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昇る太陽 3

     参

 藤吉郎に縁談が持ち込まれたのも、彼の名が売れ始めたことの証明だろう。相手は、大した家柄ではないが一応は武士であり、素性不明の藤吉郎から見れば破格の出世とも言うべき相手である。藤吉郎はその縁談を承知した。相手の娘の器量は十人並み以下といったところであり、美女好みの藤吉郎の好みに合うはずはなかったが、この結婚によって彼は正式な武士となり、一応の確固とした格式が得られるのである。
 相手の娘から見ればこの結婚はとんだ災難とでもいうべきだろう。世の中に男は数あれど、よりによってこんな猿みたいな男と結婚しなくてはならないのだから。
 しかし、親の言いつけに逆らうほどの気持ちも無く、結局は結婚することになった。その事を後では満足に思いもしたはずだ。すなわち、後の北の政所こと、ねねである。
 相手の男、藤吉郎は、実際会ってみると、案外優しく、また、他の男にはない何かを持っていそうでもあった。
「わしみたいな男と一緒になって、残念だと思っているだろうな。いや、隠さんでも良い。わしが女なら、わしだってそう思う。しかし、わしが他の男に及ばんのは、この見かけだけだ。中味は誰にも負けん。頭は負けんし、度胸だってある。望みも高い。わしと一緒になったことを、けっして後悔はさせんからな」
 そう言って、藤吉郎はねねを抱いた。ねねは男のその言葉に何とも言えない思いやりを感じて、初めてこの結婚を良しとした。

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昇る太陽 2

     弐

 彼が織田家の末端の家来となったのも、お市の事が動機の一つだった。何となく、そこにいれば彼女との縁がありそうな気がしたのである。彼が信長の将来性を高く買っていたわけではない。人の評判では、若い頃はどうしようもない阿呆であったが、斎藤道三の娘を嫁に貰ってからは、人が変わったようになったという。と言っても、部下に対してえらく厳しい主人であるらしく、あまり良い評判は聞かない。どうしようもない癇癪持ちで、近臣の者を斬ったことも二、三度では済まないらしい。その一方では能力のある人間は下の者でも家柄に関係無しにどんどん取り立てるという話もある。長所短所それぞれといった所だろう。
 信長の家来になったのを機に藤吉郎と名前を変えた彼は、仕事を真面目にした。陰日向なく仕事をするという、それだけでも、この時代、人の目につくには十分である。やがて彼は上役の重宝な助手役として使われるようになった。その仕事というのは、台所の賄いである。つまり、食材やら燃料やらの仕入れと管理の仕事だ。
 藤吉郎は、ここで抜群の取り計らいの才能を見せた。彼がその役につく前よりも、費用を二割以上も節約したのである。と言っても食事の内容を貧弱にしたわけではない。前任者のように無駄な金を使わず、また費用の一部を懐に入れることをしなかっただけである。
 彼のそんな行為を周りの連中はあざ笑った。
「そんな事をしたって誰が見ているものかよ。自分一人できれいぶったって何にもなりゃしねえよ」
 聞こえよがしのそんな声にも藤吉郎はただ笑ってみせるだけだった。
「はっはっはっ。わしゃ頭が悪いもんでな。一は一、二は二としか勘定できんのじゃ。一を二に見せたり、三に見せたりするような、そんな器用な真似はよう出来ん」
 このような当意即妙の言葉に返答できる者は無く、相手は黙り込むのが常だった。
 以前の陰鬱な日吉丸を知っている人間には、今の藤吉郎は、驚くほど人が変わったと思っただろう。
 何より、明るくなった。もともと声は大きい方だったが、最近ではその大きな声があたりに響いていないことがない。大声で指示し、軽口を叩き、大声で笑う。その声がしないと、周りの人間は物足りない気にすら、最近ではなってきていた。
 すなわち、藤吉郎ここにあり、と織田家中の人間は誰でも知るようになってきていたのである。

