· 第51節 詩について。詩と歴史。昔の偉大な歴史家は詩人である。伝記、ことに自伝は歴史書よりも価値がある。自伝と手紙とではどちらが多く嘘を含んでいるか。伝記と国民史との関係。抒情詩ないしは歌謡について。小説、叙事詩、戯曲をめぐって。詩芸術の最高峰としての悲劇。悲劇の3つの分類。
· 第52節 音楽について。
· ショーペンハウアーは、イデア (Idee) について、表象において範型として表現された意志であると位置づけている。イデアは模倣の対象として憧れを呼び覚まし未来をはらむものであることから、概念は死んでいるのに対してイデアは生きているといわれる。
· このイデアは段階的に表現されるものであり、これにあたるのは、無機界では自然力、有機界では動植物の種族、部分的には人間の個性であるといわれる。存在を求める闘争においては勝利したイデアは、その占拠した物質が別のイデアに奪取されるまでは、己自身を個体として表現するものとされる。ここでは個体は変遷するものであるが、イデアはあくまでも不変であるとされる。
· 矛盾が支配している未完成な現実の世界に対しては、完成したイデアの世界には調和がある。そこでイデアの世界において芸術に沈潜した人は、意志なき、苦痛なき喜びを少なくとも一時的には得るであろうといわれる。
第四巻「意志としての世界の第二考察」[編集]
~自己認識に達したときの生きんとする意志の肯定ならびに否定~
· 第53節 哲学とは行為を指図したり義務を命じたりするものではないし、歴史を語ってそれを哲学であると考えるべきものでもない。
· 第54節 死と生殖はともに生きんとする意志に属し、個体は滅びても全自然の意志は不滅である。現在のみが生きることの形式であり、過去や未来は概念であり、幻影にすぎない。死の恐怖は錯覚である。
· 第55節 人間の個々の行為、すなわち経験的性格に自由はなく、経験的性格は自由なる意志、すなわち叡智的性格によって決定づけられている。
· 第56節 意志は究極の目的を欠いた無限の努力であるから、すべての生は限界を知らない苦悩である。意識が向上するに従って苦悩も増し、人間に至って苦悩は最高度に達する。
· 第57節 人間の生は苦悩と退屈の間を往復している。苦悩の量は確定されているというのに、人間は外的原因のうちに苦悩の言い逃れを見つけようとしたがる。
· 第58節 われわれに与えられているものは欠乏や困窮だけで、幸福とは一時の満足にすぎない。幸福それ自体を描いた文学は存在しない。最大多数の人間の一生はあわれなほど内容空虚で、気晴らしのため彼らは信仰という各種の迷信を作り出した。
· 第59節 人間界は偶然と誤謬の国であり、個々の生涯は苦難の歴史である。しかし神に救いを求めるのは無駄であり、地上に救いがないというこのことこそが常態である。人間はつねに自分みずからに立ち還るよりほか仕方がない。
· 第60節 性行為とは生きんとする意志を個体の生死を超えて肯定することであり、ここではじめて個体は全自然の生命に所有される。
(考察)
第51節 おそらくギリシャ古典文学についての記述だろう。それが他の文学にまで適用できるかどうかは分からないというか、私は適用できないと思う。
第52節 判断不能。
ここの(・)の記述は重要だと思うので、個別に検討し考察する。私自身が前に書いた考えを訂正するかもしれない。
· ショーペンハウアーは、イデア (Idee) について、表象において範型として表現された意志であると位置づけている。イデアは模倣の対象として憧れを呼び覚まし未来をはらむものであることから、概念は死んでいるのに対してイデアは生きているといわれる。
「イデアとは表象において範型として表現された意志である」とは、「イデアとは概念である」と単純化できそうだが、それは続く文章で否定される。しかし、その否定の論拠である「イデアは模倣の対象として憧れを呼び覚まし未来をはらむもの」である、という説明は「イデアとは理想である」とこれまた単純化されそうである。この考えも、続く(・)で否定されるので、意味不明となる。ショーペンハウアー自身、イデアを明確に把握していたかどうか疑わしい。
