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「私の銀行口座」(スティーブン・リーコック)の試訳

「女か虎か」と同様、「徽宗皇帝の娯楽的語学ブログ」に載せてあったものである。
ユーモア小説として、非常にいい作品だと思うし、日本語には訳されていないと思うので、例によって私の下手でいい加減な訳でも公開する意義はあるかと思う。著作権の問題は、まあ、見逃してもらおう。スチーブン・リーコック(英語綴りは「ステファン」と読めそうだが、一般的には「スチーブン・リーコック」で日本には知られている。)の作品の翻訳自体が少ないかと思うので、彼のための宣伝になると思ってほしい。









MY BANK ACCOUNT(私の銀行口座)


                


            STEPHAN LEACOCK


 


 


  最初に言っておくが、この英文は原文そのままではなく、易しくリライトされたもののようである。だから非常に読みやすいのだが、上級者向けではない。しかし、うまくリライトされている感じであり、十分に面白いはずである。


  (注)は中学生レベルの読者を想定してつけてある。


  (研究)は英語的に興味深いところや、作品解釈上の留意点を書いてあるが、ただの雑談にすぎないものもある。


 


 


     


 


When I go into a bank I get frightened. The clerks frighten me; the desks frighten me; the sight of the money frightens me; everything frightens me.


The moments I pass through the doors of the bank and attempt to do business there, I become an irresponsible fool.


I knew this before, but my salary had been raised to fifty dollars a month and I felt that the bank was the only place for it.


So I walked unsteadily in and looked round at the clerks with fear. I had an idea that a person who was about to open an account must necessarily consult the manager.


I went to a place marked “Accountant”. The accountant was a tall, cool devil. The very sight of him frightened me.


 


(注)


irresponsible:責任能力の無い、当てにならない   was about to:今にも~しようとする  "Accountant”:会計係 *銀行なら口座係とでも言うのかもしれない。 


 


(研究)


frighten:ぎょっとさせる  


・日本語の「驚かされる」には、実はあまり驚かされるニュアンスが無い。「君には驚かされるよ」などと平然とした口調で言ったりする。したがって、ここでは「肝を潰す」などの訳語がいい。この「frighten」は、いわば作品全体のキーワードであり、この後の彼の行動のすべては彼が「frighten」したことから来ている。誰でもそういうことはあるもので、場違いな場所に行った時の舞い上がった気分がこれから先の話の展開の鍵になっている。


frightenfrightens


・第一段落後半の文はセミコロンによる並列描写だが、複数形の語が主語の時には動詞には「三単元のS」は付いておらず、単数の時には付いている。注意したいのは「 the sight of the money」や「everything」は単数扱いであると言うことだ。


fifty dollars a month


・もちろん、大した金額ではない。だが、本人にとってはなかなか大したものという気分だったので、つい銀行に口座を開こうなどと大それたことを考えてしまったのである。それが悪夢の体験になるとも知らず。


I knew this before


・「this」が何を指すのか、解釈に迷うが、指示語は直前の記述を指すという原則通りに、この時の自分の精神状態を指すと解釈する。「this」が銀行を指すなら、「this place」とか言いそうであるし。


 


[試訳]


 


「私の銀行口座」      スティーブン・リーコック


 


     


 


銀行の中に入った時、私はぎょっとした。事務員たちに私はぎょっとした。並んだ机に私はぎょっとした。金の並んだ光景にぎょっとした。すべてに私はぎょっとした。


銀行のドアを通ってそこで何かの用事をする段になると、私は責任能力の無い馬鹿になってしまう。


そうなることは前から分かっていた。しかし、私の給料が月50ドルに上がったので、銀行こそがその金を置くべき場所だと私は思ったのである。


そこで私は不確かな足取りで中に入り、びくびくしながら事務員たちを眺め回した。銀行口座を開こうとする者はすべからく銀行のマネージャーに相談する必要があるという考えを私は持っていた。


私は「口座係」と書かれた場所に近づいた。口座係は背の高い、冷酷そうな悪魔であった。彼のその姿は私を脅かした。            


 


     


 


My voice sounded as if it came from the grave.


“Can I see the manager?” I said, and added solemnly, “alone.” I don’t know why I said “alone”.


“Certainly,” said the accountant, and brought him.


The manager was a calm, serious man. I held my fifty-six dollars, pressed together in a ball, in my pocket.


“Are you the manager?” I said. God knows I didn’t doubt it.


“Yes,” he said.


“Can I see you,” I asked, “alone?” I didn’t want to say “alone” again, but without this word the question seemed useless.


 


*難しい単語も構文も無しで、英語というものは書けるものだな、という感じだ。こうした短い文章に習熟するほうが、英語上達の上でも早道だろう。


 


(注)


pressed together in a ball:札束が一緒くたに握り潰されて丸くなっている、ということ。


 


(研究)


but without this word the question seemed useless


・直訳すれば「だが、この言葉無しでは質問が無効な気がしたのだ」となるが、下の試訳では少し意訳してある。また、段落分けも少し変えてある。訳の上では邪道かもしれないが、もちろん、その方がいいという判断によるものだ。


 


[試訳]


 


私の声は墓から出てきたかのように響いた。


「マネージャーに会えるかね?」私は口座係に言った。そして「他の人無しでだ」と厳かに付け加えた。どうして自分がそんなことを言ったのか、私は知らない。


「もちろんです」と口座係は言って、マネージャーを連れてきた。


マネージャーは静かな、真面目そうな男であった。私は自分の65ドルをポケットの中で握りしめていたので、それは握り潰されてボールのように固まっていた。


「あなたがマネージャーかね?」私は言った。神かけて、私はそれをまったく疑ってもいなかったのだが。


「そうです」彼は言った。


「話をしたいのだが」と私は言った。「他の人抜きで」


「他の人抜きで」などと言うつもりはまったく無かったのだが、そう言わないと次の言葉が出てこないような気がしたのだ。


 


     


 


The manager looked at me with some anxiety. He felt that I had a terrible secret to tell.


“Come in here,” he said, and led me the way to a private room. He turned the key in the lock.


“We are safe from interruption here,” he said, “sit down.”


We both sat down and looked at each other. I found no voice to speak.


“You are one of Pinkerton’s detectives, I suppose,” he said.


My mysterious manner had made him think that I was a detective. I knew what he was thinking, and it made me worse.


“No, not from Pinkerton’s,” I said, seeming to mean that I was from a rival agency.


 


(注)


 Pinkerton:有名な探偵社の名前である。


 


(研究)


He felt that I had a terrible secret to tell.


・この書き方だと、一人称視点の記述がこの部分だけ「神の視点」になるのでまずいのだが、リライト前の原文もそうなのかどうかは不明。厳密には最初の「The manager looked at me with some anxiety.」も「神の視点」である。つまり、本当は「マネージャーは好奇心を持って私を見た『ように私には見えた』」と続けないと、一人称視点にはならないのだが、言うまでもなく、そうすると文章がごちゃごちゃする。小説における視点の問題は面倒である。試訳では、そのあたりを何とか誤魔化している。


seeming


・分詞構文の用法は高校時代にさぼった部分なので苦手だが、「そしてそれは~に見えた」といったところか。


 


[試訳]


 


マネージャーは好奇心の表情で私を見た。私が恐るべき秘密を話そうとしているのだと思ったのだろう。


「こちらへどうぞ」、彼は言って私を面会室に導いた。彼は部屋の鍵をかけた。


「これで邪魔は入りません」、彼は言った。「どうぞお掛けください」


我々は椅子に腰を下ろし、お互いを眺めた。私は何と話せばいいのか分からなかった。


「もしかして、あなたはピンカートン社の探偵ではないですか?」、彼は言った。


私のミステリアスな態度が彼をそのように想像させたのだろう。彼が考えていることが私には分ったが、それは私の精神状態をいっそう悪いものにした。


「いや、ピンカートンの者ではありません」、私は言ったが、それはまるで私がピンカートンのライバルの探偵社から来たかのように聞こえた。


 


     


 


“To tell the truth,” I went on, as if someone had urged me to tell lies about it, “ I am not a detective at all. I have come to open an account. I intend to keep all my money in this bank.”


The manager looked relieved but still serious; he felt sure now that I was a very rich man, perhaps a son of Baron Rothschild.


