あなたは魔法使いですか?」
「そんなものではないが、人の運命は性格によるものだし、性格は人相に現れるものじゃ。悪相の善人などいた例はない。もっとも、美男がいい人相だというわけでもないがな。わしの知っている極悪人は、この上ない美男だったわい」
 フリードは、老人の言葉の端々から、この老人が数奇な運命を送ってきた人間であるように感じた。
「あなたは、どんな方なのですか」
 フリードは思い切って老人に尋ねた。
「おお、言い忘れておった。わしはジグムントと言って、フランシアの騎士だった者だ。長い間あちこちの戦場で人殺しをしてきたが、そんな暮らしに嫌気がさして、ここに籠もって隠者のような暮らしをしているのだ」
 騎士と聞いて、フリードの目が輝いた。騎士になることは、フリードの長い間の憧れだったのである。
「騎士の身分を捨てるなんて、もったいない」
「なあに、お前だってその気になれば、すぐに騎士になれるさ。どこかの戦場に潜り込んで敵の大将の首を一つ上げればいい。それを手みやげに仕官するのだ」
「そんな簡単なものですか」
「どこの国王も、腕のいい騎士は欲しがっている。ただし、そのために金を使うのはいやがるから、鎧兜を自弁して、馬も自弁できるなら、いつでも騎士として召し抱えるさ」
「そんなものですか」
「そんなものだ。世の中というものは、表を見れば雁字搦めだが、いくらでも抜け道があるものさ」
 ジグムントの言葉は、フリードを考え込ませた。自分は生まれた時から平民で、それ以外の身分になれるなどと考えたこともなかったが、そうではなかったのである。
「もしも、お前が騎士になりたいのなら、わしの武具をお前にやってもいいぞ。昔の記念に取って置いたが、どうせあの世までは持っていけん。先ほどの炙り肉の礼に、お前にやろう」
 ジグムントは、ベッドにしている木箱の上のマットを上げて、木箱の蓋を開けた。
 木箱の中から取り出したのは、見事な作りのプレートメイル、つまり、板金鎧である。兜や籠手もついている。木箱の奥から、老人はさらに、立派な剣を取り出した。
「どうだ。なかなか見事な剣であろう。戦場で何人もの敵を倒してきた業物だ」
 老人が鞘から抜いた剣は、獣脂でも塗ってあったらしく、錆一つついてなかった。さすがに、研いでないだけ輝きは鈍かったが、いかにも実戦で使われた物らしい風格がある。
「今のわしでは、これだけの重さの鎧を着ては動けん。お前はなかなか逞しい体をしておるから、大丈夫だろう。どうだ、わしがお前の従者をしてやろうか」
「えっ」
 フリードは自分の耳を疑った。
「いや、話をしているうちにもう一度世間を見たくなってきたのだ。このまま栗鼠や猿を相手に山の中で死んでいくのもつまらん。わしはお前の顔が気に入った。お前さえよければそうしてもいいが?」
「従者だなんて。私があなたの従者をするならともかく」
「騎士も従者も同じようなものだ。それに、この年では、騎士よりは従者の方がわしは気楽だ。戦場で命を賭けて戦うのはお前に任せる」
「分かりました。それなら、是非お願いします」
「だが、騎士になる以上は、いつ剣で命を落としても後悔するなよ」
「分かってます。剣一つで名を挙げるのは、ぼくの夢でしたから」
「本当のところ、戦場では、剣はあまり役に立たんよ。少なくとも、プレートメイルを着た相手には、長柄の斧か棍棒の方がよほど役に立つ。わしは、剣は、斬るよりも殴りつけるのに使ったものだ」
 ジグムントは、剣を片手に颯爽と戦場を駆け巡る自分の姿を思い描いてうっとりとなっていたフリードの想像に水を掛けるような現実的なことを言った。
 その晩のフリードの夢は、未来の自分が騎士の身なりで戦場に出ている姿だったが、敵の騎士(なぜかジグムントのような気がした)に棍棒で馬から叩き落とされるという、あまり威勢の良くないものだった。

