忍者ブログ

ジョークの危うさ

安倍総理の例のエレベーター発言についての小田嶋師の記事の一部で、師はあれを「滑ったジョーク」だと見做しているわけだが、まあ、たぶんそうなのだろう。
しかし、下に書かれている「ジョークの考察」は、ジョークを言う側の卑しい(厭らしい)心性を見事に剔抉しており、文章でジョークを書くことの好きな私は頭を掻くしかない。(もちろん、これも「書く」と「掻く」のジョークというか、駄じゃれ。)
私の見るところでは、ジョークとは「異常性を攻撃する」のがその主たる機序であり、体の免疫システムみたいなものだ。だから、悪や偽善を攻撃するのが一番多いパターンなのだが、精神薄弱者とか身体障碍者とかいった「自分ではどうしようもない異常」を背負った人々もその攻撃の対象になることが時々ある。安倍総理が低能だからといって、それを攻撃するべきではない、ということである。攻撃すべきはその道徳的な悪の部分や下劣な品性や悪行なのである。
ドストエフスキーの『白痴』が描いたように、他人から阿呆扱いされる人間が実は無垢・無邪気であり、ほとんど聖人である場合もあるが、すべての白痴が聖人とはかぎらない。
すべての弱者が道徳的に聖人か悪党かのどちらかになるわけでもなく、悪どい弱者も聖人のような弱者もいる、という、当たり前の話だ。

(以下引用)



「悪気」や「嘲笑の意図」を云々する以前に、エレベーターを笑うジョークは、その「構造」として、エレベーターに乗って天守閣にたどりついた階段弱者を貶めたストーリーを包含せざるを得ない。その意味で、エレベーターを笑うジョークは、結局のところ「強者」による共感的な雄叫びとそんなに遠いものではない。



 「戦国の世の秋霜烈日なリアルを体現しているはずの城郭の天守閣に、足元もままならない老人や車椅子に乗った障害者が集っている絵面の滑稽さ」をもって「21世紀的なクソ甘ったれたみんなの善意で世の中を素敵な場所にしましょうね式のバリアフリー社会の偽善性」を批評せしめようとするその「オモシロ」発見の視点自体が、そのまんまホモソーシャル的ないじめの構造に根ざしているということでもある。



 すぐ上のパラグラフは言い過ぎかもしれない。



 ただ、会話の中にジョークを散りばめにかかるコミュニケーション作法が、多分に虚栄心と自己顕示欲を含んだものほしげな態度であるという程度のことは、21世紀の人間であるわれわれは、自覚しておいた方が良い。



 ジョークは、他人を動かすツールとしてそれなりの機能を発揮している一方で、時に意外な副作用をもたらす厄介な劇薬でもある。




拍手

PR

「正義の相対化」という不正義な行為

「ピレネー(山脈)の南には異なる正義がある」
と言ったのはパスカルだったと思うが、これが「正義の相対化」の濫觴だろうか。
正義とは社会社会によって異なる相対的なものだ、というのは基本的には正しい考えだが、普遍的な正義もあるからこそ、どの時代やどの社会でも殺人や悪質な虚偽は不正義とされるわけだ。(他民族や他国民を殺すことは正義である、という思想が古代の「戦争正当化」の思想であるが、同胞を殺すことはどの民族でもどの国民でも不正義だっただろう。そして私は、他国民や他民族を殺すことも悪である、という当たり前の思想がなぜ当たり前になっていないのか、そこに為政者による国民洗脳の恐ろしさを見ている。)
正義の相対化が行き過ぎると悪の擁護になる。今のように上級国民による悪がはびこっている社会で「正義の暴走」を云々する(たいていは上級国民擁護の側の発言である。)のは、それ自体「悪への加担」であるわけで、まあ、要するにお偉いさんの提灯持ちであり、悪の実行者(お偉いさん)以上に醜い。





正義の暴走を懸念するところまではわかる。
たしかに、独善に凝り固まった人間の集団は、ときに、おそろしい行動に出るものだからだ。
ただ、素朴な正義感の発露や、正義に沿ってものを考えることそれ自体を、非難している人たちを見ていると、予防拘禁を正当化していたゲシュタポの姿を思い出す