“ A large account, I suppose,” he said.


“Fairly large,” I whispered. “I intend to place in this bank the sum of fifty-six dollars now and fifty dollars a month regularly.”


 


*まったく難しい表現や単語が使われていなくても、これだけの内容が表現できるということに感心してしまう。こういう文章を中学校や高校の教科書に採用してくれれば、英語もいっそう楽しく感じるだろうし、勉強にも役立つと思うのだが、ユーモアの要素ほど学校教科書に欠如したものは無いのが現実である。


 


(注)


urge:せきたてる、強制する    Fairly:かなり、まったく


 


[試訳]


 


「本当のところ」、私はまるで誰かが私に嘘を強要していたかのように言葉を続けた。「私はまったく探偵などではありません。私は口座を開きに来たんです。自分の金をすべて、この銀行に預けようと思いましてね」


マネージャーはほっとしたような顔をしたが、まだ真剣な表情だった。彼はきっと私が大金持ちだと確信しただろう。多分、ロスチャイルド男爵の息子だとでも。


「きっと大金なのでしょうな」、彼は言った。


「かなり大金です」、私はささやいた。「私は今、総計56ドルと、それから毎月50ドルを定期的にここに預けるつもりです」


 


     


 


The manager got up and opened the door. He called to the accountant.


“Mr. Montgomery,” he said, unkindly loud, “this gentleman is opening an account. He will place fifty-six dollars in it. Good morning.”


I stood up.


A big iron door stood open at the side of the room.


“Good morning,” I said, and walked into the safe.


“Come out,” said the manager coldly, and showed me the other way.


I went up to the accountant’s position and pushed the ball of money at him with a quick, sudden movement as if I were doing a sort of trick.


 


(注)


safe:金庫室 


 


(研究)


is opening


・進行形によって近い未来を表すという用法。


Good morning.


・この場合は、「お早う」ではなく「さよなら」である。用事が終わって、相手を早く追い出したい時、「Thank you.」などと言うこともある。これは「話は終わりだよ」というニュアンスを持っているわけだ。


 


[試訳]


 


マネージャーは立ち上がってドアを開けた。彼は口座係に声を掛けた。


「モンゴメリー君」、彼は不親切な大声で言った、「この紳士が口座を開きたいそうだ。この方は65ドル入れてくださるそうだ。では、さよなら」


私は立ち上がった。


大きな鉄の扉が部屋の横に開いていた。


「さよなら」私は言って、金庫室の中に入った。


「出てきなさい」マネージャーは冷たい声で言って、私を別の出口へ導いた。


私は口座係のところに行って、その男の前に丸められた金を素早く置いたが、まるでそれは何かの奇術でもしているみたいだった。


 


     


 


My face was terribly pale.


“Here,” I said, “put it to my account.” The sound of my voice seemed to mean, “Let us do this painful thing while we want to do it.”


He took the money and gave it to another clerk.


He made me write the sum on a bit of a paper and sign my name in a book. I no longer knew what I was doing. The bank seemed to swim before my eyes.


“Is it the account?” I asked in a hollow, shaking voice.


“It is,” said the accountant.


“Then I want to draw a cheque.”


 


(注)


chequecheck *綴りが間違っているよ、とワードの馬鹿が言う(下に赤い波線が出る)ので驚いて辞書で調べると、何のことはない、chequeは英国式の綴りであった。米国式以外は間違った綴りだという、この傲慢さ。これがアメリカ帝国主義という奴である。


 


[試訳]


 


私の顔は真っ青になっていた。


「ほら」、私は言った、「これを私の口座に入れてくれ」。私の声はまるで「この苦行を、我々がやる気があるうちにやってしまおうぜ」と言っているかのようだった。


彼はその金を手に取って、他の事務員のところに持っていった。


彼は何枚かの紙に金の総計を書かせ、通帳に私の名前を書かせた。私はもはや自分が何をやっているのか分からなかった。銀行がまるで私の目の前で泳いでいるみたいだった。


「これが口座かね?」私はうつろな、震え声で言った。


「そうです」口座係は言った。


「では、小切手を使いたいんだが」


 


     


 


My idea was to draw out six dollars of it for present use. Someone gave me a cheque-book and someone else began telling me how to write it out. The people in the bank seemed to think that I was a man who owned millions of dollars, but was not feeling very well. I wrote something on the cheque and pushed it towards the clerk. He looked at it.


“What ! are you drawing it all out again? ” He asked in surprise. Then I realized that I had written fifty-six dollars instead of six. I was too upset to reason now. I had a feeling that it was impossible to explain the thing. All the clerks had stopped writing to look at me.


 


*言葉や構文はあまり難しくないが、訳の上で迷う部分がいくつかある。まず、「 was not feeling very well」は、「気分が良くない」と、「機嫌がよくない」のどちらがいいかだが、これは後の行動との関連で「機嫌がよくない」とした。それから、「to reason」と、直後の文の中の「to explain」は、同じような内容なので、一文にまとめようかと思ったが、元の文のまま2文に分けて訳した。このあたりは、私の勘違いがあるかもしれない。


 


[試訳]


 


私は当座の使用のために口座から6ドル引き出すつもりだった。誰かが小切手帳を私に与え、誰かがその書き方を私に教えた。銀行の中の人々は私のことを、数100万ドルの金の所有者だが、少々機嫌が悪いのだと考えているように見えた。私は小切手に何か書いて、それを事務員に渡した。彼はそれを見た。


「何と! あなたは今入れた金を、もう一度全額引き出すのですか?」彼は驚いて言った。私は自分が6ドルと書くつもりで56ドルと書いたことに気づいた。私は気が動転して、その理由が言えなかった。私には事情を説明するのは不可能だという感じであった。事務員たちは皆、仕事を中断して私を見ていた。


 


     


 


Bold and careless in my misery, I made a decision.


“Yes, the whole thing.”


“You wish to draw your money out of the bank?”


“Every cent of it.”


“Are you not going to put any more in the account?” said the clerk, astonished.


“Never.”


A fool hope came to me that they might think something had insulted me while I was writing the cheque and that I had changed my mind. I made a miserable attempt to look like a man with a fearfully quick temper.


 


  ほとんど注釈の必要な言葉も構文も無い。あまり英語の知識は増えないが、すらすら読めて面白いのではないか。ただ、訳すとなると、なかなか表現が難しい。日本語力の方が問題になりそうである。miserable一つでも「みじめな」とするか「情けない」とするかで多少のニュアンスの違いは出てくるだろう。そのあたりは勘で訳すのだが。


 


[試訳]


 


みじめな気持ちに包まれつつ、私は猪突猛進的な無謀さで決定を下した。


「そうだ、全部をだ」


「あなたは御自分のお金を銀行からすっかり引き出すのですね?」


「1セントも残さずだ」


「口座にはもう、少しもお置きにならないのですか?」驚いて事務員は言った。


「置かないよ」


私が小切手を書いている間に何か侮辱的なことがあったので、私は気持ちを変えたのだと彼らは考えてくれるのではないか、という愚かな望みが心に浮かんだ。私は恐ろしく短気な人間に見えるよう、みじめな努力をした。


 


     


 


The clerk prepared to pay the money.


“How will you have it?” he said.


“What?”


“How will you have it?”


“Oh”—I understood his meaning and answered without even trying to think—“in fifty-dollar notes.”


He gave me a fifty-dollar note.


“And six?” he asked coldly.


“In six-dollar notes,” I said.


He gave me six dollars and I rushed out.


As the big door swung behind me I heard the sound of a roar of laughter that went up to the roof of the bank. Since then I use a bank no more. I keep my money in my pocked and my savings in silver dollars in a sock.