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風の中の鳥 3


第二章 山の隠者

 急ぎ足で山を下りていったフリードだが、国王の追っ手が来るとしても、まだだいぶ先の事である。この辺の山の地理に不案内な追っ手がフリードを捕まえるのは不可能に近い。人相書きなどで指名手配することもない時代であるから、現場さえ離れれば、一安心だ。
 だが、これからは定住者であることをやめ、放浪の生活を送らねばならないことは、さすがにフリードに心細い感じを与えた。
 フリードは、ローラン国の東にある首都アルギアとは反対の方向に向かって歩いていった。そのまま西に歩き続ければ、隣国フランシアに出る。だが、隣国との間は、深い森や山があちこちにあって、楽な道ではない。道そのものがほとんど無く、山や林、森の間を歩いている時間の方が長い。そして、その山や森には狼や熊がいた。旅人が多く通る街道には宿もあったが、フリードには宿に泊まる金は無かったので、もっぱら野宿をすることになる。森や山で木の実や草の実を取り、兎や鳥を矢で射て食べるのが、彼の唯一の食事である。もしも獲物がずっと無い場合は、そのままそこで飢え死にすることになる。
 だが、三日ほど経つと、フリードの心には心細さはほとんど無くなり、自由で気楽な旅の生活を楽しむ余裕が生まれてきた。毎日違った風景と出会いながら暮らすのも面白い、という気持ちになってきたのである。こういった考えは、追い剥ぎや強盗など危険の多い旅を恐れ、必要以外にはほとんど旅をしなかった当時の人間としては、ジプシーを除いてはかなり珍しい部類に属しただろう。毎日が似たような作業の繰り返しである山の生活から、自由な空間の中に出た喜びを、今のフリードは味わっていたのであった。
 季節は夏になったばかりで、まだまだ涼しく、吹き渡る風は心地よい。フリードは、歩いて汗をかくと、近くの小川や湖に、素っ裸で飛び込み、日を受けてきらきら光る冷たい水の中で泳いだ。そして魚を追い、野山で兎や野鼠を弓で射て食事にする。今の人間から見れば、毎日が遊びのような羨ましい生活だが、獲物がなければ明日にでも死ぬという厳しさが、その反面にはあるのである。
幾日かの旅の後、やがてフリードは、ローラン国と隣国を隔てる国境となっている、森に覆われた低い山脈に来た。ここを越えれば隣国のフランシア国である。フランシアはローラン国の二十倍ほどの大きさの国だ。森林国のローラン国とは違って平野が多く、農業も商業も発達しているという話である。そこで何とか生きていく手段を見つけることが出来るかもしれない。
 山の麓で兎を三匹射たフリードは、それに岩塩をまぶしながらからからに火で炙って即席の薫製にした。山で獲物が見つからなければ、これが山を越える間の食料のすべてである。
 フリードの皮袋の中には、火打ち石と干し肉、岩塩のほかに、革の細紐となめし革が入っている。なめし革は、民家で金か食料に換えるために家から持ってきたのである。そのほかに縫い物針が一本。これは、当時としては貴重な物である。皮や布があっても、針がなければそれを衣服や靴に仕立てることができない。針に限らず、金属製品は、すべて非常に高価であった。たとえば、フリードが腰に下げている山刀一本が、貂や狐の毛皮十枚にも相当した。もっとも、その毛皮一枚が、頭のいい商人の手を経て貴族に売られると、山刀数本分に化けたのだが、フリードたち田舎者には、そんなからくりは分からない。
この時代、平民には、職人と商人、百姓、山人、ジプシーなどがいたが、一般に商人、職人、百姓の順にいい暮らしをしていた。百姓の一部は山人よりはいい暮らしをし、他の一部は山人よりも惨めな暮らしをしていた。職人は百姓や狩人よりはましだから、職人になりたがる百姓は多かったが、自分で望んでもなれるとは限らない。当時すでにギルドが出来上がっており、既得権を守り、同業者数を増やさないように、そのギルドが職人世界を支配していた。まったく、人間というものは、自らの目先の欲のために、好んで、この世を狭く息苦しくしたがるものなのである。世の中が進むにつれて、すべてが法や規制で雁字搦めになっていくのは、大抵の場合、その規制によって利益を得る商人や、それと結託した官僚など一部の人間のためなのであって、けっして世の中全員のためではない。
 山に入っていったフリードは、日が暮れてきたので、野宿できそうな場所を探した。
 適当な場所を探しながら歩いていると、山の谷間に小屋が見えた。しかも、人がいるらしく、宵闇の中で、窓から明かりが漏れているのが見える。
 あそこで一夜の宿を借りよう、とフリードは考えた。フリードの村では、村に迷い込んだ旅人に宿を貸すのは当たり前のことだったから、この家もきっと泊めてくれるだろうと無邪気に思ったのである。
 丸太を組んで作った小さな小屋の扉をフリードは叩いた。
「どなたじゃな」
 中からしわがれた声がした。中に住んでいるのは老人らしい。
「旅の者です。一晩、宿をお借りしたいのですが」
「……入りなされ。宿を貸すかどうかは、顔を見てからのことだ」
 奇妙な事を言う男だな、と思いながらフリードは扉を開けた。