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昇る太陽 1

         昇る太陽


         壱

 日吉丸、後の木下藤吉郎、いや、豊臣秀吉が、自分は何者かであるとの確信を抱いたのは、そう早い時期ではない。成人するまでの彼は、自分はとうてい二十歳過ぎるまで生きることはあるまいと考えていた。人より自分が勝れているという自惚れなどは、なおさらなかったのである。それも当然で、尾張の水呑百姓の子で、幼時に寺の小僧に遣られ、そこを数年で飛び出して後は、乞食同然で各地を放浪してきた人間に、自分をひとかどの人間であるなどという自信がある筈はない。寺の小僧だった時、同輩より多少は機転が利くという気持ちを持ったこともあったが、それもかえって同輩との折り合いを悪くする役にしか立たなかった。その後は乞食や物売りをしながら、あるいは野盗の下働きさえしながら、何とか食いつないできたのだが、そのような生き方にもこの頃では嫌気がさしてきて、いっその事、死んでしまおうかと思うことさえあったのである。
 その理由の一つは、生まれつきの醜さだった。背が人並みはずれて小さく、四尺三寸ほどしかない。子供の十二、三歳並みの大きさだった。その上、顔ときたら、猿そっくりである。それも萎びた老人に近く、愛嬌に乏しい。むっつり黙り込むと異様な凄みがあるのも、人に嫌われる理由の一つだ。反面、それを憐れんでもらえることもある。しかし、女にもてたことは生まれてから一度もない。母親だけはこの醜い息子を愛しんで何かと面倒を見てくれたが、養父などは彼をひどく嫌っていたものである。
 彼の不幸は、その容貌の醜さとはうらはらに性欲の強かったことである。それも美しい女が好きでたまらない。美しい女に好かれることは一度も無かったのだから、これは地獄と言うべきだろう。
 彼が織田信長の妹、お市の方を見たのは、彼女が他国に輿入れする日だった。館から輿に乗る、その僅かな間に見たのである。その時、この世にこれほど美しい女がいるということに、彼は目もくらむような思いがした。そして、その女を抱く男がいるということに、腹の中が黒くなるような煮える思いを感じたのである。
 このわずかに数秒の出会いが彼の運命を変えた。
 この空の下のどこかにあの女がいる。いや、あの女でなくとも良い。ともかく、あのような女が世の中にはいるのだ。それを抱くまでは俺は死ねない、と日吉丸は心に決めたのだった。

