私は「愛する」という言葉の定義、あるいは「愛」という言葉が定義されているのを見たことが無いのだが、どう定義したらいいのだろうか。確かこれは最初期に日本に伝道したキリスト教の宣教師も悩んだところで、日本での布教では「愛」を「ご大切」と訳したと聞いたことがある。つまり、当時の日本には「愛」とか「愛する」という言葉は存在しなかったわけだ。その「LOVE」が性愛まで含むと知ったら、当時の信者たちはショックを受けたのではないかwww 「神はお前たちを愛している」が「神はお前たちをfuckしたいと思っている」となるのだからwww
まあ、冗談はともかく、「愛する」の定義は何かと言えば、相手を「大切」に思うというのが一番妥当な定義ではないか。つまり、あの宣教師たちの「ご大切」は適訳だったわけだ。これによって自分の子供を愛することも恋人を愛することも人類全体を愛することもすべて「愛する」で表現できるわけである。
だが、「愛する」と「大切に思う」こととが完全にイコールとは限らない。私の考えでは、「愛する」は自分の主観内にとどまる(と言うより、あくまで「自分」が中心の)もので、「大切に思う」ことは行動(相手を保護することや、相手を幸福にすること、つまり「相手」中心であること)を含意していると思う。
デヴィッド・ボウイの或る歌の歌詞を借りれば「love is not loving」であるわけだ。まあ、これは「愛は愛することと同じではない」と訳されるだろうから、「愛する」に行動的なニュアンスがあるとは思うが、私は何となくだが「愛する」でもまだ行動性をあまり感じないのである。
それに対して「大切に思う」の場合は、かなり必然的に大切に思う対象を保護し、そのために行動するというニュアンスを私は感じるのだが、これは単なる主観だろうか。つまり「愛」も「愛すること」も自分の心の中で完結しても不思議ではない、という感じだ。にも関わらず、欧米の「I love you」は私には「さあ寝よう、すぐ寝よう、今寝よう」というニュアンスを感じるwww もちろん、これは男女の場合だ。ここには「大切に思う」ニュアンスはゼロである。相手は単なる性欲の対象だ。何だか「ニュアンス」の大安売りだが、これは私自身が漠然と感じていることだから仕方がない。もちろん、これは現代の男女の恋愛が即座に性交と結びついているという状況から来た単なる現象だ。性交など恋愛抜きでも簡単に売買されている。性交と恋愛には必然的な結びつきはない。
で、ここから本題だが、私はキリストの「汝の敵を愛せよ」というのは史上空前絶後の発想だと思う。これが実行されたら、世界の戦争どころか、あらゆる争い事はすべて消滅するのである。
まあ、冗談はともかく、「愛する」の定義は何かと言えば、相手を「大切」に思うというのが一番妥当な定義ではないか。つまり、あの宣教師たちの「ご大切」は適訳だったわけだ。これによって自分の子供を愛することも恋人を愛することも人類全体を愛することもすべて「愛する」で表現できるわけである。
だが、「愛する」と「大切に思う」こととが完全にイコールとは限らない。私の考えでは、「愛する」は自分の主観内にとどまる(と言うより、あくまで「自分」が中心の)もので、「大切に思う」ことは行動(相手を保護することや、相手を幸福にすること、つまり「相手」中心であること)を含意していると思う。
デヴィッド・ボウイの或る歌の歌詞を借りれば「love is not loving」であるわけだ。まあ、これは「愛は愛することと同じではない」と訳されるだろうから、「愛する」に行動的なニュアンスがあるとは思うが、私は何となくだが「愛する」でもまだ行動性をあまり感じないのである。
それに対して「大切に思う」の場合は、かなり必然的に大切に思う対象を保護し、そのために行動するというニュアンスを私は感じるのだが、これは単なる主観だろうか。つまり「愛」も「愛すること」も自分の心の中で完結しても不思議ではない、という感じだ。にも関わらず、欧米の「I love you」は私には「さあ寝よう、すぐ寝よう、今寝よう」というニュアンスを感じるwww もちろん、これは男女の場合だ。ここには「大切に思う」ニュアンスはゼロである。相手は単なる性欲の対象だ。何だか「ニュアンス」の大安売りだが、これは私自身が漠然と感じていることだから仕方がない。もちろん、これは現代の男女の恋愛が即座に性交と結びついているという状況から来た単なる現象だ。性交など恋愛抜きでも簡単に売買されている。性交と恋愛には必然的な結びつきはない。
で、ここから本題だが、私はキリストの「汝の敵を愛せよ」というのは史上空前絶後の発想だと思う。これが実行されたら、世界の戦争どころか、あらゆる争い事はすべて消滅するのである。
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