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風の中の鳥 2

第一章 脱出

 今のポーランドに近いあたりに、ローラン国という小国があった。長いローマ帝国の支配の時代には国ですらなかったが、いつの頃からか、ルドルフという男がこの国の王となり、人々を支配し始めた。彼は西ローマの傭兵だった男であるが、十人ほどの仲間と語らってこの国で山賊を始め、やがてそれが数百人の武士団になったのである。そうなると、もはや彼らの支配に反抗できる人間は、百姓の中にはいない。もっとも、王と言っても、その暮らしぶりは、小さな荘園領主程度ではあったが、百姓以外の生き方を想像することもできない哀れな連中の中で王になろうというのは、良い思いつきだったと言えよう。
 彼は国民に農耕や牧畜の収入や収穫の半分を上納することを命じた。その代わりに、自分たちが他の山賊や他国の侵略からお前達を護ってやるのだというわけだ。まるでどこかの国に居座っている占領国の軍隊みたいな言いぐさだが、それを信じている住民も多かった。国王様のお陰で安心して生活ができる。有り難いことだ、と拝む者さえ出てくる始末である。それがこの純朴な時代の人心だったのである。人々は神話や伝説を半分以上信じていたが、それと同様に宗教家や為政者の作り上げる大嘘も信じていた。
 ルドルフは、大酒のみの乱暴者だったが、仲間には頭目としての能力を認められていた。第一に喧嘩が強いこと、第二に気前が良いことがその理由だが、もう一つ、彼の凶暴で執念深い性格が恐れられていたのが、彼が頭目になれた理由であった。人々を支配するには、愛情よりも恐怖が有効である、というのは、数百年後にマキアヴェリも書いている。
 喧嘩は強いが、計算能力は無い連中のことだから、王国の経営は放漫そのものであった。徴収した膨大な年貢の穀物はろくな保管もされず王宮の穀物蔵に詰め込まれ、その大半が腐っていった。
 この頃はすでにかなりな程度、貨幣は流通していたが、よその大きな国ならいざしらず、このような田舎国では年貢は当然物納である。しかし、王国の宮廷には、その物納された年貢を金に換えることのできる商才のある人間がいなかった。そこに目を付けたのが、この国の首都アルギアの商人ケスタであった。
 彼は王に申し出て、自分がこの穀物を金に換えようと言った。王にしてみれば願ってもないことである。
 ケスタが穀物を他国に売り払って、王に巨額の金を渡した時には、王は彼の手を握って感謝感激の体であった。その実、ケスタが穀物の販売代金の半分しか王に渡さなかったことなど、王は知らなかった。いずれにせよ、どうせ穀物蔵で腐っていたはずの穀物である。
 やがてケスタはその財政能力を見込まれて、王の宰相となった。ケスタは年貢の穀物を外国に売り払い、王室と自分の懐を富ませたが、その年貢を払うために国民の大半が食うや食わずの有様であることなど歯牙にもかけなかった。このにわか貴族は、平民が年貢のために餓死したところで、自分たち貴族には関係ないことだ、と思っていたのである。成り上がりの人間の大方は、そういうものだ。成り上がりの代表、豊臣秀吉が、刀狩と検地で身分制度を固定し、自分のような成り上がりが二度と出てこられなくしたのは、いい例であろう。百姓上がりの人間だから、百姓に対して恵み深い政治をするだろうなどというのは、甘い期待というものである。自分と同じ人間が出てくる事を恐れた秀吉の為に、彼以降の百姓は、二度と百姓の身分から浮かび上がれなくなったわけである。
 このローラン国の人口はわずか三十万人ほどである。国の大半は森林と野原と荒地と湖沼で、人間が住める耕作地は点在していたため、今なら、田舎の町程度の人口が、一つの国全体に散らばっていたわけだ。国には大きな町が三つ、中位の町が八つほど、小さな村が二十ほどあり、あとは村とも言えないような集落があちこちにあった。
 そうした集落の中に、狩人の村があった。山奥の盆地にある、わずか五十軒ほどの集落だが、王室の収税人も、この集落の存在は知らなかった。だから、王室による収奪も無く、比較的平和に暮らしていたが、豊かだったわけではない。冬など、一月も山を探して一匹も獲物の無い時期もある。そうした時は、木の根や草の根を囓って生き延びるのである。
 村には、村長がいた。村長というよりは、山の長である。狩りの名人で、百歩離れた所から木の上の栗鼠を矢で射ることができる。おそらく、常人の目には、百歩先の栗鼠など、姿も見えないだろう。