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風の中の鳥 43

第四十二章 再び風の中へ

 その頃ローラン国は、フリードの弟ヴァジルを殺して王位を簒奪したエドモンがずっと治めていたが、最初の頃の、人気取りのための寛大な施策は一年で終わり、後はいつも通りの過酷な政治が行われていた。
 エルマニア国でもフランシア国でも事情は同じであり、庶民の苦しい生活の上に王侯貴族の贅沢で放恣な生活が行なわれていたのである。そして、庶民の大半は、その事に何の疑いも持たず、したがって、改善の夢も希望も持たなかった。精神的には、彼らの多くは動物レベルにあったと言ってよい。ルソーという偉人が出て、この不平等の状態に気づかせるのは、まだ八百年も後の話である。驚くべき事は、その八百年もの間、人々の暮らしがほとんど変わらなかった事ではないだろうか。つまり、現在の状態から利益を得ている人間が権力の座にあるかぎり、世の中の進歩や改善はない。保守主義とは常に「所有に伴う心的傾向」であり、既存秩序の保護、すなわち既存上位階級の利益擁護でしかないのである。
長い目で見れば、庶民生活全体の底上げが行なわれることで、社会全体の生活水準は上昇するのだが、大抵の場合、上の者は下の者から物を取り上げる事で自分たちの生活の向上を図ろうとする。抑圧された人間が、自分たちの地位や待遇の向上を求めるのは、当然であるばかりでなく、未来の人間のためでもある。現在の不平等や不公平、不正義に対する不満申し立てが圧殺されることは、実は世の中全体の進歩が圧殺されることでもあるのだ。もっとも、だからといって完全に平等な社会が共産主義などによって実現可能かどうかは、別問題である。完全平等社会そのものも、それが理想的状態かどうかは分からない。ただ、生まれや身分などによる機会の不平等などの、理不尽な不平等や不公正は、あってはならないのである。現在の日本や欧米諸国が身分社会でないなどと、誰に言えるだろう。
ともあれ、社会を変えるのは、庶民の意識であり、その点では、思想家の役割は大きい。ただし、庶民には手の届かない、学術的な高級な哲学などはまた、一部の物好きのためのものでしかない。むしろ、大衆音楽や小説や漫画など庶民に密着したメディアの中の思想のほうが、現実を変える力になりうるのではないだろうか。
 フリードとライオネルは、ローラン国とフランシア国の境い目にある平坦な山脈からローラン国の側に出たのであるが、山を下りてすぐにある、フリードが以前に見たあの死滅した村には、人々が住みつき、ほそぼそと生活していた。だが、その貧しい汚い身なりや、沈鬱な顔を見れば、その生活の苦しさは一目で分かる。
 この村をフリードたちはすぐに通り過ぎ、次の村に向かったが、ここもまた同じような貧しい村であった。
 こうして、フリード達は、一月ほど旅を続けた。その間に見た光景は、悲惨と貧しさだけであった。
「お父さん、どうして皆こんなに貧しいの」
 ライオネルは、フリードに尋ねた。
 フリードは、この問いに、すぐには答えられなかった。その一部の理由は分かっている。百姓の収穫の半分近くが、領主に取り上げられているからだ。だが、それだけではない。そもそも、収穫そのものが、あまりに少ないのだ。
 フリードは、考え考え、息子にそう言った。
「じゃあ、どうして収穫を増やせないの」
「畑が少ないからだ」
「だって、土地はこんなにあるよ。手を付けていない土地がたくさんあるじゃないか」
「あれは、畑にはならない土地なのだ。木の根が広がり、石ころだらけで、地味も痩せている。あれを畑にするには大変な手間が必要なのだ」
「でも、やれば畑にできるんでしょう?」
「そうだな。だが、人々は、自分の畑を耕すのに精一杯で、そんな余裕などないのだ」
「手が空いてる人はいないの?」
「たくさんいる。だが、そういう人々は貴族といって、自分たちは働かない人たちなんだ」
「そんなのおかしいよ」
