第四十章 物語論
さて、物語もお終いに近くなってきたので、このあたりで物語そのものについての筆者の考えをまとめておこう。これは、この物語がなぜ、あちこちに政治や倫理や人間性についてのお喋りがはさまるのかということについての言い訳でもある。
小説や物語を書く面白さは、基本的には、書くに従って、新しい世界が形成されていくことである。しかし、その世界は無から生じるものではなく、作者の世界観や社会認識の反映であり、フリードたちのこの物語も、自分の力一つで、つまり腕力で世の中を生きていく男たちの物語を書いてみたいという漠然とした考えで書き出したものだが、その中に社会批判めいたものが含まれてしまうのは、それはやはり作者がどうしても現実社会に対して無関心ではいられない人間だからである。それに、後で述べるように、物語の書き方には決まりは無く、小説は、作者の思想を述べる場でもあるからだ。
しかし、思想とか世界観と言っても実は大した物ではない。作者の興味の対象となるものが自ずと作品中に出てくるのであり、この作品なら、たとえば武器や女性などである。作者の中には幼児的な願望や好みがあり、それが剣やピストルなどの武器への偏愛である。筆者は、金物屋へ行くとナイフ売り場につい立ち止まってしまう人間である。いや、包丁でも金槌でもバールでも、武器になるものならなんでも好きだ。これは男の原始的本能だろう。だからといってそういう物を無闇に振り回したりはしないが。
本当なら、現実の人生で出会う厭な人間どもを剣で斬り、ピストルで撃ってみたいのだが、それをすると刑務所行きであるから、現実の生活ではストレスが溜まる。そこで、剣で斬ることの快感を、たとえ紙の上、空想の上だけでも味わいたいから、こうした物語を書くのであり、その事自体は幼稚だとも恥ずかしい事だとも筆者は思わない。「千一夜物語」などに見られるような、こうした願望充足こそが物語の原点だろう。興味のあり方が違うと言えばそれまでだが、その点、純文学の作品など、書く事に何の意味があるのやら、さっぱりわからない。多くの純文学の作品は、上手くてケチのつけようは無いとは思うが、読んでいてちっとも楽しくも面白くもないのだから、書いている本人も本当は楽しくはないだろう。物語は、書いている本人が楽しいというのが一番の書く目的ではないのだろうか。そして、書く楽しさは、内容が願望充足的であるということと、書くに連れて世界が作られていく事による、というのは先に書いた通りだ。そのためには、綿密な構想に従って書いてはいけないのではないか。フイールディングの「トム・ジョウンズ」は、私のもっとも好きな作品の一つだが、作者のフイールディングは、あの作品を綿密な構想のもとに書いていったとは思わない。大体の筋だけ決めて、後は出たとこ任せで書いていったのだろうと思っている。その方が楽しいに決まっているのだから。
もっとも、ポオのように、物語は後ろから書くべきだと主張する者もいる。つまり、全体の構想を綿密に立ててからでないと、書くべきではない、ということだ。彼の見事な作品は確かにそうした考えの結果だろうが、そのために作品に一種の息苦しさがあるのも否定できないのではないだろうか。一部のファルスや「黄金虫」だけは、開放感があるが、それはポオ自身が、「前から」書いていったからだと思われる。ポオに限らず、多くの推理小説にはこの種の息苦しさがあり、筆者などには、読む気を起こさせないのである。筆者がこの物語を書いたもう一つの動機は、そうした世上の「完璧な」小説やら文学やらへの批判もある。筆者自身はスターンの「トリストラム・シャンデー」は読み通してはいないが、その物語思想には大いに共鳴する。小説は、そのように気楽で楽しいものであるべきだと思っている。
さて、脇道が二章も続いて、フリードたちの物語の方が、いつのまにやらどこかへ行ってしまった。もともと、筋など考えてもいない物語ではあるが、これではエッセイなのか物語なのか分からない。まあ、そのどっちでもあると思って貰いたい。もともと小説の書き方には決まりなどない、作者が思うように書けばいいのだ、とフイールディングも宣言しているのである。物語にすら規範を求める、お堅い人間の目からは、このような物語は、小説とも言えない下らぬ作品としか見られないだろうが、小説は、作者とのお喋りである、というのが、筆者の基本的な考えである。そして、それならば、小説においては、細部に面白さがあれば十分であって、ストーリーというものは、実はそう思われているほど大きな意味は持たないのではないか、と考えてもいるのである。いや、そうではない、キャラクターの造形、背景描写、心理描写、堅牢なストーリー展開、といったものがなければ小説ではない、という人間がいても勿論いいが、いや、それがおそらく小説読みの大半だろうが、そうではない人間もいるはずだ。作者の私自身が読みたいのも、夏目漱石の「猫」や、フイールディングの「トム・ジョウンズ」のような小説である。あの、気楽な、自由な、作者とお喋りする雰囲気こそ、小説を読む楽しさであると筆者には思われる。だから、そういう作品を筆者も書きたいのである。それに、ストーリーは、読めばそれで終わりだが、作者の思想は、もしも読者がそれに共鳴するならば、読者の心に長く続く影響を残す。それも小説の大きな意義ではないだろうか。
物語も終盤近くなって、このような駄弁もどうかとは思うが、これが多分最後の駄弁なので、お許し願いたい。