 


*これで「私の銀行口座」は終わりである。銀行のいかめしい雰囲気の中で平常心を失ってあれこれドジなことをするのは、誰でもありそうなことだが、そもそも小銭しか持たない人間が銀行に足を踏み入れてしまったのが間違いだったのだ。銀行の人間がそういう客を陰で「ゴミ」と呼んでいるのは日本だけのことではないだろう。


*あまりにも易し過ぎて、英語の勉強にはならなかったかもしれないが、逆に、「易しい英語表現」の勉強にはなったのではないだろうか。途中からは、まったく「注」も「研究」も不要だと判断したくらい、易しい英文だった。


 


[試訳]


 


事務員は金を支払う支度をした。


「どのようにお持ちしますか?」彼は言った。


「えっ?」


「どのようにお持ちしますか?」


「ああ」――私は彼の言葉を理解して、まったく考えもせずに答えた。「50ドル紙幣で」


彼は50ドル紙幣を渡した。


「で、6ドルは?」


「紙幣で」私は言った。


彼が渡した6ドルを受け取って、私は逃げるように外に出た。


大きなドアが私の後ろで閉まった瞬間、私は銀行の屋根まで立ち登る大笑いのどよめきを聞いた。それ以来私は銀行を使ったことはない。金はポケットに入れ、貯金は靴下に銀貨で入れている。





                    「私の銀行口座」終わり


 







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「女か虎か」後編

The appointed day arrived. From far and near the people gathered, and crowded the great arena; and those unable to get in massed themselves against its outside walls. The king and his court were in their places, opposite the two doors—those fateful gates, so terrible in their likeness.


All was ready. The signal was given. A door beneath the royal party opened, and the lover of the princess walked into the arena. Tall, beautiful, fair, his appearance was greeted with a low sound of admiration and anxiety. Half the audience had not known so grand a youth had lived among them. No wonder the princess loved him! What a terrible thing for him to be there!


 


(注) 


anxiety:心配、不安、切望  *「喉を締め付ける」ニュアンスがあるという。  grand:気品のある、堂々とした、豪勢な、素晴らしい


 


[試訳]


 


指定された日が来た。遠くからも近くからも人々が集まり、この偉大な闘技場を満員にした。建物の中に入りきれなかった者たちは、闘技場の外壁に向かって立ち並んでいた。王と廷臣たちが例の二つの扉に面した所定の席についた。運命の関門――同じ見かけのゆえに、かくも恐ろしいその二つの扉に向かって。


準備はすべて終わった。合図が下された。王族席の下方にある扉が開き、王女の恋人が闘技場の場内に歩み出た。背が高く、美しく、端正なその姿は観衆の称賛と不安の低い物音で迎えられた。観衆の半分ほどは、これほどに素晴らしい若者が彼らの間に存在していたことを知らなかった。王女が彼を愛したのには何の不思議もない! その彼が今、この場にいるというのは、何と恐ろしいことだろう!


 


 


 


As the youth advanced into the arena, he turned, as the custom was, to bow to the king: but he did not think at all of that royal person; his eyes were fixed upon the princess, who sat to the right of her father. Had it not been for the touch of barbarism in her nature it is probable that lady would not have been there; but her intense soul would not allow her to be absent on an occasion in which she was so interested. From the moment that the order had gone forth that her lover should decide his fate in the king’s arena, she had thought of nothing, night and day, but this great event and the various subjects connected with. With more power, influence and force of character than anyone who had ever before been interested in such a case, she had done what no other person had done—she had possessed herself of the secret of the doors. She knew in which of the two rooms that lay behind those doors stood the cage of the tiger, with its open front, and in which waited the lady. Through these thick doors, heavily curtained with skins on the inside, it was impossible that any noise or suggestion should come from within to the person who should approach to raise the latch of one of them; but gold, and the power of a woman’s will, had brought the secret to the princess.


 


(注)


had gone forth:実行された   but~:~以外には   skins:皮の   latch:掛け金 


(研究)


Had it not been for


・うろ覚えの知識だが、これは「もしも~がなかったら」という仮定法だったと思う。


stood the cage of the tiger


・倒置法で、「the cage of the tiger stood」と解すればいいだろう。


 


[試訳]


 


その若者は場内に入ると、定めの通りに王に向かってお辞儀をしたが、彼は王のことはまったく考えていなかった。彼の目は父王の右に座っている王女をじっと見つめていた。もしも彼女の生来の性質に野蛮性のかけらが無かったならば、女はその場にいなかっただろう。しかし、彼女の激しい魂は、自分がこれほどに興味を引かれている出来事の場から自分を遠ざけることを彼女に許さなかった。彼女の恋人の運命が王の闘技場で決定されるというあの命令が出された瞬間から、彼女は昼も夜も、この偉大な儀式とそれに関連した物事以外には何も考えられなくなっていた。この儀式にかつて興味を持った他の誰よりもすぐれた権力と、影響力と、性格の力によって、彼女は誰にもできなかった事をなしとげた。――彼女は扉の秘密を手に入れたのである。彼女は、どちらの扉の向こう側に前方の開いた虎の檻があり、どちらの扉の向こう側に美女のいる部屋があるのかを知っていた。分厚い扉の向こう側には皮のカーテンが重く垂れ下がっていて、外から近づいて扉の掛け金を上げようとする人間に対して、中からはどのような物音も示唆の声も届かないようになっていた。しかし、黄金と、女の意志の力によって、王女はこの秘密を手に入れたのである。


 


 


 


And not only did she know in which room stood the lady ready to come out, all bright and beautiful, should her door be opened, but she knew who the lady was. It was one of the fairest and loveliest of the ladies of the court who had been selected as the reward of the accused youth, should he be proved innocent of the crime of desiring one so far above him; and the princess hated her. Often had she seen, or imagined that she had seen, this fair creature throwing glances of admiration upon the person of her lover; it was but for a moment or two, but much can be said in a brief space; it may have been on most unimportant things, but how could she know that? The girl was lovely, but she had dared to raise her eyes to the loved one of the princess; and, with all the strength of the savage blood given to her through long lines of completely barbaric ancestors, she hated the woman who trembled behind that silent door.


 


(注)


this fair creature:この美しい生き物 *王女の、相手への憎悪を表した表現だろう。  the person of her lover:彼女の恋人である人物  but :ただ、ほんの *文語的表現のようである。後にforがあるので、「but for~=~以外には」の意味かと思ってしまうが、forは「for a moment」と考えるべきだろう。  on:~について   


(研究)


not only….but….


・「~だけでなく、~も」


should her door be opened


・仮定法の文語的表現のようである。「もしも彼女の方の扉が開けられたなら」


had she seen


she had seenの倒置。


 


[試訳]


 


そして彼女は、どちらの部屋に女がいて、自分の扉が開けられた時に、輝くような美しさで外に出ていこうと待ち受けているかを知っていただけでなく、その女が誰であるかも知っていた。それは宮廷の中でももっとも愛らしく美しい女で、自分より遙かに身分の高い人間を愛した罪で告発された若者が無罪であった場合に、その償いとして与えられるために選ばれた女である。そして王女はその女を憎んでいた。しばしば、彼女は目撃した。あるいは想像した。この美しい生き物が自分の恋人である人物に称賛の目を投げかけ、そして、時にはその一瞥が受け止められ、あるいは投げ返されさえしたのではないかと。時々、彼女は二人が話をしているのを見た。それはほんの短い時間にすぎない。だが、その短い時間の間でも多くの事を話すことは可能だったのではないか? それはおそらく取るに足らない事柄についての話だったのだろう。だが、彼女にどうしてそれが知りえようか?その少女は愛らしかった。だが、彼女はあえて王女の恋人の前で、自分の目を上げたのである。王女は、その完全に野蛮な先祖たちから長い血筋を通して伝わった蛮人の血の強さの及ぶ限りの激しさで、沈黙する扉の向こうで震えている女を憎悪したのであった。


 


 


 


When her lover turned and looked at her, and his eyes met hers as she sat there paler and whiter than anyone in the vast ocean of anxious faces about her, he saw, by the power of quick feeling which is given to those whose souls are one, that she knew behind which door crouched the tiger, and behind which stood the lady. He had expected her to know it. He understood her nature, and his soul was assured that she would never rest until she had made plain to herself this thing, hidden to all other lookers-on, even to the king. The only hope for the youth in which there was any element of certainty was based upon the success of the princess in discovering this mystery; and the moment he looked upon her, he saw she had succeeded, as in his soul he knew she would succeed.