「そうだな。だが、この世の中はそんなものなのだ。貴族は剣を持っていて、人々はそれに逆らう事はできない。逆らえば殺されるからな」
「ぼくたちも剣は持っているよ。でも、貴族じゃないんだろう?」
「まあな」
 フリードは、自分の過去をライオネルに話した事はなかった。話せば、本当なら国王の息子として栄耀栄華を極めた人生を送れたはずが、只の猟師の息子になっている事をおそらく不満に思い、父親を恨むだろうと考えたからである。
「ぼくが国王なら、人々がみんな幸福に暮らせるような政治を行なうのになあ」
 無邪気に言う息子の言葉に、フリードは過去の自分を振り返り、恥ずかしく思った。
「お前は、本当にそう思うか?」
 フリードは真面目な顔で息子を見下ろした。
「勿論です」
「そうか。なら、国王になるがいい」
「まさか。そんなこと、できるわけありません」
「なぜできないと分かる。それなら、お前の言葉は本気ではないことになる。お前が本当に人々の事を考えるなら、そのために努力するがいい。国王になれるかどうか、やってみなくては分かるまい」
 フリードは、実は自分も一度はローラン国とエルマニア国の国王だったのだと言いたい気持ちを抑えた。
「人間はな、自分が何者になろうと思うかで、何者になるかは決まるんだ。だが、その人間だけがいくら偉くなっても、周りの人々を幸福にしないのなら、そんな人間は偉くならないほうがいい」
 フリードは、言いながら、果たして自分は周囲の人間を幸福にしただろうかと考えた。その時、脳裏に浮かび上がってきたのは、死んだジャンヌと、行方知れずのアリーの面影だった。
(俺は、あの女たちを幸福にできなかった。国王でいた間、俺はあいつらに目もくれず、他の女たちを次から次へと漁っていただけだった。まして、国の人々の事など考えたこともなかった)
 フリードは心の中で、ジャンヌとアリーに謝った。
 そして、この時、フリードの心には、ある決心が生まれた。ローラン国の国王エドモンを倒して、再びローラン国の国王になろうという決心である。ただし、それは自分のためではなく、人々を不幸から救うためだ。前には、敵を倒す口実として言った事を、今度は本気で実行するのだ。
 かつては、偶然の歯車が噛みあって、幸運にもローラン国とエルマニア国を手に入れることができた。二度も同じような偶然に恵まれることは難しいだろう。しかし、今度は、人々全体の幸福のために戦うのである。そのためなら、自分が死んでも悔いはない。
 自分のためなら、山の中で猟師としてひっそりと生きていく事に不満はない。しかし、この世の不平等と人々の不幸にはっきりと気づいた以上は、それを無視することはできない。フリードはそういう人間であった。
 エドモンは弟ヴァジルの仇ではあるが、フリードはその敵討ちをしようという気は無かった。ヴァジルが殺された一因は、彼の悪政にあり、自業自得である。しかし、そのエドモンもまたこのように悪政を行なっているなら、それを倒すべきだ。
 フリードは、そのように考えた。
 ライオネルは、何かを考えながら、彼の傍を歩いている。フリードはその息子に優しく語りかけた。
「昔、東洋のある国で、一人の奴隷が、国王の御幸を見て、『ああ、男に生まれた以上は、あのような身分になってみたいものだ』と言ったそうだ。すると、周りの奴隷たちは、『ただの奴隷が、何を夢のような事を言っている』、と馬鹿にした。すると、その男は『小さな鳥どもには、大きな鳥の考えなど分からないのだ』、と言ったという」
 ライオネルは、興味深そうな顔で、それを聞いて、尋ねた。
「それで、その男はどうなったの?」
「さあな。そこまでは知らない。だが、お前がもしも大きな鳥なら、風に乗ってどこまでも飛んで行くがいい。人間は、志が大事なのだ。何かをやろうというその意思があれば、きっとどこまでも飛んで行けるだろう」
 ライオネルは、父親の逞しい体を見上げて、頷いた。
 フリードは、青空を見上げた。そこには、風の中を飛んで行く一羽の鳥の姿があった。