拍手

大西つねきの経済観

れいわ新選組大西つねきの公式サイトから記事の一部を転載。
簡単に言えば土地私有制度をやめる、ということで、その具体的プログラムは引用部分の前のほうにある。まだ詳しく読んではいないが、無理のないプログラムのように思えるし、現代の新自由主義的資本主義の牢獄を打ち破る大きなポイントのひとつが土地問題だろうと思う。
大西氏はさらに利子というもの、不労所得というものに否定的であり、これらは明白に金融資本主義の否定である。では、共産主義かと言うと、私有財産そのものは否定していないのだから、どちらかと言えば社会主義的な思想と言うべきだろう。あるいは、西洋的な搾取的資本主義の「経済の論理」の対極にある東洋的な「経世済民」の思想である。
私が何度も言うように、社会主義の本質とは、宮沢賢治の言葉である「社会がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」というヒューマニズム(反エゴイズム)なのである。(なお、私は「プロレタリア独裁」という言葉が大嫌いであり、マルキシズムの戦闘的姿勢が社会主義の健全な発展を阻害したと思っている。)ヒューマニズムの観点から見れば、政治的な右も左も関係ないのだ。

(以下引用)



若者に夢とチャンスを



今の日本の社会に若者が夢を描けないのは当然です。土地の私有制度と、その価格の高止まりが彼らを搾取しているのですから。多くの若者は学校から卒業した瞬間、社会の最底辺からスタートします。安い賃金で働いて稼がなければ生きられない状態からスタートするのです。自活しようとすれば、家賃を払い、生活必需品を買います。全ての価格には金利が織り込まれ、お金を使う度にそれを負担するのです。その中には、土地に融資された膨大な借金の金利も含み、なおかつそれで発行された膨大なお金が下支えする地価によって高止まりする家賃を払い、ダブルで搾取されます。高止まりした家賃は、何か新しいことを始める時には大きなハードルです。アイデアがあっても、それを実行すること自体、非常に難しくなるのです。結果、大企業につながれたまま、新しいアイデアを生み出せない老朽化した経営陣の言われたままに働くことになります。社会の新陳代謝が失われるのも当然です。それもこれも、源流はバブルにあります。土地の私有制度、そして土地担保融資が、人の欲望を膨らませ、借金を膨らませ、地価を膨らませ、その連鎖を限界まで繰り返し、何も生産しないまま、最後には借金だけが残ったのです。不良債権処理したのはごく一部、その他の不良債権は広く薄く一般に押し付けられ、少しも減っていません。その証拠に「政府の借金を税金で返してはならない」にあるM2のグラフを見れば、全体のお金の量、借金の量はバブル以降も増え続けているのが一目瞭然です。銀行融資は減ったものの、その分政府の借金でお金を発行し続け、見事に国民全員に押し付けられています。ですから膨大な金利も高止まりした地価もそのまま、バブルの時期には生まれてもいない若者たちを搾取しているのです。こんな馬鹿な話があるでしょうか?ですから、この仕組みを壊さなければならないのです。でなければ、これから生まれて来る全ての子ども達を搾取し続けることになります。逆に、もし勇気を持ってそれを断行し、やる気とアイデアのある若者が、土地を買うことなく、それを使うことができるようになれば、日本はチャンスと夢に溢れる国に再びなれるのです。






拍手

リアリズムの仮面を被った感傷癖

私の持っている別ブログに書いた文章だが、「リアリズムの仮面を被った感傷癖」という言葉は、政治的発言やネット言論においても汎用性がある便利な言葉(概念)だと思うので、紹介しておく。とにかく、「リアリズム」とか「リアリスト」というのが、理性的とか客観的という仮面を被った感傷癖(底の浅い、幼児的な主張)であることは非常に多いと思う。ネトウヨが論敵に言う「お前のカーチャンで~べそ」という発言は事実を指摘しているかもしれないが、だから何だ、という話である。
ネットの「リアリスト」たちは、なぜか強者(権力)を擁護し、弱者への同情をこき下ろすのがリアリズムだとしているが、その心性の下品さに自ら絶望しないのが不思議である。
理想は、現実に合致していないからこそ理想なのであり、政治が理想を捨てたらその存在意義はない。


