第十三章 後宮
地上まではおよそ三十メートル。落ちたらまず命は無い。ここから後宮の建物までおよそ二十メートルの距離を、指の力だけで体全体の重さを運んでいくのである。
壁を攀じ登ることは、商売柄お手の物だが、さすがにこれだけの距離を指の力だけで移動したことはない。半分ほど行くと、体を吊り下げている手がこわばってきた。
一休みして息を入れ、気力を充実させ、再び体をゆっくりと揺らして移動していく。
あと数メートルというところでほとんど手の感覚は無くなってきたが、なんとか堪えてやっと最後の端まで来た。そこから僅かな出っ張りに足を掛け、一休みした後、ほとんどつかまる物も無い壁に張り付くようにして、窓までにじり寄る。
窓に手が掛かった。そこから体を懸垂の要領で吊り上げ、窓から中に上半身を入れた時には、ピエールはほとほと疲れきっていた。
「キャーッ! 男よ、おとこ!」
中にいた女が窓から入ってきたピエールを見て悲鳴を上げた。
「えっ、男ですって? まあ、ほんと、嬉しい。殿様以外の男を見るなんて五年振りだわ」
嬉しげな歓声を上げる女もいる。
「ま、待て。あんたたちに危害は加えない。そこを通してくれ」
「あら、固い事言わないで、ゆっくりしていきなさいよ。あんた、ちょっといい男じゃない」
しがみつく女を振りほどいて、ピエールは次の部屋に向かった。
三つ目の部屋でピエールはマチルダとヤクシーを見つけた。何人かの女官の前で、可哀想に、二人とも縄で縛られ、座っている。二人はピエールを見てぱっと顔を明るくした。
「その二人は俺が貰うぞ。邪魔をしなければ、あんたたちには何もしない。邪魔をしたら危ないぞ。黙ってその二人を渡しな」
女官のリーダーらしい中年女が金切り声を上げた。
「誰か、衛兵を呼んで来なさい。曲者です!」
「おっと、ここから出て行ったら殺すぜ」
ピエールの脅しに、他の若い女官たちは足を止めた。
「何をぐずぐずしてるのです、この男は武器は持ってません。はやくこの男を捕まえなさい!」
こいつが邪魔だな、と思ったピエールは、手近のベッドの天蓋から垂れているカーテンを引き抜いてリーダーの女官に近づいた。
女は金切り声の悲鳴を上げたが、ピエールは構わずに女をカーテンで縛り上げ、余った端を猿轡にした。
「あんたたちの中で、ここから逃げたいのがいたら、連れて逃げてやるぜ」
隠し持っていたナイフでマチルダとヤクシーの縄を切りながら、ピエールは呆然と彼らを見ている他の女官たちに言った。
「大丈夫かい。間に合ったかな」
ピエールの質問に、マチルダが聞き返した。
「間に合ったって?」
「……つまり、ザイードに手篭めにされなかったかって事さ」
マチルダは顔を赤らめた。
「それは……私は大丈夫だったけど、ヤクシーが先にベッドに連れて行かれて、その時にザイードが倒れて騒ぎになったんで、ヤクシーの方がどうだったのか……」
「ヤクシーはいいさ。あんたの貞操さえ無事なら、マルスに申し訳はできる」
「ヤクシーはいいなんて、ひどいわね!」
「そんな事言ってる場合じゃない。ここから逃げ出すぜ」
「マルスは?」
「あいつは大丈夫さ。我々さえ無事だと分かれば、一人でも逃げ出せるだろう」
ピエールは窓のカーテンを引き裂いてロープにしながら言った。
「まさか、ここから下りるんじゃないでしょうね」
「そのまさかさ。それとも、表でひしめいている兵士たちの前に出て、すみません、怪しい者ですが、ちょっと通してくださいとでも言うか?」
女官の一人がボワロン語で何か言ったが、ピエールにはその言葉が分からなかった。ヤクシーがその言葉をグリセリード語に通訳して、ピエールに言った。
「この下には何頭ものライオンが放し飼いされているそうよ」
「げっ」
ピエールは頭を抱えた。
「後宮から女が逃げるのを防ぐために、下の空堀には腹を減らしたライオンを放しているらしいわ」
「ライオンって?」
マチルダが聞いた。アスカルファンにはいない生き物である。
「預言者ダニエルがお友達になった生き物さ。猫のでっかい奴だ」
「まあ、猫なら大好きよ」
「ううむ、マタタビか何かが通用するならいいんだが……」
ヤクシーが、この部屋に集まってきていた後宮の他の女たちに向かって何か言った。
女の一人がうなずいて、急ぎ足で部屋を出て行く。ピエールはヤクシーに尋ねた。
「何て言ったんだ?」
「食堂から、生肉を沢山持ってきてくれるように頼んだの。あの子は昔の私の召使よ。こんなところで遭うとはね」
「生肉をどうするんだよ。ライオンが我々を食う前の前菜か?」