さて、物語もお終いに近くなってきたので、このあたりで物語そのものについての筆者の考えをまとめておこう。これは、この物語がなぜ、あちこちに政治や倫理や人間性についてのお喋りがはさまるのかということについての言い訳でもある。
小説や物語を書く面白さは、基本的には、書くに従って、新しい世界が形成されていくことである。しかし、その世界は無から生じるものではなく、作者の世界観や社会認識の反映であり、フリードたちのこの物語も、自分の力一つで、つまり腕力で世の中を生きていく男たちの物語を書いてみたいという漠然とした考えで書き出したものだが、その中に社会批判めいたものが含まれてしまうのは、それはやはり作者がどうしても現実社会に対して無関心ではいられない人間だからである。それに、後で述べるように、物語の書き方には決まりは無く、小説は、作者の思想を述べる場でもあるからだ。
しかし、思想とか世界観と言っても実は大した物ではない。作者の興味の対象となるものが自ずと作品中に出てくるのであり、この作品なら、たとえば武器や女性などである。作者の中には幼児的な願望や好みがあり、それが剣やピストルなどの武器への偏愛である。筆者は、金物屋へ行くとナイフ売り場につい立ち止まってしまう人間である。いや、包丁でも金槌でもバールでも、武器になるものならなんでも好きだ。これは男の原始的本能だろう。だからといってそういう物を無闇に振り回したりはしないが。
本当なら、現実の人生で出会う厭な人間どもを剣で斬り、ピストルで撃ってみたいのだが、それをすると刑務所行きであるから、現実の生活ではストレスが溜まる。そこで、剣で斬ることの快感を、たとえ紙の上、空想の上だけでも味わいたいから、こうした物語を書くのであり、その事自体は幼稚だとも恥ずかしい事だとも筆者は思わない。「千一夜物語」などに見られるような、こうした願望充足こそが物語の原点だろう。興味のあり方が違うと言えばそれまでだが、その点、純文学の作品など、書く事に何の意味があるのやら、さっぱりわからない。多くの純文学の作品は、上手くてケチのつけようは無いとは思うが、読んでいてちっとも楽しくも面白くもないのだから、書いている本人も本当は楽しくはないだろう。物語は、書いている本人が楽しいというのが一番の書く目的ではないのだろうか。そして、書く楽しさは、内容が願望充足的であるということと、書くに連れて世界が作られていく事による、というのは先に書いた通りだ。そのためには、綿密な構想に従って書いてはいけないのではないか。フイールディングの「トム・ジョウンズ」は、私のもっとも好きな作品の一つだが、作者のフイールディングは、あの作品を綿密な構想のもとに書いていったとは思わない。大体の筋だけ決めて、後は出たとこ任せで書いていったのだろうと思っている。その方が楽しいに決まっているのだから。
もっとも、ポオのように、物語は後ろから書くべきだと主張する者もいる。つまり、全体の構想を綿密に立ててからでないと、書くべきではない、ということだ。彼の見事な作品は確かにそうした考えの結果だろうが、そのために作品に一種の息苦しさがあるのも否定できないのではないだろうか。一部のファルスや「黄金虫」だけは、開放感があるが、それはポオ自身が、「前から」書いていったからだと思われる。ポオに限らず、多くの推理小説にはこの種の息苦しさがあり、筆者などには、読む気を起こさせないのである。筆者がこの物語を書いたもう一つの動機は、そうした世上の「完璧な」小説やら文学やらへの批判もある。筆者自身はスターンの「トリストラム・シャンデー」は読み通してはいないが、その物語思想には大いに共鳴する。小説は、そのように気楽で楽しいものであるべきだと思っている。
さて、脇道が二章も続いて、フリードたちの物語の方が、いつのまにやらどこかへ行ってしまった。もともと、筋など考えてもいない物語ではあるが、これではエッセイなのか物語なのか分からない。まあ、そのどっちでもあると思って貰いたい。もともと小説の書き方には決まりなどない、作者が思うように書けばいいのだ、とフイールディングも宣言しているのである。物語にすら規範を求める、お堅い人間の目からは、このような物語は、小説とも言えない下らぬ作品としか見られないだろうが、小説は、作者とのお喋りである、というのが、筆者の基本的な考えである。そして、それならば、小説においては、細部に面白さがあれば十分であって、ストーリーというものは、実はそう思われているほど大きな意味は持たないのではないか、と考えてもいるのである。いや、そうではない、キャラクターの造形、背景描写、心理描写、堅牢なストーリー展開、といったものがなければ小説ではない、という人間がいても勿論いいが、いや、それがおそらく小説読みの大半だろうが、そうではない人間もいるはずだ。作者の私自身が読みたいのも、夏目漱石の「猫」や、フイールディングの「トム・ジョウンズ」のような小説である。あの、気楽な、自由な、作者とお喋りする雰囲気こそ、小説を読む楽しさであると筆者には思われる。だから、そういう作品を筆者も書きたいのである。それに、ストーリーは、読めばそれで終わりだが、作者の思想は、もしも読者がそれに共鳴するならば、読者の心に長く続く影響を残す。それも小説の大きな意義ではないだろうか。
物語も終盤近くなって、このような駄弁もどうかとは思うが、これが多分最後の駄弁なので、お許し願いたい。
PR