 


*第一文が、例によって長い。だいたいにおいて、一文が長い方が文学的で知的に見えるという考えが、昔はあったというが、読みにくいことは確かだ。訳す方も大変である。


 


(研究)


The only hope for the youth in which there was any element of certainty was based upon the success of the princess in discovering this mystery  


・「The only hope for the youth, in which there was any element of certainty, was based upon the success of the princess in discovering this mystery」とコンマを入れればいい。挿入句も、コンマ無しだと理解がいっそう難しくなる。


 


[試訳]


 


彼女の恋人が振り返り、彼女を見上げた時、彼の目は彼女の目と出会った。彼女は好奇心に溢れた目で彼女を見ている観衆の大海の中のどの顔よりも蒼白な顔でそこに座っていたが、魂を一つにする者たちの持つ直感により、彼はどの扉の向こうに虎がうずくまり、どの扉の向こうに女が立っているかという秘密を彼女が知っていることを見抜いた。彼は彼女がその秘密を知るだろうと期待していた。彼は彼女の気質を知っていた。彼女は、他の観衆や王にさえも隠されているこの秘密を手に入れるまで手を休めることは無いだろうと彼は確信していた。この若者の唯一の希望――そこには何の確実性の要素も無いのだが、――彼女が扉の秘密を知ることにかかっていたのである。そして、王女の顔を見上げた瞬間、彼が心の底で確信していた通り、彼女が成功したことを彼は知った。


 


 


 


Then it was that his quick and anxious glance asked the question, ’Which?’ It was as plain to her as if he shouted it from where he stood. There was not an instant to be lost. The question was asked in a flash; it must be answered in another.


Her right arm lay on the cushioned parapet before her. She raised her hand, and made a slight, quick movement toward the right. No one but her lover saw her. Every eye was fixed on the man in the arena.


He turned and with a firm and rapid step he walked across the empty apace. Every heart stopped beating, every breath was held, every eye was fixed immovably upon that man. Without the slightest hesitation, he went to the door on the right and opened it.


 


(注)


in a flash:あっという間に  in anotherin another flash  parapet:手すり  hesitation:ためらい


(研究)


 it was that his quick and anxious glance asked the question


・「it was that」は強調のために置かれたものだろう。省いて読むと意味が通じやすい。


Every eye was fixed


・こういう場合に単数扱いか、複数扱いか、というのが非ネィティヴのいつも悩むところだ。そもそも目は二つあるのに、なぜ単数なのだ、とヘソを曲げたくなる。


 


[試訳]


 


そして、彼の、素早く、答えを切望する目が「どちらだ?」と聞いた。その問いかけは、まるで彼が自分の立っている場所から叫んだかのように、彼女には明白だった。一瞬も無駄にはできなかった。その問いかけは瞬時のうちに行われたが、返答も瞬時に行われねばならなかった。


彼女の右手はクッションのついた手すりの上に置かれていた。彼女はその手を上げ、かすかな素早い動きで右を示した。彼女の恋人以外の誰も彼女を見ていなかった。すべての人々の目は闘技場の中の男を注視していた。


彼は向きを変え、自信に満ちた、素早い足取りで競技場の空間を横切って歩いて行った。すべての心臓は鼓動をやめ、すべての呼吸は止まり、すべての目は動けないままにその男に固定された。ほんのわずかなためらいもなく、彼は右側の扉に歩み寄り、そしてそれを開けた。


 


 


 


Now, the point of the story is this: Did the tiger come out of that door, or did the lady?


 


The more we reflect upon this question the harder it is to answer. It involves a study of the human heart which leads us through various confusions of passion, out of which it is difficult to find our way. Think of it, fair reader, not as if the decision of the question dependent upon yourself, but upon that hot-blooded, half-barbaric princess, her soul at a white heat beneath the combined fires of despair and jealousy. She had lost him, but who should have him?


How often, in her waking hours and in her dreams, had she started in wild horror and covered her face with her hands as she thought of her lover opening the door on the other side of which waited the cruel teeth of the tiger!


 


  原文では段落と段落の間には空きは無いが、私の判断で全体の中心となる短い段落と次の段落の間を1行空けることにした。


 


(注) 


reflect:熟考する *辞書を引かなくても文脈から推測はできただろう。   despair:絶望 *形容詞の「デスペレート」は知っている、という人が多いのではないか?   started:びくっとする  *こういう、「知っているつもりの単語」が一番厄介である。「始めた」という訳ではおかしいのは感じても、たいていの中高生は辞書を引くのが面倒なので、ついいい加減な訳をする。辞書はマメに引こう。と、これはかつての怠け者学生からの忠告。


 


[試訳]


 


さて、この物語のポイントはここである。扉から出てきたのは虎だっただろうか、それとも女だっただろうか?


 


この問いかけを熟考すればするほど、答えるのは難しくなる。この問題は人間の心についての研究題目を含んでおり、それは様々な情熱の混迷の中に我々を導いて、そこから抜けだすことを困難にさせる。賢明な読者よ、お考えいただきたい。この問いかけの決定はあなた自身が下すのではなく、あの熱い血を持った、半野蛮な王女にかかっているのである。彼女の魂は絶望と嫉妬の白い炎に焼かれている。彼女は彼を失った。だが、誰が彼を得るのか?


いかにしばしば彼女はその覚醒と眠りの中で、激しい恐怖に襲われ、我が手で顔をおおっただろう。彼女の恋人がもう一つの扉を開け、そこに残酷な虎の歯が待っていることを想像して! 


 


 


 


But how much oftener had she seen him at the other door! How in her dreadful dreams had she torn her hair when she saw his start of delight as he opened the door of the lady! How her soul had burned in agony when she had seen him rush to meet that woman, with her bright cheek and sparkling eye of triumph; when she had seen him lead her forth, his whole frame fresh with the joy of recovered life; when she had heard the glad shouts from the crowds, and the wild ringing of the happy bells; when she had seen the priest, with his joyous followers, advance to the couple, and make them man and wife before her very eyes; and when she had seen them walk away together upon their path of flowers, followed by the tremendous shouts of the happy people in which her one despairing shriek was lost and drowned!


 


*描写が念入り過ぎるくらい念入りである。お茶漬けで食事を済ますような日本人にとっては、腹にもたれそうなくらいだ。しかし、これくらい書かないと、王女の悲哀が読者に伝わらないのも確かだろう。段落の途中からはすべて「How her soul was burned in agony」を受けて、セミコロンでつなぐ形で、その原因となる事柄を並列的に書いている。ある意味、8行にも渡って1文だけで書かれているようなもので、重厚な文章だ。面倒なので、文を分けて訳すことにする。


 


(注)


oftener:よりしばしば *恋人の男が虎の部屋の扉を開ける夢想よりもしばしば、ということ。    torn her hair:自分の髪を掻き毟る   agony:激しい苦痛   frame:体 *通常は「構造、機構、体格」などの意味だが、ここでは彼の体全体、くらいの意味だろう。   recovered:復活した  very:まさにその  shriek:悲鳴


 


(研究)


had she seen  had she torn


・倒置法である。


 


[試訳]


 


しかし、どれほど、よりしばしば彼女は、彼がもう一方の扉を開けることを夢に見ただろう! 彼女の恐ろしい夢の中で、女のいる扉を開けた時の彼の喜びの驚きを見て、彼女はどれほど自分の髪を掻き毟ったことだろう! どれほど彼女の魂は激しい苦痛に焼かれたことだろうか。……明るい頬と勝利に輝く目の女に向かって彼は駆け寄り、彼女を前に導く。彼の体全体は回復された生の喜びに満たされる。王女の耳は観衆の楽しげな叫び声と、幸福の鐘が荒々しく鳴り渡るのを聞く。僧侶が楽しげな一団を引き連れて前に進み出て、彼女のまさにその目の前で闘技場の中の二人を夫と妻にする。花の撒き散らされた小道を通り、観衆の喜びの声に送られて幸せな二人は闘技場を出て行く。その歓喜の声の中で、彼女のたった一つの悲鳴は搔き消され、呑み込まれる。 


 


 


 


Would it not be better for him to die at once, and go to wait for her in the blessed regions of a half-barbaric futurity?


And yet, that awful tiger, those shrieks, that blood!


Her decision had been indicated in an instant, but it had been made after days and nights of dreadful deliberation. She had known she would be asked, she had decided what she would answer, and, without the slightest hesitation, she had moved her hand to the right.


The question of her decision is one not to be lightly considered, and it is not for me to presume to set myself up as the one person able to answer it. And so I leave it with all of you: Which came out of the opened door—the lady, or the tiger?