 その村長には息子が二人いたが、その長男がこの話の主人公、フリードである。
 フリードは、今年十七歳になる少年、いや、この時代ではもはや立派な青年である。背が高く、逞しい骨格をしていて、怪我をした大人一人を担いで半日以上山歩きができるくらい力が強く、持久力があった。山の民の常として、口数は少なく、穏和な性格だったが、決断が早く、思いこんだら梃子でも動かない頑固なところもある。顔だちは整っているが、滅多に笑わないため、愛嬌はあまりない。もともと田舎の人間、特に山の人間はあまり笑わないものだ。笑いは、文明の技術であり、自然に近い存在は笑わない。敵に対する軽蔑を表すために、誇張した笑いを笑うというのは、未開の人種でもあるが、日常的に笑うことなどはないのであり、田舎者は概して愛嬌には欠けるものである。
 この集落に、ある日、王の収税人がやってきたことから、フリードの運命は大きく変わった。
 二人の兵士を連れた王の収税人は、ムルドというこの狩人の村に対して、女たちが作る野菜の収穫、男たちの狩りの獲物の半分を王に差し出すように命令した。
 村長のアギルはそれを穏やかに拒絶した。今でさえ生存に十分とは言えない収穫や獲物の半分も取られては、村人が生きていけるはずはないからだ。それに、獲物である動物の死体を、どのようにして納めるのか。
「獲物の皮をなめして、それを納めるのだ。肉は干し肉にすればよいではないか」
 収税人の言葉に、アギルは首を横に振った。
「獲物は、我々が食っていくのにも足りないくらいだ。我々に飢えて死ねというのか」
「王の命令に背くというのか。ならば、兵士たちを差し向けて、お前たちを皆殺しにするぞ」
「それが王のすることか。王とはいったい何者なのだ。我々から獲物を取り上げる権利をなぜその男が持っているというのだ」
 もちろん、この当時の人間が、権利などという抽象的な言葉を持っていたわけではないが、これは小説である。作者が、昔にふさわしい表現を思いつかない場合もあるのだから、これから先、会話の中に現代的な言葉がうっかり出てきても気にしないでいただきたい。
 王の収税人は、背後に控えていた二人の兵士に合図をした。
「王の命令を聞かぬ者を、村長にしておくわけにはいかん。この者を捕らえよ」
 二人の兵士は、剣を抜いて前に進み出た。
 それを見て、アギルの後ろにいたフリードが前に飛び出した。
「やめろ、父に手を出すな!」
「邪魔をするなら、お前も殺す」
「やってみろ!」
 フリードは、素早い動きで兵士の剣をかわし、その腕を小脇に挟むと、逆に取ってへし折った。
 兵士は悲鳴を上げて腰を抜かした。
 もう一人の兵士が斬りかかる前に、フリードは、腕を折った兵士から取り上げた剣を構えていた。剣を使うのは初めてだが、山刀で熊や猪と戦ったことは何度もある。
 兵士の動きは、野生の獣の動きに比べれば、のろい。
 斬りかかる剣を余裕をもってかわし、フリードは剣を横に薙ぎ払った。
 兵士の首は宙に飛んで、収税人の足元に落ちた。
 収税人は悲鳴を上げて逃げ出そうとしたが、その前に屈強な村人達が立ちふさがる。
「フリード、短慮だぞ。王の兵士は千人以上もいるという話だ。彼らを差し向けられては、我々はひとたまりもあるまい。ここはわしが何とかするから、お前はすぐここから逃げるのだ。いいか、この国の外に出て、身が安全だと分かるまでは絶対に帰ってくるなよ」
 アギルは厳しい顔でフリードに言った。
「しかし、父上の身が危ないのでは」
「心配するな。わしは、お前の三倍も生きている。ここをどう処置すればいいかぐらい分かっている。さあ、わしを抱きしめてくれ。もしかしたら、これが永遠の別れになるかもしれん」
 フリードは、涙を流しながら父を抱きしめた。
「お前の弟のヴァジルは、あと半月は猟から帰ってこない。別れを告げている暇はあるまい。あいつにはわしからよく言っておこう。では、行くがよい」
 フリードは、父の言葉に頷いて、家に戻り、母に事情を告げて旅支度を整えるとすぐに村を出た。
 背中には、山歩きに用いる皮袋を背負い、腰に山刀を下げて、肩に弓矢を掛け、手には肩ぐらいまでの長さの樫の木の杖を持っている。これが放浪の旅に出た時のフリードの姿だった。
(お母さんはきっと、僕がほんのわずかの間だけ身を隠すのだと思っているだろうな。しかし、もしかしたら、お母さんの顔を見るのも、これが最後かもしれない。お母さん、御免なさい)
 フリードは、村を振り返りながら、心の中で母に謝った。