地上まではおよそ三十メートル。落ちたらまず命は無い。ここから後宮の建物までおよそ二十メートルの距離を、指の力だけで体全体の重さを運んでいくのである。
壁を攀じ登ることは、商売柄お手の物だが、さすがにこれだけの距離を指の力だけで移動したことはない。半分ほど行くと、体を吊り下げている手がこわばってきた。
一休みして息を入れ、気力を充実させ、再び体をゆっくりと揺らして移動していく。
あと数メートルというところでほとんど手の感覚は無くなってきたが、なんとか堪えてやっと最後の端まで来た。そこから僅かな出っ張りに足を掛け、一休みした後、ほとんどつかまる物も無い壁に張り付くようにして、窓までにじり寄る。
窓に手が掛かった。そこから体を懸垂の要領で吊り上げ、窓から中に上半身を入れた時には、ピエールはほとほと疲れきっていた。
「キャーッ! 男よ、おとこ!」
中にいた女が窓から入ってきたピエールを見て悲鳴を上げた。
「えっ、男ですって? まあ、ほんと、嬉しい。殿様以外の男を見るなんて五年振りだわ」
嬉しげな歓声を上げる女もいる。
「ま、待て。あんたたちに危害は加えない。そこを通してくれ」
「あら、固い事言わないで、ゆっくりしていきなさいよ。あんた、ちょっといい男じゃない」
しがみつく女を振りほどいて、ピエールは次の部屋に向かった。
三つ目の部屋でピエールはマチルダとヤクシーを見つけた。何人かの女官の前で、可哀想に、二人とも縄で縛られ、座っている。二人はピエールを見てぱっと顔を明るくした。
「その二人は俺が貰うぞ。邪魔をしなければ、あんたたちには何もしない。邪魔をしたら危ないぞ。黙ってその二人を渡しな」
女官のリーダーらしい中年女が金切り声を上げた。
「誰か、衛兵を呼んで来なさい。曲者です!」
「おっと、ここから出て行ったら殺すぜ」
ピエールの脅しに、他の若い女官たちは足を止めた。
「何をぐずぐずしてるのです、この男は武器は持ってません。はやくこの男を捕まえなさい!」
こいつが邪魔だな、と思ったピエールは、手近のベッドの天蓋から垂れているカーテンを引き抜いてリーダーの女官に近づいた。
女は金切り声の悲鳴を上げたが、ピエールは構わずに女をカーテンで縛り上げ、余った端を猿轡にした。
「あんたたちの中で、ここから逃げたいのがいたら、連れて逃げてやるぜ」
隠し持っていたナイフでマチルダとヤクシーの縄を切りながら、ピエールは呆然と彼らを見ている他の女官たちに言った。
「大丈夫かい。間に合ったかな」
ピエールの質問に、マチルダが聞き返した。
「間に合ったって?」
「……つまり、ザイードに手篭めにされなかったかって事さ」
マチルダは顔を赤らめた。
「それは……私は大丈夫だったけど、ヤクシーが先にベッドに連れて行かれて、その時にザイードが倒れて騒ぎになったんで、ヤクシーの方がどうだったのか……」
「ヤクシーはいいさ。あんたの貞操さえ無事なら、マルスに申し訳はできる」
「ヤクシーはいいなんて、ひどいわね!」
「そんな事言ってる場合じゃない。ここから逃げ出すぜ」
「マルスは?」
「あいつは大丈夫さ。我々さえ無事だと分かれば、一人でも逃げ出せるだろう」
ピエールは窓のカーテンを引き裂いてロープにしながら言った。
「まさか、ここから下りるんじゃないでしょうね」
「そのまさかさ。それとも、表でひしめいている兵士たちの前に出て、すみません、怪しい者ですが、ちょっと通してくださいとでも言うか?」
女官の一人がボワロン語で何か言ったが、ピエールにはその言葉が分からなかった。ヤクシーがその言葉をグリセリード語に通訳して、ピエールに言った。
「この下には何頭ものライオンが放し飼いされているそうよ」
「げっ」
ピエールは頭を抱えた。
「後宮から女が逃げるのを防ぐために、下の空堀には腹を減らしたライオンを放しているらしいわ」
「ライオンって?」
マチルダが聞いた。アスカルファンにはいない生き物である。
「預言者ダニエルがお友達になった生き物さ。猫のでっかい奴だ」
「まあ、猫なら大好きよ」
「ううむ、マタタビか何かが通用するならいいんだが……」
ヤクシーが、この部屋に集まってきていた後宮の他の女たちに向かって何か言った。
女の一人がうなずいて、急ぎ足で部屋を出て行く。ピエールはヤクシーに尋ねた。
「何て言ったんだ?」
「食堂から、生肉を沢山持ってきてくれるように頼んだの。あの子は昔の私の召使よ。こんなところで遭うとはね」
「生肉をどうするんだよ。ライオンが我々を食う前の前菜か?」
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