 


(注)


 


regions:地域、地方、領域  futurity:来世、未来  indicated:示された  deliberation:熟考 *前にも調べたか?  presume:推定する、仮定する、考える  set myself up:自分をset up する *set up=主張する、掲げる、設置する


 


(研究)


 


not to be lightly considered


・「軽々しく考えられるべきもの」とでも訳すか。toは義務・当然を表すと聞いた覚えがある。


 


[試訳]


 


彼にとっては、即座に死んで、祝福された半野蛮な来世で彼女を待つ方がよいのではないだろうか?


だがしかし、あの恐ろしい虎、その叫び声、あの血!


彼女の決定は即座に示されたが、しかしそれは幾つもの昼と夜を経た恐ろしい熟考の中で作られたものである。彼女は自分が尋ねられるということを知っていた。彼女は自分がどう答えるかも知っていた。そして、ほんの少しもためらうことなく、彼女は手を上げて右の方を指したのであった。


彼女の決定についてのこの質問は軽々しく考えられるべきものではないし、私自身がそれに答えうる唯一の人間だとも主張する気はない。そこで、私はその答えの判断をあなた方に残すことにしよう。開いた扉から出てきたのはどちらだろう。女か、それとも虎か?


 


 


 


 


 


 


               「女か虎か」完


 


 


 


 


 


*話はこれですべて終わりである。「女か、虎か?」という問いに答えるのは読者であるあなたである。このように、話の結論を謎のままに残す話をリドルストーリーと言うが、この「女か虎か」は、その中でもっとも高名なものであり、リドルストーリーの代名詞のようなものだ。しかし、案外と誰も話自体を読んではいないはずだから、ここで掲載したわけである。どうだっただろうか。


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「女か虎か」前編

今では私自身が書き込むことさえできなくなった「徽宗皇帝の娯楽的語学ブログ」に載せてあった『女か虎か』を、保存のためにこちらに載せておく。短編小説だが、全2回の予定である。
もともとは中高生の語学学習の材料になるかな、と思って書いたものなので、そういう体裁になっているが、訳文のところだけ読めばいいし、単語の注釈などは英語の語彙を増やす役にも立つのではないか。ただし、いつも言うように私の英語力は中学生に毛が生えた程度であるから、英語学習の部分は無視したほうがいいかもしれない。
フランク・ストックトンのこの短編は、今ではどんな外国短編小説アンソロジーでもほとんど読めないかと思うので、その翻訳は、たとえ私ごときの訳でもなかなか貴重だと思う。
で、私が知りたいのは、この小説の最後の問いかけに対して、あなたが王女の立場だったらどうしただろうか、ということだ。特に、男性と女性とで、どう答えが分かれるか興味深いところである。





 


The Lady, or The Tiger ?  


                                   FRANK STOCKTON


 


In the very olden time there lived a half-barbaric king. He was a man of tremendous fancy, and, also, of an authority so irresistible that, at his will, he turned his varied fancies in fact. He was greatly given to meditating with himself ; and when he and himself agreed upon anything, the thing was done. So long as all things moved in their appointed course, he was smooth and gentle ; but if there was a little difficulty and something was not quite right, he was smoother and more gentle still, for nothing pleased him so much as to make the crooked straight, and crush down uneven places.


 


*さて、今日から「女か虎か」で翻訳練習をするが、私にとってはなかなか難しい文章だ。まず、1文1文が長すぎて、意味がつかみにくいし、どうやらひねくれたユーモアがこめられた文章のように思える。たとえば、この段落の最後の部分など。「命じた物事がうまくいっていると、この王様は上機嫌だが、あまりうまくいかないと」の後、不機嫌になるのかと思うと、「いっそう上機嫌になった」と来る。(私の誤読でなければだが)……やっかいな文章のようだが、まあ、難しいからこそ楽しいとでも思うことにしよう。


今回のシリーズでは、私の試訳も毎回付けることにする。原書には、まったく注が無いので、辞書を引いてもよく分からないところは、適当に訳するつもりである。


 


(注)


olden:古語・詩語で「昔の、古い」の意味     half-barbaric:半野蛮の


a man of tremendous fancy:巨大な空想力を持った男(ひどく夢想的な男)


meditating:もくろむ、企てる、熟考する、瞑想する    so long as:~である限り


smooth:穏やかな     crooked:ねじ曲がった 


(研究)


for nothing pleased him so much as to make the crooked straight, and crush down uneven places.


・全体の中心構造は「~ほど彼を楽しませるものはなかった(からである)」だろうが、「to make crooked straight」は、「曲がったものをまっすぐにすること」か。「and」以下も「彼を楽しませるもの」の追加分、ということだろうか。とすれば、この両者は似たような趣味嗜好を表すものだろうから、「and」以下は「高さの異なる場所を壊して平らにする」というようなことだろうか。つまり、ある種の人間にあるような、シンメトリカルな構造や均整への好みかと思われる。この王様には、偏執的な気質がありそうだ。


 


[試訳]


 


遠い遠い昔、ある半野蛮な王がいた。彼は巨大な夢想を持った男で、また誰も逆らえぬ権力者であったから、彼は自分が望むままにその様々な夢想を実現した。彼は自分自身の夢想の世界に耽り、彼が自分でよしと認めたことは何でも実行された。彼の命じたことが適切に行われれば、彼は穏やかで優しかった。しかし、仮にちょっとした困難や非常に不適切な物事があった場合でも、彼はいっそう穏やかで優しかった。というのは、曲がったものを真っ直ぐにし、不揃いのものを平らにすることくらい彼を楽しませるものは無かったからである。


 


 


 


Among the borrowed ideas by which he spread his barbarism was that of the public arena, in which, by exhibitions of manly and horrible courage, the minds of his subjects were refined and cultured.


But even here the tremendous and barbaric fancy showed itself. The arena of the king was built not to give the people an opportunity of hearing the last words of dying soldiers, nor to allow them to view the inevitable end of a conflict between religious opinions and hungry jaws, but for purposes far more useful in widening and developing the mental energies of the people. This vast arena was an agent of poetic justice, in which crime was punished, or virtue rewarded, by the commands of an impartial and incorruptible chance.


 


(注)


borrowed:採用された  arena:闘技場  manly:男らしい 


the minds of his subjects:彼が自分の課題(?)としていることへの関心(?)→◎訂正「subject」には「臣民」の意味があった。したがって、「彼の臣民たちの心」と訂正する。お恥ずかしい。 


hungry jaws:ライオンなどの獰猛な獣の顎 *かつて、キリスト教徒がローマの闘技場でライオンに与えられたことをイメージしているのだろう。 inevitable:不可避の agent:代行者 impartial:公平な  incorruptible:腐敗しない、買収されない  *「impartial and incorruptible chance」が何であるかが、この話のキモのはずである。


 


[試訳] 


 


 


彼に採用されたアイデアの数々によって、彼はその野蛮性を撒き散らしたのだが、その中には公共の闘技場があって、そこで人々は男らしさや恐るべき勇気を観衆に見せ、そしてそれによって王の臣民たちの心は洗練され陶冶されるのであった。


だが、ここにおいてすら、王の巨大で野蛮な夢想が姿を見せていた。王の闘技場は、死に行く兵士の最後の言葉を人々に聞かせる機会を与えるためや、宗教的意見と飢えた顎の争闘の不可避の結末を観衆に見せるためではなく、もっと有益な目的、すなわち人々の精神的な活力を拡大し向上させるために建てられたのであった。この広大な闘技場は詩的な公正さの代行者であり、ここには、偏りもなく買収されることもない機会があり、その裁定によって罪は罰せられ、美徳は報酬を与えられたのである。


 


 


When a subject was accused of a crime of sufficient importance to interest the king, public notice was given that on an appointed day the fate of the accused person would be decided in the king’s arena – a building which well deserved its name ; for, although its form and plan were borrowed from afar, its purpose came from this man only, who, every inch a king, knew no tradition to which he owed more faith than pleased his fancy, and who added to every form of human thought and action the rich growth of his barbaric ideas.


