第三十九章 イマジン
作者の願望充足的な、能天気そのもののこの物語に、前章のような場面が出てきたことに違和感を感じておられる方もおありだろうが、中世というのはそういう時代だったのである。最近の学者(御用学者ではないかと私は疑っているが)の中には、それに異論を唱える者もいるようだが、生産力の低い時代には、上位の階級が、下の人間の生産した物を奪い取って生活していたというのは、確固とした事実である。そして、その事は不正極まりない出来事であり、いつまでもそれを忘れるべきではない。なぜなら、権力の不正は、常に形を変えて繰り返され、これからも繰り返され続けるからである。プロローグに書いた内容からも想像できるように、作者の心には、幼児的な願望や動物的欲望ばかりではなく、権力の不正に対する怒りが常にあるのであり、それは多分、この物語を書いた一つの原動力でもあるのだ。その事とこの物語の内容が部分的に矛盾するように見えるかもしれない。しかし、確かに主人公は権力を得るが、それはその方が話が面白いからにすぎないのである。権力自体は正義でも悪でもなく、その正しい使用と不正な使用があるだけだ。
民衆の歴史は苦役と悲惨そのものであり、人類の大半が安楽な暮らしができるようになったのは、やっと前世紀後半くらいからのことにすぎない。それは、基本的には科学の発達と、それによる生産力の向上のためであり、政治や宗教のためではない。政治や宗教がちゃんとしていたら、人類はとっくにユートピアを実現していただろう。真の偉人は、生産力の向上に尽くした無数の無名の科学者や技術者であり、ナポレオンやアレクサンダーやシーザーではないのである。もちろん、政治の変革が民衆の生活向上を促したというのも正しいのであり、それはただ一つ、「民主主義」という思想によってである。つまり、科学や技術の発達は、生産力を向上させ、民主主義は、その正しい配分を促した。したがって、現在の人間は、ルソーをこそ自分たちの恩人と思わなければならないのだ。マルクスの誤りは、パイの配分にのみ目を引かれ、パイの総量を増やすことに目が行かなかったことにある。
政治の歴史や現代政治を冷静に眺めれば分かるように、政治は常に、政治によって利益を得ている一部の人間たち(「政治によって生きる人間」だ)、つまり、国王、貴族、政治家、官僚、ブルジョワジー(現代なら、企業経営者や重役)やその一族の利益に奉仕する事を第一義としており、一般民衆はそのおこぼれに与っているにすぎない。したがって、民衆にとって正しい政治のあり方は民主主義しかない、ということも分かるだろう。一部の保守思想家のように民主主義を批判し、愚弄する人々は、自分をエリートや貴族的人間だと勘違いしているか、食卓の傍の犬のように、権力におもねって食べ残しの骨を得ようとしている汚らしい連中であるが、その言説に迷わされる庶民も多い。民衆自身が民主主義を否定することほど、滑稽なことがあるだろうか。
ただし、どのような政治的手続きが民主主義かは大きな問題であって、選挙によって為政者を選び、それに自分たちを支配させる「代議制」は、選ばれた人間が公約を守らず、勝手に自分たちの判断で政治を決定していくならば、それは少しも国民の意思を反映していないわけで、真の民主主義からは遠いものである。「代議制」はどうしても、代議士の利益のための政治にしかならないのだから、真の民主主義は、すべての議題を民衆の投票で決定する直接民主制しかない。現在の代議制は、そこに至る過渡的段階と考えるべきだろう。直接民主制が実現するためには、もちろん、民衆の政治的判断力が高度に発達しなければならないわけで、現在の日本のように国民が政治的に無知な状況ではそれは不可能な話だが、国民に真の批判精神が根付けば、いつかは可能になるだろう。
ついでに言っておけば、日本の教育は、為政者(あるいは、政治的寄生虫ども)に都合がいいように、政治に無知な国民を作るのに大いに役立っているのであり、十二年から十六年もあの無意味な知識の詰め込み教育(特に、あの無味乾燥な「政治社会」や「日本史」!)を受けたら、現実への批判精神など、消えてしまうのは確実である。おそらく、日本の若者の中で、新聞を読む習慣のある人間は、一割か二割くらいのものだろう。まして、政治欄を読む人間など、一割もおるまい。まったく見事な公教育の成果である。
また、宗教は、確かにその存在によって人々に幻想的な慰安を与え、この世の苦しみを忘れさせるものではあるが、それによって現実への不満を忘れさせ、改革への意欲を失わせるものであり、マルクスの言うように、一種の阿片であることは確かだ。それに、歴史上、戦争に反対した宗教家がほとんどいないことからも分かるように、これも第一義的には為政者に奉仕するためのものか、あるいは宗教家たちの生計手段でしかない。スタンダールのジュリアン・ソレルが、「赤」か「黒」か、つまり、軍服を選ぼうか僧服をえらぼうかと迷ったのは、それがこの世での立身出世の手段だったからであった。
では、政治や宗教に代わる物が何かあるか、と言われれば、それは無い。と言うより、必要ないと言っておこう。ジョン・レノンの「イマジン」ではないが、遠い未来には宗教も国もなくなり、人間の自然な倫理(これは、おそらく、過度の欲望は幸福には結びつかないということが全人類の共通の理解となることから生まれる倫理である)が法律よりも上位に来て、人々が完全に自律的に行動して誤らない世界が来るだろう。これは確かに夢想だが、人類のすべての偉業は、たとえばライト兄弟の飛行機のように、最初はみな御伽話の類としか思われなかったのである。多くの人間が同じ夢を見るようになれば、この夢想も、やがて予見であったとされる日が来るかもしれない。