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風の中の鳥 1

プロローグ

 世界の大半がまだ森林に覆われ、人々がまだ神と悪魔、天国と地獄を信じていた時代。人間の世界は小さかった。
海を渡る手段として大型帆船はまだ存在せず、羅針盤も無い状態では、海を隔てた大陸と大陸との交通はほとんど無く、地続きのヨーロッパとアジアの間の交通さえも、アレクサンダーの東征以来ほとんど無かった。まだ、ヨーロッパの王族貴族が、坊主どもの口車に乗って、十字軍遠征などという狂気の侵略行為を行う以前のことである。
 森や山は静寂に包まれ、湖は水晶のように透き通り、谷川のせせらぎは清く美しかったが、自然は人間にとって後世のような賛美の対象ではなく、畏怖の対象であった。地表を覆う膨大な森林の木の根や岩石は農耕を拒絶し、人々は無限に広がる土地の中のほんの僅かな開墾地で耕作し、集落を作って生活していた。自然の災害は巨大であり、土地からの収穫は少なく、人々は絶えず飢えに直面しながら、自らのその状態を運命として大人しく受け入れて暮らしていたのであった。
 そして、自然の中でも、人間の世界でも弱肉強食の暴力がすべてを支配していた。
 人間の歴史が始まった頃、彼らの中で狡知と暴力の才能に恵まれた者たちは、徒党を組んで他の人々から物を奪い、人々を屈従させ、支配していったが、やがてこうした山賊野盗の末裔たちは、自分たちを王侯貴族と称し始めた。彼らは王侯貴族と庶民を区別し、生まれによる階級を作って、武器を持たない庶民からあらゆる物を取り上げ、税金や年貢を要求した。彼らはまた、自らの出自について様々な伝説を作り、自分たちは神に選ばれ、あるいはその優れた能力や人格のために人々の信託を受けて国を治めている階級なのだと人々に信じ込ませた。
 長い時間のうちには、嘘も歴史になる。
 こうして、世界には王侯貴族を主人公とした勇士や王者の物語が生まれた。名もない庶民たちも、自分たちとは一生縁のないそれらのロマンスに憧れ、長い冬の間、暖炉の炎の傍で古老や物知りの語る「高潔な」勇者たちの冒険談に聞き入った。
 しかし、庶民の中でも明晰な頭脳を持った者は、この世の身分制度の成り立ちについて、真実を見抜いていた。要するに、暴力によってこれらの階級は作られ、維持されているに過ぎないのだと。とは言っても、一度定まった身分制度の枠を越えてのし上がるのは、容易な事ではない。この世の理不尽さに立ち向かう気概の無い、多くの平凡な庶民は、自らの生まれた身分を運命として受け入れ、それに従うだけであった。だが、まだ法の無かったこの時代には、いや、いつの時代でも実はそうではあるが、自らを何者と定義づけるかで、自分が何者であるかは決まったのであった。
 これは、そうした時代に生まれ、天与の勇気と幸運に恵まれた一人の若者と、それを取り巻く人々の物語である。

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軍神マルス第二部 50

第五十章 時の流れの中で

「マルスと私にとって、この二年間の記憶ほど、楽しく大事なものは無いのよ。それをマルスが自分から忘れたいなんて、そんな、ひどいわ」
マチルダは泣き崩れた。
 トリスターナは青ざめていた。もう、マルスの秘密を自分だけの胸に置いてはおけない。
 トリスターナは、ロレンゾを片隅に引っ張って行き、マルスが知らずに父ジルベールを殺していた事を告げた。
 ロレンゾは大きくうなずいた。
「それじゃな。おそらく、悪魔にその点を突かれて、心を吸い取られてしまったんじゃ。最後の、アロンゾの鍵を知らせる言葉が、記憶のかすかな痕跡だったのじゃろうな。可哀想に」
ロレンゾは涙を拭った。
「国民全体の幸福の代償に、マルスは自分の最も楽しく生き生きとした二年間の記憶を失ったんじゃ。立派な国王じゃ。だが、もはや国王としての仕事はできまい。今のあれは、まったくの子供じゃからの」