                「風の中の鳥」完 
 

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風の中の鳥 42

第四十一章 誕生と死

 春が終わり、爽やかな初夏の風が吹き始める頃、ミルドレッドは子供を産んだ。赤銅色の髪をした可愛い男の子である。
 ライオネルに約束した通り、フリードはその子にライオネルという名を付けた。
 ライオネルはすくすくと成長し、丈夫な子供に育っていった。
 ライオネルが五歳になった時、フリードとミルドレッドの良き友人であり、ライオネルにとっては優しい祖父の役割をしていたジグムントが死んだ。彼は自分の一生に満足し、穏やかに、眠るように死んでいったのである。その晩年を「家族」と一緒に過ごせたのは、彼にとってはもっとも嬉しい事だっただろう。
 フリードは、自分にとって大きな道しるべとなり、生きる手助けを与えてくれたこの恩人を、家に近い日当たりのいい丘に埋め、墓標を立てた。十字架ではなく、名前を彫った石の墓標である。ミルドレッドが簡単な字の読み書きができたので、字は彼女が書いた。
 家族三人だけの暮らしは静かで平和に過ぎていった。 
フリードはライオネルに弓を教え、獲物を取る事を教えた。
 ミルドレッドは、読み書きと剣を教えた。
 そして、ライオネルが十歳になった時、この地方を襲った流行り病に感染して、ミルドレッドは死んだ。彼女は、村に買出しに行った時にこの病気にかかり、それはフリードとライオネルにも伝染したが、この二人は辛くも生き延びたのである。
 彼女を葬った後、フリードはしばらくは悲嘆にくれ、何も手につかない状態だったが、やがて、この思い出多い山小屋で暮らす事に耐え切れず、ライオネルとともにこの山を出ることにした。
 フリードは今では三十歳になっており、当時としてはけっして若くはなかったが、そのがっしりと逞しい体にはいささかの衰えも無かった。
 そして、ライオネルの方は、しなやかな体の中に、野山の活動で鍛えられた頑健さを潜ませ、輝く瞳を持った美しい少年に成長していた。
 顔の下半分を黒々とした髭に覆われ、肩幅広く鋭い眼差しのフリードと、細身でしなやかな体つきのライオネルの二人は、弓を肩に掛け、剣を腰に下げて、山を下りていった。 