作者の願望充足的な、能天気そのもののこの物語に、前章のような場面が出てきたことに違和感を感じておられる方もおありだろうが、中世というのはそういう時代だったのである。最近の学者(御用学者ではないかと私は疑っているが)の中には、それに異論を唱える者もいるようだが、生産力の低い時代には、上位の階級が、下の人間の生産した物を奪い取って生活していたというのは、確固とした事実である。そして、その事は不正極まりない出来事であり、いつまでもそれを忘れるべきではない。なぜなら、権力の不正は、常に形を変えて繰り返され、これからも繰り返され続けるからである。プロローグに書いた内容からも想像できるように、作者の心には、幼児的な願望や動物的欲望ばかりではなく、権力の不正に対する怒りが常にあるのであり、それは多分、この物語を書いた一つの原動力でもあるのだ。その事とこの物語の内容が部分的に矛盾するように見えるかもしれない。しかし、確かに主人公は権力を得るが、それはその方が話が面白いからにすぎないのである。権力自体は正義でも悪でもなく、その正しい使用と不正な使用があるだけだ。
民衆の歴史は苦役と悲惨そのものであり、人類の大半が安楽な暮らしができるようになったのは、やっと前世紀後半くらいからのことにすぎない。それは、基本的には科学の発達と、それによる生産力の向上のためであり、政治や宗教のためではない。政治や宗教がちゃんとしていたら、人類はとっくにユートピアを実現していただろう。真の偉人は、生産力の向上に尽くした無数の無名の科学者や技術者であり、ナポレオンやアレクサンダーやシーザーではないのである。もちろん、政治の変革が民衆の生活向上を促したというのも正しいのであり、それはただ一つ、「民主主義」という思想によってである。つまり、科学や技術の発達は、生産力を向上させ、民主主義は、その正しい配分を促した。したがって、現在の人間は、ルソーをこそ自分たちの恩人と思わなければならないのだ。マルクスの誤りは、パイの配分にのみ目を引かれ、パイの総量を増やすことに目が行かなかったことにある。
政治の歴史や現代政治を冷静に眺めれば分かるように、政治は常に、政治によって利益を得ている一部の人間たち(「政治によって生きる人間」だ)、つまり、国王、貴族、政治家、官僚、ブルジョワジー(現代なら、企業経営者や重役)やその一族の利益に奉仕する事を第一義としており、一般民衆はそのおこぼれに与っているにすぎない。したがって、民衆にとって正しい政治のあり方は民主主義しかない、ということも分かるだろう。一部の保守思想家のように民主主義を批判し、愚弄する人々は、自分をエリートや貴族的人間だと勘違いしているか、食卓の傍の犬のように、権力におもねって食べ残しの骨を得ようとしている汚らしい連中であるが、その言説に迷わされる庶民も多い。民衆自身が民主主義を否定することほど、滑稽なことがあるだろうか。
ただし、どのような政治的手続きが民主主義かは大きな問題であって、選挙によって為政者を選び、それに自分たちを支配させる「代議制」は、選ばれた人間が公約を守らず、勝手に自分たちの判断で政治を決定していくならば、それは少しも国民の意思を反映していないわけで、真の民主主義からは遠いものである。「代議制」はどうしても、代議士の利益のための政治にしかならないのだから、真の民主主義は、すべての議題を民衆の投票で決定する直接民主制しかない。現在の代議制は、そこに至る過渡的段階と考えるべきだろう。直接民主制が実現するためには、もちろん、民衆の政治的判断力が高度に発達しなければならないわけで、現在の日本のように国民が政治的に無知な状況ではそれは不可能な話だが、国民に真の批判精神が根付けば、いつかは可能になるだろう。
ついでに言っておけば、日本の教育は、為政者(あるいは、政治的寄生虫ども)に都合がいいように、政治に無知な国民を作るのに大いに役立っているのであり、十二年から十六年もあの無意味な知識の詰め込み教育(特に、あの無味乾燥な「政治社会」や「日本史」!)を受けたら、現実への批判精神など、消えてしまうのは確実である。おそらく、日本の若者の中で、新聞を読む習慣のある人間は、一割か二割くらいのものだろう。まして、政治欄を読む人間など、一割もおるまい。まったく見事な公教育の成果である。
また、宗教は、確かにその存在によって人々に幻想的な慰安を与え、この世の苦しみを忘れさせるものではあるが、それによって現実への不満を忘れさせ、改革への意欲を失わせるものであり、マルクスの言うように、一種の阿片であることは確かだ。それに、歴史上、戦争に反対した宗教家がほとんどいないことからも分かるように、これも第一義的には為政者に奉仕するためのものか、あるいは宗教家たちの生計手段でしかない。スタンダールのジュリアン・ソレルが、「赤」か「黒」か、つまり、軍服を選ぼうか僧服をえらぼうかと迷ったのは、それがこの世での立身出世の手段だったからであった。
では、政治や宗教に代わる物が何かあるか、と言われれば、それは無い。と言うより、必要ないと言っておこう。ジョン・レノンの「イマジン」ではないが、遠い未来には宗教も国もなくなり、人間の自然な倫理(これは、おそらく、過度の欲望は幸福には結びつかないということが全人類の共通の理解となることから生まれる倫理である)が法律よりも上位に来て、人々が完全に自律的に行動して誤らない世界が来るだろう。これは確かに夢想だが、人類のすべての偉業は、たとえばライト兄弟の飛行機のように、最初はみな御伽話の類としか思われなかったのである。多くの人間が同じ夢を見るようになれば、この夢想も、やがて予見であったとされる日が来るかもしれない。
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