 マルスは病気を理由に国王の座を下り、それまで宰相として政治を見ていたオズモンドが国王となった。
 トリスターナはアンドレと結婚してアルカードに行き、ピエールはヤクシーと共にパーリに向かい、パーリをボワロンから独立させる運動に手を貸して成功させた。
 ヴァルミラは、ピエールたちに協力した後、やがてグリセリードに起こった内乱に身を投じ、反乱軍の首領となってグリセリードからロドリーゴの一党を追い出して、シルヴィアナを退位させた。そして、グリセリードの女王の座に就いたが、誰とも結婚せず、一生を処女王として過ごしたのであった。
 こうしてアスカルファン、レント、グリセリードの友好関係は数百年続くことになったのであるが、その立役者であるマルスは、自分がそんな重大な役割を果たした事も知らず、故郷の山でマチルダと共に農牧業を営んで、のんびりと過ごしていた。
 いきなり十八歳になっていた事への戸惑いも、いきなりマチルダのような美しい奥さんが出来ていた事もマルスには夢のような事であったが、中でも、たまに町に出た時に、時々見も知らぬ他人が自分の顔を見て、土下座して拝むことには途方に暮れた。
 マルスには、なぜ人々が自分を「軍神マルス様」と呼ぶのか、さっぱり分からなかったからである。
 マチルダに聞いても、さあ、と笑うばかりである。
 だが、そんな奇妙な出来事はどうであれ、マチルダと四人の子供に恵まれて、平凡だが平和な暮らしをする事にマルスはまったく不満はなかった。
 マルスとの間に出来た子供にマチルダはオズモンド、ヴァルミラ、ピエール、ヤクシーとそれぞれ名づけた。
 何でそんな変な名前にするんだと聞いても、マチルダは笑って答えない。オズモンドやピエールはともかく、ヴァルミラやヤクシーなんて妙な名前ではないか。
 マルスがもう一つ疑問に思った事は、ロレンゾと名乗る爺さんが勝手に自分の家に居候している事である。
「わしはお前らの祖父みたいなもんじゃからな」
とロレンゾは言うし、マチルダもそれを快く受け入れているので、マルスもそれでいいんだろうと思っていたが、一つ気に入らない事があった。
「あの、お前のお祖父さんだがね」
「ロレンゾの事? ロレンゾがどうかして」
「子守りをしてくれるのはいいんだが、子供に妙な話をするんだ。まあ、罪の無いほら話か御伽噺だろうから、気にしなきゃあいいんだろうが、子供の頭に悪い影響を与えるんじゃないかと思ってね」
「どんな話?」
「戦の話や旅の話さ。それに出てくる主人公ときたら、一人で千人もの敵を弓矢で倒すなんて言ってるんだぜ」
「嘘みたいな話ね」
「嘘に決まってるさ。それに、僕は戦の話は嫌いだ。あんなのを聞いて育った子供がどうなるか知りたいもんだよ」
「大丈夫よ。子供だって、御伽噺と思って聞いているわ。ねえ、ヴァルミラちゃん」
「あら、私本当の話だって思ってたわ」

ピエールとオズモンドがオモチャの剣でちゃんばらをしている。
「あっ、お父さんだ。叱られるぞ」
マルスが外に出てきたのを見てオズモンドが言った。マルスは二人に笑顔で手を振って農作業に出かける。
「お父さんはなんでちゃんばらや戦の話が嫌いなのかな」 
オズモンドがロレンゾに聞いた。すっかり年老いてぼけてきたロレンゾは、「うん?」と聞き返す。そして笑って言った。
「お前のお父さんは平和主義者なのじゃよ」
「へいわしゅぎしゃって、弱虫って事?」
ピエールが聞き返す。
「誰よりも強くて優しい人間のことさ」



「軍神マルス」 完

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軍神マルス第二部 49

第四十九章 過去への逃避

ロレンゾはマルスの手の指を見た。ダイモンの指輪はまだその薬指に嵌っていた。
ヤクシーとヴァルミラは、今、巨大な竜と戦っていた。悪魔のもう一つの姿である。だが、二人とも、竜の爪や尾に打たれ、切り裂かれてあちこち血を流している。二人の体力は、もはや限界だろう。
ロレンゾはマルスの指から指輪を抜いて、自分の指に嵌めた。
「ロレンゾ……ピラミッド……」
マルスの口から切れ切れな言葉が洩れた。
「……杖……」
はっとロレンゾは自分の持っていた杖を見た。ピラミッドでマルスの見つけた杖である。
その黄金の握りをロレンゾは強く回した。握りが取れて、杖の上の部分に空洞が現れた。その中に、一枚の羊皮紙が入っている。
 古代パーリ語で書かれたそれを、今はロレンゾも読むことができた。
「アロンゾの鍵、それは神々よりも強き者、その名はクロキアス」
ロレンゾは指輪を悪魔に向けて声高らかに呪文を唱えた。あの欠けていた一語の所にクロキアスの名を入れて。
 悪魔はぎゃあっと叫び声を上げ、姿を消した。