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風の中の鳥 41

第四十章 物語論

 さて、物語もお終いに近くなってきたので、このあたりで物語そのものについての筆者の考えをまとめておこう。これは、この物語がなぜ、あちこちに政治や倫理や人間性についてのお喋りがはさまるのかということについての言い訳でもある。
小説や物語を書く面白さは、基本的には、書くに従って、新しい世界が形成されていくことである。しかし、その世界は無から生じるものではなく、作者の世界観や社会認識の反映であり、フリードたちのこの物語も、自分の力一つで、つまり腕力で世の中を生きていく男たちの物語を書いてみたいという漠然とした考えで書き出したものだが、その中に社会批判めいたものが含まれてしまうのは、それはやはり作者がどうしても現実社会に対して無関心ではいられない人間だからである。それに、後で述べるように、物語の書き方には決まりは無く、小説は、作者の思想を述べる場でもあるからだ。
しかし、思想とか世界観と言っても実は大した物ではない。作者の興味の対象となるものが自ずと作品中に出てくるのであり、この作品なら、たとえば武器や女性などである。作者の中には幼児的な願望や好みがあり、それが剣やピストルなどの武器への偏愛である。筆者は、金物屋へ行くとナイフ売り場につい立ち止まってしまう人間である。いや、包丁でも金槌でもバールでも、武器になるものならなんでも好きだ。これは男の原始的本能だろう。だからといってそういう物を無闇に振り回したりはしないが。
 本当なら、現実の人生で出会う厭な人間どもを剣で斬り、ピストルで撃ってみたいのだが、それをすると刑務所行きであるから、現実の生活ではストレスが溜まる。そこで、剣で斬ることの快感を、たとえ紙の上、空想の上だけでも味わいたいから、こうした物語を書くのであり、その事自体は幼稚だとも恥ずかしい事だとも筆者は思わない。「千一夜物語」などに見られるような、こうした願望充足こそが物語の原点だろう。興味のあり方が違うと言えばそれまでだが、その点、純文学の作品など、書く事に何の意味があるのやら、さっぱりわからない。多くの純文学の作品は、上手くてケチのつけようは無いとは思うが、読んでいてちっとも楽しくも面白くもないのだから、書いている本人も本当は楽しくはないだろう。物語は、書いている本人が楽しいというのが一番の書く目的ではないのだろうか。そして、書く楽しさは、内容が願望充足的であるということと、書くに連れて世界が作られていく事による、というのは先に書いた通りだ。そのためには、綿密な構想に従って書いてはいけないのではないか。フイールディングの「トム・ジョウンズ」は、私のもっとも好きな作品の一つだが、作者のフイールディングは、あの作品を綿密な構想のもとに書いていったとは思わない。大体の筋だけ決めて、後は出たとこ任せで書いていったのだろうと思っている。その方が楽しいに決まっているのだから。
 もっとも、ポオのように、物語は後ろから書くべきだと主張する者もいる。つまり、全体の構想を綿密に立ててからでないと、書くべきではない、ということだ。彼の見事な作品は確かにそうした考えの結果だろうが、そのために作品に一種の息苦しさがあるのも否定できないのではないだろうか。一部のファルスや「黄金虫」だけは、開放感があるが、それはポオ自身が、「前から」書いていったからだと思われる。ポオに限らず、多くの推理小説にはこの種の息苦しさがあり、筆者などには、読む気を起こさせないのである。筆者がこの物語を書いたもう一つの動機は、そうした世上の「完璧な」小説やら文学やらへの批判もある。筆者自身はスターンの「トリストラム・シャンデー」は読み通してはいないが、その物語思想には大いに共鳴する。小説は、そのように気楽で楽しいものであるべきだと思っている。
 さて、脇道が二章も続いて、フリードたちの物語の方が、いつのまにやらどこかへ行ってしまった。もともと、筋など考えてもいない物語ではあるが、これではエッセイなのか物語なのか分からない。まあ、そのどっちでもあると思って貰いたい。もともと小説の書き方には決まりなどない、作者が思うように書けばいいのだ、とフイールディングも宣言しているのである。物語にすら規範を求める、お堅い人間の目からは、このような物語は、小説とも言えない下らぬ作品としか見られないだろうが、小説は、作者とのお喋りである、というのが、筆者の基本的な考えである。そして、それならば、小説においては、細部に面白さがあれば十分であって、ストーリーというものは、実はそう思われているほど大きな意味は持たないのではないか、と考えてもいるのである。いや、そうではない、キャラクターの造形、背景描写、心理描写、堅牢なストーリー展開、といったものがなければ小説ではない、という人間がいても勿論いいが、いや、それがおそらく小説読みの大半だろうが、そうではない人間もいるはずだ。作者の私自身が読みたいのも、夏目漱石の「猫」や、フイールディングの「トム・ジョウンズ」のような小説である。あの、気楽な、自由な、作者とお喋りする雰囲気こそ、小説を読む楽しさであると筆者には思われる。だから、そういう作品を筆者も書きたいのである。それに、ストーリーは、読めばそれで終わりだが、作者の思想は、もしも読者がそれに共鳴するならば、読者の心に長く続く影響を残す。それも小説の大きな意義ではないだろうか。
 物語も終盤近くなって、このような駄弁もどうかとは思うが、これが多分最後の駄弁なので、お許し願いたい。