 


*この段落はセミコロンで区切られただけの長い一文でできており、そのまま日本語にすると意味が非常につかみにくいので、いくつかの文に分けて訳すことにする。勝手に文を分けるのは原文への冒瀆である、などと言われるかもしれないが、もともと違う国の言葉をそのままの形で訳すこと自体が不可能に近いのではないだろうか。


 


(注)


accuse:告発する  notice:掲示、公告  fate:運命  deserved:値する  afar:遠い、遠方  every inch a king:あらゆる点で王である、すみずみまで王である  owed:おかげをこうむる  the rich growth:豊かな拡張  


(研究)


and who added to every form of human thought and action the rich growth of his barbaric ideas


・彼(王)は「every human thought and action」に「the growth of his barbaric ideas」を付け加えた、という趣旨だろうが、「every human thought and action」というのが、今一つよく分からない。直訳すれば「すべての、人間の思考と行動」ということになるのだろうが、文意がつかみにくい言い回しだ。であるから、ここは「この闘技場におけるあらゆる事柄」と訳しておく。


 


[試訳]


 


王の臣民の一人が、王を面白がらせるのに十分な重要性を持った罪で告発されると、ある予定された日に、告発された臣民の運命が王の闘技場で決定されるという公告が掲示された。この建築物は「王の闘技場」という呼び名に恥じないものであった。なぜなら、その形態やプランこそはるか遠い所から借りてきたものではあったが、その目的は、あらゆる点で王であるこの男一人に出たものであり、自分自身の愉快な夢想以外にはいかなる伝統にもその起源を負うてはいなかったからである。そして彼はこの闘技場で行われるあらゆる事柄に、彼の野蛮な夢想による豊かで拡張されたアイデアを付けくわえたのであった。


 


 


 


When all the people assembled in the arena, and the king, surrounded by his court, sat high up on his throne of royal state on one side, he gave a signal, a door beneath him opened, and the accused subject stepped out. Directly opposite him, on the other side of the enclosed space, were two doors, exactly alike and side by side. It was the duty and the privilege of the person on trial to walk directly those doors and open one of them. He could open either door he pleased; he was subject to no guidance or influence but that of the earlier mentioned impartial and incorruptible chance. If he opened the one, there came out of it a hungry tiger, the fiercest and most cruel that could be got, which immediately sprung upon him and tore him to pieces, as a punishment for his guilt. The moment that the case of the criminal was thus decided, sad iron bells were rung, great cries went up from the hired mourners posted on the outer edge of the arena, and the vast audience, with bowed heads and unhappy hearts, went slowly on their homeward way, mourning greatly that one so young and fair, or so old and respected, should have deserved such a dreadful fate.


 


*ここで物語の鍵となる二つのドアのうちの一方の説明がなされている。


 


(注)


assembled:集められた  court:廷臣  throne:王座  privilege:特権  pleased:好きなように   subject to:条件として(このsubjectは形容詞だろう)  but~:~以外には  fiercest:獰猛な  the hired mourners:雇われた泣き女たち(mournは悼むこと、喪に服することだが、ここでは「hired mourners」だから、職業的に、葬儀などで泣いて死者を悼む気持ちをアピールする「泣き女」あるいは「泣き男」であろう。ジャズの名曲である「モーニング」は、「朝」ではなく、亡くなった恋人だか知人だかを悼む意味である。) fair:美しい(「My fair lady」のfairである。端正な美しさという感じか。古語の「清らなり」や、沖縄方言の「ちゅらさん」を想起させる。) 


 


[試訳]


 


すべての人々が闘技場に集められ、王が廷臣に囲まれて、闘技場の一方にある、王の尊厳を表す高い玉座に座ると、王は合図をし、玉座の下にある扉が開けられて、告発された廷臣が歩み出る。罪人の向こう正面の側には仕切られて閉ざされた空間があり、そこにはまったく同じ形の二つの扉が並んでいる。この扉にまっすぐに歩み寄ってどちらかの扉を開けるのが裁かれる人間の義務であり、特権であった。彼は自分の望み次第でどちらの扉を開けてもよいが、自分がこの扉を開けることで公正な裁きの機会を得るのだとあらかじめ述べられる以外には、その扉の向こうに何があるかについて何一つ案内も暗示も与えられていなかった。もしも彼がその一つを開けた場合、手に入る限り最も獰猛で冷酷で腹をすかせた虎がそこから飛び出して彼を襲い、彼の罪への処罰として即座に彼を八つ裂きにする。罪人の判決がこのように下った瞬間、鉄でできた鐘が悲しげに鳴らされ、闘技場の端に位置した雇いの泣き女たちの泣き声が沸き起こり、無数の観客たちは、若く美しい人間や年を取って尊敬されていた人間がかくも恐ろしい運命を受け取らざるを得なかったことを深く悼み、頭をうなだれ、悲しみの心とともに、足取りも重く帰途に就くのであった。


 


 


 


But if the accused person opened the other door, there came forth it a lady, the most suitable to his years and station that his Majesty could select from among his fair subjects; and to this lady he was immediately married, as a reward of his innocence. It mattered not that he might already possess a wife and family, or that his affections might be upon an object of his own selection: the king allowed no such arrangements to interfere with his great scheme of revenge and reward. The exercises, as in the other instance, took place immediately, and in the arena. Another door opened beneath the king, and a priest, followed by a band of choirboys, and dancing maiden blowing joyful airs on golden horns, advanced to where the pair stood side by side; and the wedding was promptly and cheerfully carried out. Then the gay brass bells rang forth, the people shouted happily, and the innocent man, preceded by children scattering flowers on his path, led his bride to his home.


 


*長い段落だが、あまり難しい所は無いようだ。


 


(注)


the most suitable to his years and station:彼(被告人)の年齢と地位にもっともふさわしい  innocence:無罪、潔白  affections:愛情、好意  scheme:計画、案、図式    exercises:儀式  as in the other instance:もう一つの場合には  choirboys:少年聖歌隊員  preceded:先導されて


 


[試訳]


 


しかし、もしも告発された者が別の扉を開けたならば、そこからは一人の美女が出てくる。告発された者の年齢と地位にもっともふさわしい美女で、国王陛下が彼のもっとも美しい臣民の中から選りぬいた女である。そして被告人は彼の無罪への報酬としてこの女と即座に結婚することになっていた。彼がすでに結婚し、家族を持っているかどうか、あるいは自分が結果的に選んだこの女に愛情や好意を持つかどうかはまったく問題とされなかった。王は、自分が描いたこの偉大な報復と報酬の図式に対するいかなる変更も介入も許さなかったからである。この、もう一方の扉が選ばれた場合には同じ闘技場が即座に儀式の場に変わった。王の玉座の下の別の扉から、合唱隊の少年たちと、楽しげに黄金の角笛を吹き鳴らしながら踊る少女たちを伴った僧侶が進み出て、被告人とその伴侶となる女が並んで立っているところまで歩み寄る。そして結婚式がすぐに、楽しく執り行われる。そうして真鍮の鐘が鳴り続け、人々の歓呼の声に送られて、その通路に花を撒く子供たちに先導されながら、無罪を勝ち取った男はその花嫁を自分の家へと導くのであった。


 


 


 


This was the king’s method of administering justice. Its perfect fairness is obvious. The criminal could not know out of which door would come the lady: he opened either he pleased, without having the slightest idea whether, in the next instant, he was to be eaten or married. On some occasions the tiger came out of one door, and on some out of the other. The decisions of this tribunal were not only fair, they were definitely determined: the accused person was instantly punished if he found himself guilty; and if innocent, he was rewarded on the spot, whether he liked it or not. There was no escape from the judgments of the king’s arena.


 


(注)


administering:執行する  was to~:~することになった  tribunal:裁き、裁判所  definitely determined :明確に決定された


 


[試訳]


 


これが、王が正義を執行するやり方であった。その完璧な公正さは明白である。被告人は、どの扉から美女が出てくるか知ることはできない。彼は、その向こうに何があるかまったく知らぬままに自分の好きな扉を開け、次の瞬間、彼は食われるか、あるいは結婚する。ある時は扉から虎が出てくるし、ある時には美女が出てくる。この裁きでの判決は公正であるだけでなく明確に決定されたものである。告発された者が、自分が有罪だと知ったその瞬間に彼は処罰され、無罪なら、彼がそれを好もうが好むまいが、その場で無実の罪の償いを得る。この王の闘技場の裁きから逃れる術は無かった。


 


 


 


The institution was a very popular one. When the people gathered together on one of the great trial-day, they never knew whether they were to witness a bloody death or a gay marriage. This touch of uncertainty lent an interest to the occasion which it could not otherwise have got. Thus the masses were entertained and pleased, and the thinking part of the community could bring no charge of unfairness against this plan; for did not the accused person have the whole matter in his own hands?


