第十六章 春から夏へ
マルスの持ってきた書物を見ていたロレンゾは、やがて顔を上げて残念そうに言った。
「どうやら、これが賢者の書のようじゃ。だが、残念ながら、わしにはこれは読めん。大昔の言葉で書かれているのじゃ」
がっかりした四人の顔を見て、ヤクシーが不思議そうに聞いた。
「その本には何の意味があるの?」
ピエールが答えた。
「悪魔が世界を狙っているそうだ。この本には、悪魔から世界を救う秘法が書いてあるらしい」
ヤクシーは、横からロレンゾの手にした本を覗き込んだ。
「これは古代パーリ語よ。昔、宮殿の学者がこの文字の研究をしていたわ」
四人は驚いてヤクシーを見た。
「その学者は、生きているのか?」
ロレンゾが聞くと、ヤクシーは首を捻った。
「さあね。ボワロンの軍隊に攻め滅ぼされて、国民の半分くらいは殺されたから、分からないわ」
「パーリはここからどのくらいだ?」
ピエールが聞いた。
「そうね、徒歩なら十五日ほど、駱駝なら五日くらいかな」
「よし、ならばパーリに行こう」
マルスの言葉で、一同は立ち上がった。
その頃、レント宮廷のアンドレは、故郷の町スオミラがガイウスの軍勢によって攻め滅ぼされ、オーエンもイザークも死んだ事を知った。
彼にその知らせをもたらした者は、滅亡したスオミラから辛うじて脱出した一人の男であったが、スオミラは千人もの軍勢に囲まれ、城内の食物も尽きかかって、飢餓に耐え切れず外に出て決戦を挑み、大軍勢の前に簡単に滅んだということであった。
もはやアルカード全体がグリセリードの手中に落ちた事を知って、アンドレはグリセリードへの復讐を心に誓うのであった。
アンドレはレント宮廷の者の中で、グリセリードに詳しく、グリセリード人に風貌が似ている者を数人選んでグリセリードに潜入させた。
季節は初夏に向かっていた。
グリセリードでは、大船団がほぼ完成し、アスカルファン攻撃に備えて、日々、軍勢の教練が行なわれていた。
その中でも一際目を引くのは、鬼姫ヴァルミラの姿である。
馬の操作にかけてはグリセリードでも並ぶ者がなく、馬上での戦いでも、ヴァルミラにかなう者は、マルシアスとデロスを除いてほとんどいなかった。
「あの強さの上に、あの美貌、まさに戦の女神だな」
そう言ったのは、教練を眺めていたエスカミーリオで、話し掛けられたのは、彼の副官のジャンゴである。
「ヴァルミラ様は、男より馬がお好きだとか。勿体無い事でございますな」
「なあに、あのようなじゃじゃ馬こそ、調教次第で、男の言うなりになるものよ。いかに武術の達人でも寝室の中では男の思い通りさ」
エスカミーリオは普段の優雅な物腰にも似合わぬ好色な言葉を吐いた。
ジャンゴは代代エスカミーリオの家に仕えてきた家の者で、今は彼の手足となって働いており、ジャンゴにだけは彼は本音で話すのが常だった。
「しかし、ヴァルミラ様には心の恋人がいなさるとか」
ジャンゴが、無骨な顔に似合わぬ言葉を言った。
「何者だ?」
「マルシアス殿でございますよ。デロス家の小姓から聞いたところでは、ヴァルミラ様は、他の男と話す時と、マルシアス殿に話す時では、顔がまるで違うとか。マルシアス殿と話す時は、それこそとろけそうなお顔になるそうです。その男は、自分も一度でいいから、女にあんな顔をされてみたい、と言ってました」
「マルシアスもヴァルミラに惚れてるのか?」
「それが、よく分からないそうで。どちらかというと、自分の妹か娘のような気持ちで可愛がっているのではないかと、その男は言ってました」
「ふふん、愚か者め。目の前の餌にも気付かない朴念仁には、どうせ女は物にできぬさ」
面白くなさそうに言い捨てて、エスカミーリオは歩み去った。
アスカルファンでは、この春から、すべての郡で年貢や税が前年より二割から三割上がり、国民の間で怨嗟の声が上がっていた。去年のグリセリードとの戦いで消耗した戦費を補うためであったが、それによって国民の生活はひどく切り詰められたものになっていた。
その一方で、王宮や諸侯の宮殿での贅沢な暮らしは何も変わらず、貧しい農民より、宮廷の犬の方が腹一杯に肉を食っている有様だった。
アンドレはアスカルファン国王に親書を送って、グリセリードのアスカルファンへの侵攻が再びある可能性を言ったが、それに対する返書は無かった。
「レント国王からならともかく、一介の廷臣ごときが国王に手紙を送る事すら無礼というものですよ。返事などいりません。グリセリードだって、前の敗戦で懲りてるでしょう」
宰相のカンタスの言葉に、優柔不断なシャルル国王が従ったためであった。
マルスの持ってきた書物を見ていたロレンゾは、やがて顔を上げて残念そうに言った。