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風の中の鳥 40

第三十九章 イマジン

 作者の願望充足的な、能天気そのもののこの物語に、前章のような場面が出てきたことに違和感を感じておられる方もおありだろうが、中世というのはそういう時代だったのである。最近の学者(御用学者ではないかと私は疑っているが)の中には、それに異論を唱える者もいるようだが、生産力の低い時代には、上位の階級が、下の人間の生産した物を奪い取って生活していたというのは、確固とした事実である。そして、その事は不正極まりない出来事であり、いつまでもそれを忘れるべきではない。なぜなら、権力の不正は、常に形を変えて繰り返され、これからも繰り返され続けるからである。プロローグに書いた内容からも想像できるように、作者の心には、幼児的な願望や動物的欲望ばかりではなく、権力の不正に対する怒りが常にあるのであり、それは多分、この物語を書いた一つの原動力でもあるのだ。その事とこの物語の内容が部分的に矛盾するように見えるかもしれない。しかし、確かに主人公は権力を得るが、それはその方が話が面白いからにすぎないのである。権力自体は正義でも悪でもなく、その正しい使用と不正な使用があるだけだ。
民衆の歴史は苦役と悲惨そのものであり、人類の大半が安楽な暮らしができるようになったのは、やっと前世紀後半くらいからのことにすぎない。それは、基本的には科学の発達と、それによる生産力の向上のためであり、政治や宗教のためではない。政治や宗教がちゃんとしていたら、人類はとっくにユートピアを実現していただろう。真の偉人は、生産力の向上に尽くした無数の無名の科学者や技術者であり、ナポレオンやアレクサンダーやシーザーではないのである。もちろん、政治の変革が民衆の生活向上を促したというのも正しいのであり、それはただ一つ、「民主主義」という思想によってである。つまり、科学や技術の発達は、生産力を向上させ、民主主義は、その正しい配分を促した。したがって、現在の人間は、ルソーをこそ自分たちの恩人と思わなければならないのだ。マルクスの誤りは、パイの配分にのみ目を引かれ、パイの総量を増やすことに目が行かなかったことにある。
政治の歴史や現代政治を冷静に眺めれば分かるように、政治は常に、政治によって利益を得ている一部の人間たち(「政治によって生きる人間」だ)、つまり、国王、貴族、政治家、官僚、ブルジョワジー(現代なら、企業経営者や重役)やその一族の利益に奉仕する事を第一義としており、一般民衆はそのおこぼれに与っているにすぎない。したがって、民衆にとって正しい政治のあり方は民主主義しかない、ということも分かるだろう。一部の保守思想家のように民主主義を批判し、愚弄する人々は、自分をエリートや貴族的人間だと勘違いしているか、食卓の傍の犬のように、権力におもねって食べ残しの骨を得ようとしている汚らしい連中であるが、その言説に迷わされる庶民も多い。民衆自身が民主主義を否定することほど、滑稽なことがあるだろうか。
ただし、どのような政治的手続きが民主主義かは大きな問題であって、選挙によって為政者を選び、それに自分たちを支配させる「代議制」は、選ばれた人間が公約を守らず、勝手に自分たちの判断で政治を決定していくならば、それは少しも国民の意思を反映していないわけで、真の民主主義からは遠いものである。「代議制」はどうしても、代議士の利益のための政治にしかならないのだから、真の民主主義は、すべての議題を民衆の投票で決定する直接民主制しかない。現在の代議制は、そこに至る過渡的段階と考えるべきだろう。直接民主制が実現するためには、もちろん、民衆の政治的判断力が高度に発達しなければならないわけで、現在の日本のように国民が政治的に無知な状況ではそれは不可能な話だが、国民に真の批判精神が根付けば、いつかは可能になるだろう。
ついでに言っておけば、日本の教育は、為政者(あるいは、政治的寄生虫ども)に都合がいいように、政治に無知な国民を作るのに大いに役立っているのであり、十二年から十六年もあの無意味な知識の詰め込み教育(特に、あの無味乾燥な「政治社会」や「日本史」!)を受けたら、現実への批判精神など、消えてしまうのは確実である。おそらく、日本の若者の中で、新聞を読む習慣のある人間は、一割か二割くらいのものだろう。まして、政治欄を読む人間など、一割もおるまい。まったく見事な公教育の成果である。
 また、宗教は、確かにその存在によって人々に幻想的な慰安を与え、この世の苦しみを忘れさせるものではあるが、それによって現実への不満を忘れさせ、改革への意欲を失わせるものであり、マルクスの言うように、一種の阿片であることは確かだ。それに、歴史上、戦争に反対した宗教家がほとんどいないことからも分かるように、これも第一義的には為政者に奉仕するためのものか、あるいは宗教家たちの生計手段でしかない。スタンダールのジュリアン・ソレルが、「赤」か「黒」か、つまり、軍服を選ぼうか僧服をえらぼうかと迷ったのは、それがこの世での立身出世の手段だったからであった。
 では、政治や宗教に代わる物が何かあるか、と言われれば、それは無い。と言うより、必要ないと言っておこう。ジョン・レノンの「イマジン」ではないが、遠い未来には宗教も国もなくなり、人間の自然な倫理(これは、おそらく、過度の欲望は幸福には結びつかないということが全人類の共通の理解となることから生まれる倫理である)が法律よりも上位に来て、人々が完全に自律的に行動して誤らない世界が来るだろう。これは確かに夢想だが、人類のすべての偉業は、たとえばライト兄弟の飛行機のように、最初はみな御伽話の類としか思われなかったのである。多くの人間が同じ夢を見るようになれば、この夢想も、やがて予見であったとされる日が来るかもしれない。

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HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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