 


(注)


institution:慣習、制度  popular:人気がある  lent:貸す  the thinking part:考え深い人々(?) *あるいは、直訳で、「考える部分」とするか?  charge:責める、非難する *chargeは多義語だが、基本の意味は「負わせる」こと。「荷車に荷を積む」こと。


(研究)


; for did not the accused person have the whole matter in his own hands?


・この部分は、セミコロンの前で書かれたことに作者自身が答えている。だから、完全に独立した一文ではなく、セミコロンで結んだ半独立文になっているのだろう。


 


[試訳]


 


この制度はとても人気のあるものだった。この偉大なる裁きの日に集められた人々は、自分たちが血生臭い死に立ち会うのか、楽しい結婚式に立ち会うのか、けっして知ることはない。この不確かさの要素が、さもなくば持ち得なかったような面白さをこの儀式に与えていたのである。こうして大衆の大部分は楽しみ、喜んだし、国民の中の思慮深い人々も、このやり方を不公正のゆえに非難することはできなかった。なぜなら、告発された人間の手に、すべてはゆだねられているではないか?


 


 


 


This half-barbaric king had a daughter as fair as fair, and with a soul as commanding as his own. As is usual in such cases, she was the apple of his eye, and was loved by him above all humanity. Among his courtiers was a young man of that fineness of blood and lowness of station to the ordinary heroes of romance who love royal maidens. This royal maiden was well satisfied with her lover, for he was handsome and brave above all others in this kingdom; and she loved him with a strength that had enough of barbarism in it to make it exceedingly warm and strong. This love affair moved on happily for many months, until one day the king happened to discover its existence. He did not hesitate in regard to his duty. The youth was immediately cast into prison, and a day was appointed for his trial in the king’s arena. This, of course, was an especially important occasion; and his majesty, as well as all the people, was greatly interested in the workings and development of this trial. Never before had such a case occurred; never before had a subject dared to love the daughter of a king. In after years such things became common enough; but then they were, in no slight degree, unusual and startling.


 


*長い段落だが、一段落を分けて書くのも不細工だから、一息で片付けることにする。注釈や訳文の中には、もちろん自信の無いところもあるが、一々それを書くのも面倒だから、怪しげな部分は眉に唾をつけて読んでもらえばいい。


 


(注)


As is usual :通常そうであるように  the apple of his eye:掌中の珠、目に入れても痛くない存在   humanity:人間、人類   in regard to :~に関して   workings and development:働きと成り行き   startling:仰天させる


(研究)


as fair as fair


・前のfairと後の fairが同じ意味なら、「美しいが上にも美しい」という強調として考えられる。二つのfairを別の意味とするのは無理がありそうだ。含意や暗示としてはあるだろうが。少なくとも、「公正」などの意味ではないような気がする。


Never before had such a case occurred


such a case had never occurred before の倒置形。もっとも、通常の文がこれでいいのか、よく分からないが。


 


[試訳]


 


この半野蛮な国王には一人の娘がいて、その娘は美しいが上にも美しかったが、また王と同じくらいに驕慢でもあった。こうした場合には常にそうであるように、この娘は彼の掌中の珠であり、この世の誰よりも愛されていた。彼の廷臣の中に、こうしたロマンスではよくあるように、血筋はいいが地位の低い若者がいて、彼は王の娘を愛した。彼は王国の誰よりもハンサムで勇敢だったので、王の娘はこの恋人に満足していた。そして彼女は恋人を深く愛したのだが、その愛は野蛮性を伴ったものであり、だからこそいっそう暖かく強いものでもあったのだ。この恋愛は数か月の間幸福に続いたが、或る日、王の発見するところとなった。王は彼の義務を果たすことをためらわなかった。若者は即座に投獄され、王の闘技場での審判の日取りが決められた。これは言うまでもなく特別に重要な審判であり、すべての国民と同様に、王もまた審判の成り行きに非常な興味を持っていた。これまでこのような事件は起こったことがなかった。これまで臣下が王の娘をあえて愛するようなことは無かったのである。年月が経つうちに、こうした出来事もありふれたものになってきたが、当時はまったく異常な出来事であり、人々を仰天させるような事件であったのだ。


 


The tiger –cages of the kingdom were searched for the most savage and cruel beasts, from which the fiercest animal might be selected for the arena; and the ranks of maiden youth and beauty throughout the land were carefully surveyed by proper judges, in order that the young man might have a fitting bride in case fate did not determine for him a different destiny. Of course everybody knew that the deed with which the accused was charged had been done. He had loved the princess, and neither he, she, nor anyone else thought of denying the fact; but the king would not think of allowing any fact of this kind to interfere with the workings of the tribunal, in which he took such a great delight and satisfaction. No matter how the affair turned out, the youth would be disposed of; and the king would take a beautiful pleasure in watching the course of events, which would determine whether or not the young man had done wrong in allowing himself to love the princess.


 


(注)


fiercest:もっとも獰猛な  throughout~:~のすみずみまで  deed:行為  tribunal:裁判所、法廷、裁きの場  be disposed of:処理される


(研究)


The tiger –cages of the kingdom were searched


・「虎の檻が探された」のではなく、「虎の檻に入れる虎が探された」ということだろう。


and the ranks of maiden youth and beauty throughout the land were carefully surveyed by proper judges


・「maiden」に後付けされた修飾部分が長いので、意味が取りにくいが、修飾部分を括弧に入れるとand the ranks of maiden youth and beauty throughout the land were carefully surveyed by proper judgesとなるだろう。


in case fate did not determine for him a different destiny


a different destinyとは、「虎に食われる方の運命」のこと。


neither he, she, nor anyone else


・彼と彼女だけでなく、すべての人が(その事実を否定するつもりは)なかった。


 


[試訳]


 


王国の虎の檻には、もっとも野蛮で冷酷な野獣の中でも選り抜きの獰猛なものが何頭か集められ、また、若者の運命が野獣の餌食になるものでなかった場合に備えて、若者の花嫁になるのにふさわしい、国中でもっとも若く美しい乙女たちのランク付けが適当な審判者たちによって注意深く進められていた。もちろん、誰もが、この若者が何の罪で告発されたかは知っていた。彼は王女を愛し、そしてそのことを否定するつもりは彼にも彼女にも、他の誰にもなかった。しかし王は、自分に絶大な喜びと満足を与えるこの裁きのシステムに、いかなる「事実」をも介入させるつもりはなかった。事件の内実がどうであろうが、この若者は闘技場での裁きによって処理され、彼が王女を愛するという悪事を働いたか否かに関わらず、王は若者の運命を決定する裁きの儀式を見ることで、美しい喜びを得ることになるはずだった。


 









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昇る太陽 7

    七

 秀吉の凄みは、ここからの政治的手腕にある。あらゆる策謀によって自分を信長の後継者と周囲に認めさせ、それに従わぬ相手とは力で戦った。そして、彼は信長の事業を完成し、日本を統一した。彼は関白太政大臣となり、日本の支配者となった。
 乞食、浮浪者の身から日本の最高の地位に昇りつめた彼の一生は、人間の可能性というものについて、我々にある感慨と勇気を与える。もしも、人が望むなら、家柄や地位に最初から恵まれた人間でなくても、どこまでも昇っていけるのである。
 それは、長い歴史の中のある時期にのみ特有の現象だったかもしれない。しかし、秀吉は、ありとあらゆる社会の底辺にいる人間にとっての希望の象徴として輝き続けるだろう。
 天下人となってからの彼は、かつてのお市への恋慕の代償として、その娘のお茶々、後の淀君を側室に入れ、あらゆる漁色を尽くし、刀狩をして身分の固定化をはかり、意味不明の朝鮮出兵をするなど、後世から見れば批判の種となる様々な愚行をした。だが、人が権力を手に入れるのは、そういう好き勝手をする権利を手に入れるためだと考えるなら、そのような批判にはあまり意味はない。少なくとも、批判された当人は、ほんの僅かの痛痒も感じないだろう。
 とにかく、人は、本当に望むならどこまでも進めるものだということを示してみせただけでも、秀吉は讃えるべき存在だと言える。
 そして、彼があそこまで昇りつめたのは、実は、一つ一つの段階に於いて彼がいつも最善を尽くし、常に次の段階についての準備があったということを見落とすべきではない。
 秀吉が信長の草履取りをしていたということが事実かどうかはわからないが、その頃の彼が周囲の人間に次のような事を言っていたという伝説は、確かに彼の本質を示している。
「俺は、草履取りになるなら、日本一の草履取りになってみせる」

