第四十二章 再び風の中へ
その頃ローラン国は、フリードの弟ヴァジルを殺して王位を簒奪したエドモンがずっと治めていたが、最初の頃の、人気取りのための寛大な施策は一年で終わり、後はいつも通りの過酷な政治が行われていた。
エルマニア国でもフランシア国でも事情は同じであり、庶民の苦しい生活の上に王侯貴族の贅沢で放恣な生活が行なわれていたのである。そして、庶民の大半は、その事に何の疑いも持たず、したがって、改善の夢も希望も持たなかった。精神的には、彼らの多くは動物レベルにあったと言ってよい。ルソーという偉人が出て、この不平等の状態に気づかせるのは、まだ八百年も後の話である。驚くべき事は、その八百年もの間、人々の暮らしがほとんど変わらなかった事ではないだろうか。つまり、現在の状態から利益を得ている人間が権力の座にあるかぎり、世の中の進歩や改善はない。保守主義とは常に「所有に伴う心的傾向」であり、既存秩序の保護、すなわち既存上位階級の利益擁護でしかないのである。
長い目で見れば、庶民生活全体の底上げが行なわれることで、社会全体の生活水準は上昇するのだが、大抵の場合、上の者は下の者から物を取り上げる事で自分たちの生活の向上を図ろうとする。抑圧された人間が、自分たちの地位や待遇の向上を求めるのは、当然であるばかりでなく、未来の人間のためでもある。現在の不平等や不公平、不正義に対する不満申し立てが圧殺されることは、実は世の中全体の進歩が圧殺されることでもあるのだ。もっとも、だからといって完全に平等な社会が共産主義などによって実現可能かどうかは、別問題である。完全平等社会そのものも、それが理想的状態かどうかは分からない。ただ、生まれや身分などによる機会の不平等などの、理不尽な不平等や不公正は、あってはならないのである。現在の日本や欧米諸国が身分社会でないなどと、誰に言えるだろう。
ともあれ、社会を変えるのは、庶民の意識であり、その点では、思想家の役割は大きい。ただし、庶民には手の届かない、学術的な高級な哲学などはまた、一部の物好きのためのものでしかない。むしろ、大衆音楽や小説や漫画など庶民に密着したメディアの中の思想のほうが、現実を変える力になりうるのではないだろうか。
フリードとライオネルは、ローラン国とフランシア国の境い目にある平坦な山脈からローラン国の側に出たのであるが、山を下りてすぐにある、フリードが以前に見たあの死滅した村には、人々が住みつき、ほそぼそと生活していた。だが、その貧しい汚い身なりや、沈鬱な顔を見れば、その生活の苦しさは一目で分かる。
この村をフリードたちはすぐに通り過ぎ、次の村に向かったが、ここもまた同じような貧しい村であった。
こうして、フリード達は、一月ほど旅を続けた。その間に見た光景は、悲惨と貧しさだけであった。
「お父さん、どうして皆こんなに貧しいの」
ライオネルは、フリードに尋ねた。
フリードは、この問いに、すぐには答えられなかった。その一部の理由は分かっている。百姓の収穫の半分近くが、領主に取り上げられているからだ。だが、それだけではない。そもそも、収穫そのものが、あまりに少ないのだ。
フリードは、考え考え、息子にそう言った。
「じゃあ、どうして収穫を増やせないの」
「畑が少ないからだ」
「だって、土地はこんなにあるよ。手を付けていない土地がたくさんあるじゃないか」
「あれは、畑にはならない土地なのだ。木の根が広がり、石ころだらけで、地味も痩せている。あれを畑にするには大変な手間が必要なのだ」
「でも、やれば畑にできるんでしょう?」
「そうだな。だが、人々は、自分の畑を耕すのに精一杯で、そんな余裕などないのだ」
「手が空いてる人はいないの?」
「たくさんいる。だが、そういう人々は貴族といって、自分たちは働かない人たちなんだ」
「そんなのおかしいよ」
「そうだな。だが、この世の中はそんなものなのだ。貴族は剣を持っていて、人々はそれに逆らう事はできない。逆らえば殺されるからな」