気が付くと、四人は日照りで水の無くなっている川の川底に気を失って倒れていた。
空から落ちてきた水滴が、四人の顔に当たり、マルスを除く三人は目を覚ました。
空は真っ暗に曇り、今雨が降りだそうとしていた。
「雨だ。悪魔の呪いは解けたぞ。アスカルファンは救われた!」
ロレンゾは飛び起きて、神に感謝の祈りを捧げた。
ヤクシーとヴァルミラも抱き合って喜んだ。
 やがて降りだした雨は、これまでの日照りを補うかのように、豪雨となってあらゆる物を洗い流した。川底にはあっという間に濁流が流れ出す。
 
 ロレンゾに担がれて宮廷に帰ったマルスは、なおも意識を取り戻さなかった。
 マチルダはマルスに取りすがって泣き崩れた。もちろん、マルスが悪魔に見せられた映像は悪魔の作った幻覚であり、マチルダが浮気などするわけはないのである。
 日照りは終わり、作物は命を甦らせた。
 秋の収穫は、例年よりは少なかったものの、秋以降に作られた野菜類は豊作で、今年の冬はなんとか越せそうであった。
 国民の心配をよそに、マルスは眠り続けた。
 眠りながら、マルスは夢を見ていた。それは、故郷の山の夢である。
 母親のマーサがマルスを呼ぶ。食事が出来た知らせである。父親のギルが猟から帰ってくる姿を見つけてマルスは駆け寄る。ギルは髭面のいかつい顔にやさしい笑みを浮かべてマルスを抱き上げる。その二人を見ているマーサも微笑んでいる。

 やがてマルスは目を覚ました。およそ半年間、マルスは眠り続けていたのである。目を覚ましたマルスは、ベッドの上の自分にもたれかかるように眠っている美しい少女を見てびっくりした。まったく知らない少女だが、なぜか無性に懐かしい顔である。
 マチルダは、自分が枕にしていた物がかすかに身動きしたので目を覚ました。
「マルス! 目を覚ましたの?」
マチルダは驚きの声を上げてマルスの首にかじりついた。
マルスの方はこの見知らぬ少女からいきなりこんな親愛の表現を受けてびっくりしてしまっていた。
「あのう、済みません。あなたはどなたなんでしょう。それに、ここはどこなんですか」
「マルス、いきなり妙な冗談を言ったら承知しないわよ。皆あんたの事を心配していたんですからね」
そう言われても、マルスはどぎまぎするばかりである。どうもこの人は僕を誰かと勘違いしているようだ。でも、僕の事をマルスって呼んでいる。
マルスの様子がどうもおかしいと思ったマチルダは、他の部屋にいたロレンゾやカルーソー、トリスターナを呼んで来た。カルーソーがマルスに問い掛けた。
「マルス、君は自分の事をどう思っている。君は幾つになったんだ」
マルスは、この人たちは自分をからかっているのかと思ったが、本気で心配しているらしく思えたので、こっちも正直に言った。
「幾つって……十六になったばかりです」
周りのみんなは、互いに顔を見合わせた。記憶が退行してしまっている。
「では、君の父親と母親はどうしている」
「母は僕が八歳の時に亡くなりました。父親は、この前死んだばかりです。僕は山で猟師をしているんです。ここは町中ですか? こんな広い家はカザフでは見たことがない。ここは何というところです?」
 ロレンゾは、自分に見覚えは無いか、と聞いたが、マルスは首を横に振った。
 カルーソーは人々を隣の部屋に連れて行って説明した。
「十六歳のある時点からの記憶をすっかり失っとる。きっと、何か、耐え難いものが、この二年間の記憶の中にあるんじゃろう」
「そんなはずはないわ!」とマチルダは叫んだ。

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軍神マルス第二部 48

第四十八章 悪魔の囁き

意を決してマルスは壁の先に進んで行った。マルスの体は壁の中に消えた。その後からヴァルミラたちも続こうとしたが、壁に阻まれて、先に進めなくなった。
「マルス!」
ヴァルミラの声は洞窟の内部に空しく響いた。