             「昇る太陽」完

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昇る太陽 6

    六

 秀吉が自分の運命を悟ったのは、同僚の明智光秀が本能寺に於いて謀反をし、主君の信長を討ったという知らせを、中国毛利攻めの陣内で受けた時だった。
 実は彼はこの事件を予知していた。はっきりとではないが、光秀が信長に叱責され、耐えるその眼の光の中に、いつかただならぬ事態が起こることを感じていたのである。
 そして、その日が来た時、どうするか。秀吉はずっとその事を考えていた。これは恐ろしい想像ではあるが、戦国の侍大将の一人として、天下を取ることを想像しない者は少ないだろう。彼は自ら信長を裏切る気はなかったから、その日は永遠に来ないかもしれない。だが、もしも仮に、そのような日が来たならば、自分はどうするか。勿論、その時こそ天下に名乗りを上げるのである。信長の家臣の中でも四番手五番手の秀吉が天下取りに参加するとは誰も思っていないだろうが、この頃、秀吉にはすでに、信長の家臣の中では自分が一番だという自負があった。度胸もあるし、頭も良いという自信が。他の連中は、柴田勝家のように度胸だけか、光秀のように頭だけ、という連中である。
 一人だけ、秀吉が恐れていたのは、信長の家臣ではないが、徳川家康だけであった。あの茫洋とした風貌の男は、得体の知れない深さを感じさせる。軍略の面でも統率力の面でも、勝れた武将だ。しかし、今は織田の天下であり、信長の跡を継ぐのは信長の家臣から出るのが当然と、誰でも思っている。
 だから、自分だ、と秀吉は考えた。
 中国の毛利攻めを中断して京都に取って返した秀吉が、山崎の戦いで光秀を破ったのは、知られた通りである。自ら天下を取る意思で謀反したというより、突発的、発作的に信長に謀反した光秀には、その後のプログラムはなかった。ふわふわと秀吉の軍に向かった光秀の軍勢を破ることは、どの武将にとってもたやすいことだっただろう。おそらく、光秀軍の兵士たちには、そもそもその戦いが何のためなのかの確信も無かったはずである。山崎の戦いで秀吉が勝ったのは当然すぎるほど当然の話であり、秀吉の偉さは、この戦いなどにではなく、一瞬のうちに天下取りの決意をして、毛利と偽りの和議をして誰よりも早く京都に向かったという「中国大返し」にあるのである。

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昇る太陽 5

   五

 信長と藤吉郎の有名な出会いは、後世の作者の創作だろう。信長は、直接彼と出会う前からこの末端にいる小役人の存在を知っていたに違いない。
 信長は有能な人間を好み、無能な人間を憎んだ。それは、自分よりも無能な弟を愛し、自分を嫌った母親への憎しみから生まれたものかもしれない。
 有能さとは、その立場立場においていかに力を発揮するかである。大言壮語する人間の自己宣伝を信長は少しも信じなかった。彼の見るところ、織田家の家臣のうち半分は、古い家柄によりかかっただけの無能な人間であった。
 織田家を相続して以来の、信長の日常の大半は、そうした家臣たちの力を量ることに向けられていたと言ってもよい。彼はとにかく無駄なものが嫌いだった。もちろん、その判断は彼の主観であり、自分の嫌いな物を無駄と思う面も多かったが。
 ともかく、信長は藤吉郎の取り計らいの才能を高く評価して台所奉行から足軽頭に取り立てた。彼の見るところ、物事の合理的判断ができるということは、単なる武勇以上に将として必要な能力であったからである。台所の差配ができるなら、戦の差配はできる。逆に、台所の差配もできない人間では戦の差配はできない、ということである。
 藤吉郎はやがて武将としても出世して名前も羽柴秀吉と変わるが、秀吉が武将として人以上に有能であったという証拠は無い。伝えられている墨俣の一夜城の話は武将としての功績としては小さい話だし、演習で長槍を使って勝った話にしても実戦とは関係がない。しかし、少なくとも戦における形勢判断は確かだっただろうし、戦後の論功行賞は的確に行い、部下に不満は持たせなかったに違いない。上に立つ人間のなすべきことはそれに尽きるのである。単に刀を持って戦うだけなら足軽の中にも剛勇の持ち主は何人もいる。しかし、彼らは部隊を率いることはできないのである。
 幸運にも恵まれ、幾つかの戦を無事に生き延びて、彼は順調に出世した。かつての乞食の境遇から見れば、夢のような暮らしである。しかし、彼は、自分にはまだまだ上がありそうだ、という気がしてならなかった。それが何かを考えると、恐ろしい気さえしたのだが。

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昇る太陽 4

    四

 あれは藤吉郎がまだ寺にいた頃の話であるから、今からもう十年以上も前の事になるが、寺の小僧仲間の一人に貴族の息子だとかいう男がいた。名前ももう忘れてしまったが、その男が何かの機会にしてくれた二つの話を藤吉郎は今でも覚えている。その話がどうしようもなく気に入ってしまったのである。
 二つとも史記の中の話で、一つは、項羽が若い頃、学問をしても剣を学んでも続かないことを人から説教されて、
「字は名前さえ書ければそれでいい。剣は一人を相手にするのみ。俺は万人を相手にする方法を学びたい」
と言ったという話。その「我は万人の敵を学ばん」という言葉の威勢の良さに、当時の日吉丸はすっかり参ったものである。
 もう一つは劉邦の話で、彼が部下の韓信に、自分はどれくらいの兵を率いる才能があるかと尋ね、
「陛下はせいぜい十万人程度です」と言われて憮然とし、「ではお前は」と聞くと、
「私は多ければ多いほどいい。(多々益々弁ず)」
との答えに、
「ではなぜお前はかつて私の虜となったのだ」
と聞くと、
「陛下は兵に将たる才能は無い。しかし、将に将たる才をお持ちだからである」
と答えたという話である。
「将に将たる器」、この言葉に日吉丸は陶酔した。それが具体的にどんな能力を指すものかはわからない。しかし、男として生まれた以上、目指してよいものがそこにはあるような気がしたのであった。
 今でも藤吉郎は何かにつけその二つの言葉を思い出す。「万人の敵」と「将に将たる器」。それを思うたびに、今の自分のままではいけないという気になる。だから、彼は人一倍働いた。他人が見ていない時でも、怠けたりすることはけっしてなかった。そしてその事が苦痛ではなかった。
 彼の背後には極貧の暗黒の日々があったからである。
 それを思えば、何でも耐えられない事はなかった。そして、彼の前には昇る朝日しかなかった。
「わしが生まれる時に、お袋様は朝日を呑み込む夢を見たんだそうじゃ」
 彼はよくねねにそんな事を言った。それは罪の無い嘘に決まっているが、彼は自分でも知らぬ間にその嘘によってある幻術を用いていたのである。
 すなわち、彼が何か思いがけない離れ業をした時に、その日輪の話が人々の頭に思い浮かぶという幻術である。
 ねねからその日輪の話を聞いていた者たちは、その話を一笑に付したものの、その事を忘れる事はなかった。それが後に藤吉郎の栄光に幻の輝きをも加えることになった。いや、その幻も藤吉郎の栄光作りに一役買っていたと言うべきだろう。
 相変わらず藤吉郎を毛嫌いする者は多かったが、彼は平気だった。自分を笑う者に対しては一緒になって笑い、自分を笑わぬ者には感謝して、常に真心を尽くした。自然と彼を好む者、彼に味方する者が増えていったのであった。

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