· このイデアは段階的に表現されるものであり、これにあたるのは、無機界では自然力、有機界では動植物の種族、部分的には人間の個性であるといわれる。存在を求める闘争においては勝利したイデアは、その占拠した物質が別のイデアに奪取されるまでは、己自身を個体として表現するものとされる。ここでは個体は変遷するものであるが、イデアはあくまでも不変であるとされる。
「無機界の自然力」「有機界の、動植物の種族」「(部分的には)人間の個性」が「イデア」であるという説明は私には理解不能。なぜそれが「模倣の対象として憧れを呼び覚まし未来をはらむもの」だと言えるのか。私は無機物が憧れを持ち、未来を夢見るとは思えないし、動植物も同じである。人間だけが「憧れを持ち未来を夢見る」ものだろう。つまり、「イデア」というものを全宇宙に概念として広げることは大きな無理があると思う。イデアとイデアが「存在を求める闘争」をするということも、思考遊戯であるとしか思えない。つまり、「意志と表象として」世界を見ることにおいて、プラトンのイデア論を持ち込んだのは大きな誤りだったと思う。
· 矛盾が支配している未完成な現実の世界に対しては、完成したイデアの世界には調和がある。そこでイデアの世界において芸術に沈潜した人は、意志なき、苦痛なき喜びを少なくとも一時的には得るであろうといわれる。
ここではイデアを完全に人間界の概念として論じているので、特に問題はないと思う。興味深いのは「意志」を「苦痛の原因」としていることである。そうすると、人間における「意志」とはどういうものなのか、ここまでは論じていないように思う。まあ、意思を苦痛の原因としているというのは私の誤読である可能性もあるが、少なくとも「喜び」を阻害する要因としてはいるだろう。
第53節 前半はカントの否定、後半はヘーゲルの否定と私には思えるが、判断不能。確かカントは「哲学の目的は人間の行動の正しい指針(格率)を知ることだ」と言っていたと思う。
第54節 「全自然の意志」という怪しげなものが問題で、まあ、世界は無意味に生まれ無意味に死んでいく生物の興亡で満ちているわけだが、その生と死を「盲目の意志」の発現とすれば特に誤りとは言えないだろう。しかし、そこに「人間の意志」まで含めると、話が違ってくるのではないか。第一文以外は問題無し。第二文以降は後で出て来る宗教否定論につながるか。
第55節 非常に問題のある要約文で、意味不明だが、それは原著書が本当に意味不明の内容なのか、要約者が間違って理解しているのか分からない。少なくとも、このままだと日本語になっていない。文を分解して見てみる。
人間の個々の行為、すなわち経験的性格:「人間の個々の行為=経験的性格」が日本語になっていない。「人間の個々の行為=経験」なら理解可能。あるいは「人間の個々の行為=経験的性格の行為」でもいい。
人間の個々の行為、すなわち経験的性格に自由はなく:「人間の個々の行為(すなわち経験的性格)には自由はない」とする根拠が不明。たとえば「人間の自由意志というのは錯覚である」とか。「人間の個々の行為は社会の束縛によって自由を失っている」なら理解可能。
経験的性格は自由なる意志、すなわち叡智的性格によって決定づけられている。:つまり、「自由意志は存在する」という立場であるわけで、それならなぜ「人間の個々の行為に自由はない」と言えるのか、理解不能。また人間の「自由なる意志」が存在するなら、それは「盲目の意志」という大前提に反するのではないか。それとも、人間の意志だけは「盲目」ではない、とするのか。また「経験的性格は叡知的性格(精神?)によって決定づけられる」とは、「人間の行為に自由はない」ということを否定しているのか、肯定しているのか、私には理解不能。
(パソコン不調のため、暫定的に簡単に私自身の肯定否定だけ書く。)
第56節 否定的
第57節 否定的
第58節 否定的。私は宗教には否定的だが、それを「気晴らし」とは考えない。
第59節 ほぼ肯定だが、神に救いを求めるのが「無駄」だとは思わない。それで「救われている人間」が膨大にいる。文学は虚構だが膨大な人間を救っているのと同じである。
第60節 ここは「性行為」ではなく「生殖行為」でないと無意味だろう。