マルスは一人になった事にしばらく気付かなかった。気が付くと、洞窟から普通の部屋に出ていたのが奇妙である。
「よく来たな。マルス、その指輪をこちらに渡して貰おう」
いつからそこにいたのか、一人の男の姿がそこにあった。褐色の肌に漆黒の口髭、痩せて背の高いその男は、かつて牢獄のヴァルミラの前に現れた男であり、また、シャルル国王をそそのかしてマルスと戦わせた男、マーラーである。
「お前が悪魔か」
マルスは言った。
「そう言ってもよい。この世での名はオマーと言い、またマーラーとも言ったが、もはやこの男の体は俺が乗っ取った」
「指輪は渡さぬ。俺はお前を倒しにここに来たのだ」
悪魔はおかしげにくつくつ笑った。
「馬鹿なことを。人間に悪魔が倒せると思うのか。まあ、聞くがよい、マルス。お前にいいものを見せてやろう。賢くなるぞ」
マルスの前に鏡が現れた。
「その鏡の中を見てみるがいい。何が映っている」
思わず、マルスは鏡を見た。
そこに映っているのはマチルダだった。
「お前の愛する女房だな。その女房が今ごろ何をしていると思う」
鏡はマチルダの部屋を映し出した。マチルダは、鏡台に向かって髪を梳かしている。身につけているのは薄物の夜着だけである。マチルダは後ろを振り返って微笑んだ。そこには一人の美しい若者がいた。マルスの小姓の一人である。若者はマチルダに近づいて、後ろから肩を抱いた。マチルダはうっとりと目を閉じて、若者の口づけを受けた。
「嘘だ! これはまやかしだ」
マルスは目を閉じて叫んだ。
「これは見たくないか。ならば、これはどうだ」
鏡には、ヴァルミラが映っている。見る間に、彼女は服を脱ぎ捨て、一糸まとわぬ裸体となった。そして、求めるようにマルスに向かって手を伸ばした。
「どうだ、これなら見たいだろう。これがお前の本当の心だ。なぜ、心のままに従わぬ。せっかく王位まで手に入れながら、なぜ自分の心を偽って生きるのだ。やりたいようにやれ。気に入らぬ者は殺せ。美女はすべて手に入れるがよい。ほら、この女はどうだ」
鏡には美しく微笑むトリスターナが映っていた。
「止せ! これがお前の偽りだと言うのは俺には分かっている。さっきのマチルダもお前が勝手に作った虚像だ」
「ほう、そうかな。ならば、これはどうだ」
鏡にはシャルル国王の恨めしげな顔が映っている。
「お前はこれまで無数の人間を殺してきた男だ。今さら善人面をすることはない。そう言えば、マルス、お前はずっと父親を探していたのではないか。父親が生きていれば会わせてやりたいところだが、残念ながら、お前の父親は、この前殺されてしまった。それも、お前のよく知っている男にだ。ほら、こいつだ、見てみるがいい」
思わず鏡を覗き込んだマルスは、しかしそこに自分の顔を見出しただけだった。
マルスは笑い出した。
「おかしいか、マルス。なるほど、鏡に自分の顔が映るのは当たり前、何の不思議もない。だが、そこが不思議なところさ。お前は自分の手で自分の父を殺したんだ。マルス、前のグリセリードとの戦いでお前が殺した、栗色の髪の武将、あれがお前の父のジルベールだ」
マルスは、悪魔の言葉が真実である事を直感した。マルスの心は空白になった。
 …………
「マルス、マルス!」
壁は消え、中に走りこんだヴァルミラは、床に倒れているマルスを見つけて揺さぶった。
マルスは目を開いて、白痴的な笑顔を見せた。ロレンゾが呟いた。
「いかん、精神をやられとる」
ヤクシーが、闇の中に何者かの姿を見つけて、剣を抜いて斬りかかった。
「ヤクシー、お前は我々の仲間ではないか。なんで人間どもの間にいるのだ。お前は生まれるところを間違えたのだ。今からでも遅くはないぞ、さあ我々の仲間になろう。ここにはお前の父親も母親もいるぞ」
笑うような、誘うような声がヤクシーに呼びかけた。
「ヴァルミラ、お前はマルスが好きなのだろう。マルスをお前の物にさせてやろう。マチルダになど遠慮することはない。思いのままに生きてこそ人間ではないか」
声はヴァルミラにも呼びかける。そして、続けてロレンゾにも言う。
「ロレンゾ、お前のためにマルスは死んでしまうことになるぞ。こんな無益で勝てる見込みの無い戦いは止めて、地上に戻るがよい。俗な人間どもの事など気に病むことはない。エレミエル教などというまやかしが滅びて、皆、本来の人間の姿に戻るだけのことだ」

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考えること
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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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