「ぼくたちも剣は持っているよ。でも、貴族じゃないんだろう?」
「まあな」
フリードは、自分の過去をライオネルに話した事はなかった。話せば、本当なら国王の息子として栄耀栄華を極めた人生を送れたはずが、只の猟師の息子になっている事をおそらく不満に思い、父親を恨むだろうと考えたからである。
「ぼくが国王なら、人々がみんな幸福に暮らせるような政治を行なうのになあ」
無邪気に言う息子の言葉に、フリードは過去の自分を振り返り、恥ずかしく思った。
「お前は、本当にそう思うか?」
フリードは真面目な顔で息子を見下ろした。
「勿論です」
「そうか。なら、国王になるがいい」
「まさか。そんなこと、できるわけありません」
「なぜできないと分かる。それなら、お前の言葉は本気ではないことになる。お前が本当に人々の事を考えるなら、そのために努力するがいい。国王になれるかどうか、やってみなくては分かるまい」
フリードは、実は自分も一度はローラン国とエルマニア国の国王だったのだと言いたい気持ちを抑えた。
「人間はな、自分が何者になろうと思うかで、何者になるかは決まるんだ。だが、その人間だけがいくら偉くなっても、周りの人々を幸福にしないのなら、そんな人間は偉くならないほうがいい」
フリードは、言いながら、果たして自分は周囲の人間を幸福にしただろうかと考えた。その時、脳裏に浮かび上がってきたのは、死んだジャンヌと、行方知れずのアリーの面影だった。
(俺は、あの女たちを幸福にできなかった。国王でいた間、俺はあいつらに目もくれず、他の女たちを次から次へと漁っていただけだった。まして、国の人々の事など考えたこともなかった)
フリードは心の中で、ジャンヌとアリーに謝った。
そして、この時、フリードの心には、ある決心が生まれた。ローラン国の国王エドモンを倒して、再びローラン国の国王になろうという決心である。ただし、それは自分のためではなく、人々を不幸から救うためだ。前には、敵を倒す口実として言った事を、今度は本気で実行するのだ。
かつては、偶然の歯車が噛みあって、幸運にもローラン国とエルマニア国を手に入れることができた。二度も同じような偶然に恵まれることは難しいだろう。しかし、今度は、人々全体の幸福のために戦うのである。そのためなら、自分が死んでも悔いはない。
自分のためなら、山の中で猟師としてひっそりと生きていく事に不満はない。しかし、この世の不平等と人々の不幸にはっきりと気づいた以上は、それを無視することはできない。フリードはそういう人間であった。
エドモンは弟ヴァジルの仇ではあるが、フリードはその敵討ちをしようという気は無かった。ヴァジルが殺された一因は、彼の悪政にあり、自業自得である。しかし、そのエドモンもまたこのように悪政を行なっているなら、それを倒すべきだ。
フリードは、そのように考えた。
ライオネルは、何かを考えながら、彼の傍を歩いている。フリードはその息子に優しく語りかけた。
「昔、東洋のある国で、一人の奴隷が、国王の御幸を見て、『ああ、男に生まれた以上は、あのような身分になってみたいものだ』と言ったそうだ。すると、周りの奴隷たちは、『ただの奴隷が、何を夢のような事を言っている』、と馬鹿にした。すると、その男は『小さな鳥どもには、大きな鳥の考えなど分からないのだ』、と言ったという」
ライオネルは、興味深そうな顔で、それを聞いて、尋ねた。
「それで、その男はどうなったの?」
「さあな。そこまでは知らない。だが、お前がもしも大きな鳥なら、風に乗ってどこまでも飛んで行くがいい。人間は、志が大事なのだ。何かをやろうというその意思があれば、きっとどこまでも飛んで行けるだろう」
ライオネルは、父親の逞しい体を見上げて、頷いた。
フリードは、青空を見上げた。そこには、風の中を飛んで行く一羽の鳥の姿があった。
「風の中の鳥」完