「どうやら、これが賢者の書のようじゃ。だが、残念ながら、わしにはこれは読めん。大昔の言葉で書かれているのじゃ」
がっかりした四人の顔を見て、ヤクシーが不思議そうに聞いた。
「その本には何の意味があるの?」
ピエールが答えた。
「悪魔が世界を狙っているそうだ。この本には、悪魔から世界を救う秘法が書いてあるらしい」
ヤクシーは、横からロレンゾの手にした本を覗き込んだ。
「これは古代パーリ語よ。昔、宮殿の学者がこの文字の研究をしていたわ」
四人は驚いてヤクシーを見た。
「その学者は、生きているのか?」
ロレンゾが聞くと、ヤクシーは首を捻った。
「さあね。ボワロンの軍隊に攻め滅ぼされて、国民の半分くらいは殺されたから、分からないわ」
「パーリはここからどのくらいだ?」
ピエールが聞いた。
「そうね、徒歩なら十五日ほど、駱駝なら五日くらいかな」
「よし、ならばパーリに行こう」
マルスの言葉で、一同は立ち上がった。
その頃、レント宮廷のアンドレは、故郷の町スオミラがガイウスの軍勢によって攻め滅ぼされ、オーエンもイザークも死んだ事を知った。
彼にその知らせをもたらした者は、滅亡したスオミラから辛うじて脱出した一人の男であったが、スオミラは千人もの軍勢に囲まれ、城内の食物も尽きかかって、飢餓に耐え切れず外に出て決戦を挑み、大軍勢の前に簡単に滅んだということであった。
もはやアルカード全体がグリセリードの手中に落ちた事を知って、アンドレはグリセリードへの復讐を心に誓うのであった。
アンドレはレント宮廷の者の中で、グリセリードに詳しく、グリセリード人に風貌が似ている者を数人選んでグリセリードに潜入させた。
季節は初夏に向かっていた。
グリセリードでは、大船団がほぼ完成し、アスカルファン攻撃に備えて、日々、軍勢の教練が行なわれていた。
その中でも一際目を引くのは、鬼姫ヴァルミラの姿である。
馬の操作にかけてはグリセリードでも並ぶ者がなく、馬上での戦いでも、ヴァルミラにかなう者は、マルシアスとデロスを除いてほとんどいなかった。
「あの強さの上に、あの美貌、まさに戦の女神だな」
そう言ったのは、教練を眺めていたエスカミーリオで、話し掛けられたのは、彼の副官のジャンゴである。
「ヴァルミラ様は、男より馬がお好きだとか。勿体無い事でございますな」
「なあに、あのようなじゃじゃ馬こそ、調教次第で、男の言うなりになるものよ。いかに武術の達人でも寝室の中では男の思い通りさ」
エスカミーリオは普段の優雅な物腰にも似合わぬ好色な言葉を吐いた。
ジャンゴは代代エスカミーリオの家に仕えてきた家の者で、今は彼の手足となって働いており、ジャンゴにだけは彼は本音で話すのが常だった。
「しかし、ヴァルミラ様には心の恋人がいなさるとか」
ジャンゴが、無骨な顔に似合わぬ言葉を言った。
「何者だ?」
「マルシアス殿でございますよ。デロス家の小姓から聞いたところでは、ヴァルミラ様は、他の男と話す時と、マルシアス殿に話す時では、顔がまるで違うとか。マルシアス殿と話す時は、それこそとろけそうなお顔になるそうです。その男は、自分も一度でいいから、女にあんな顔をされてみたい、と言ってました」
「マルシアスもヴァルミラに惚れてるのか?」
「それが、よく分からないそうで。どちらかというと、自分の妹か娘のような気持ちで可愛がっているのではないかと、その男は言ってました」
「ふふん、愚か者め。目の前の餌にも気付かない朴念仁には、どうせ女は物にできぬさ」
面白くなさそうに言い捨てて、エスカミーリオは歩み去った。
アスカルファンでは、この春から、すべての郡で年貢や税が前年より二割から三割上がり、国民の間で怨嗟の声が上がっていた。去年のグリセリードとの戦いで消耗した戦費を補うためであったが、それによって国民の生活はひどく切り詰められたものになっていた。
その一方で、王宮や諸侯の宮殿での贅沢な暮らしは何も変わらず、貧しい農民より、宮廷の犬の方が腹一杯に肉を食っている有様だった。
アンドレはアスカルファン国王に親書を送って、グリセリードのアスカルファンへの侵攻が再びある可能性を言ったが、それに対する返書は無かった。
「レント国王からならともかく、一介の廷臣ごときが国王に手紙を送る事すら無礼というものですよ。返事などいりません。グリセリードだって、前の敗戦で懲りてるでしょう」
宰相のカンタスの言葉に、優柔不断なシャルル国王が従ったためであった。
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