(以下転載)


リアリズムの仮面を被った感傷癖



筑摩書房「現代日本文学大系」の「小林秀雄集」のパンフレットに松原新一という評論家が寄稿した「小林秀雄氏に学んだこと」の中に面白い言葉がある。それは、

「リアリズムの仮面を被った感傷癖」

という言葉だ。
これが小林秀雄の言葉の引用かどうかは定かでないが、小林秀雄がリアリズム思想の持つ欠陥をその詩人的体質から鋭く見抜いて批判していることは確かだろう。
「リアリズムの仮面を被った感傷癖」というのは、それ自体の説明はそこ(松原新一の文章)では書かれていないが、おそらく、「リアリズムは人生における感傷性の持つ非理性性を指弾するあまり、感傷性の豊富な宝をすべて否定するという、非理性的態度(感傷的態度)に堕している」ということではないかと思う。
その例示を小林秀雄自身の文章から摘出してみる。オスワルドは芝居の登場人物だろう。

「ゾラはオスワルドに言ふ。『舞台どころではないぞ、さっさと下り給へ、君には親父の遺伝がある』。イプセンが、やって来る。『成る程廃人だ、もう口も利き度くはあるまい、だが、もう一つぺん出てみるんだな、台詞は何んとか工夫しよう』」(「ヘッダ・ガブラー」より)


要するに、リアリズムとは現実の合理的集約の思想であり、集約の常に漏れず、常に多くの細部を取り落としていくわけである。思索という行為そのものが現実の捨象による抽象作業なのであるから、それがリアリズムを旗頭にしたら、どれほど多くの粗漏が生じるか、明白だろう。
ついでに言えば、私は自然主義文学が大嫌いなので読まないままで言うが、自然主義文学のリアリズムとは、要するに、現実の汚い部分醜い部分を主に取り上げることから来る「現実的だ」という錯覚を利用した印象操作にすぎないのではないか。






拍手

新しい国民運動としてのれいわ新選組

同じ竹熊健太郎ツィッターの中に、山本太郎が比例区から出るのは、得票率が2%を超えたらそれだけで政党要件を満たすからだ、と書いてあったが、素晴らしい戦略だ。山本太郎の議席があった東京の選挙区には創価学会員で公明党批判者の野原氏が出るらしい。これも戦術として面白い。創価学会内で公明党への潜在的不満を持っている人々の票が野原氏に向かう可能性は高いと思う。
なお、新右翼で労働問題への真面目で建設的な発言の多い雨宮処凛もれいわ新選組の会見会場に姿を見せたという噂もある。立候補するかどうかはともかく、右翼(あるいは保守層)もこの新しい波に乗ると、さらに面白い運動になる。
もはや国民は右とか左とかいうイデオロギー闘争にはうんざりしている。そして個人の力では上級国民の権力に逆らえないので、不平等や不公正を我慢してきた。しかし、一握りの上級国民より、庶民の数が圧倒的に多いのである。「少数者による多数者の支配」という不条理な構造を変えられるのは、選挙だけなのである。




  1. 山本当選には300万票が必要。本当の背水の陣だ。山本太郎、今回は議席を逃したとしても衆院選で挽回する覚悟。



  2. 、山本太郎が比例に回り、議席を持っていた東京選挙区には沖縄創価学会員の野原よしまささんが。公明党を飛び越して創価学会員に直接問いかける、物凄く考え抜かれた人選。山本太郎は比例3位で、身障者の木村えいこ、ふなごやすひこ氏が当選して初めて山本の当選になる。



拍手

日本アニメも社会風刺・政治風刺を恐れるな

私は、「ゲゲゲの鬼太郎」の新アニメが、オタク受け狙いで猫娘を美少女化しているという情報を聞いて、まったく興味を無くし、一度も見てもいないが、下に書かれているような内容なら、見るに値するかもしれない。
外国アニメは政治風刺や社会風刺を平気でやるが、日本は「自主規制」がひどくて、大人向けの風刺アニメがほとんど無い。「ゲゲゲの鬼太郎」制作者たちの勇気を称えたい。なお、すぐれた風刺は子供でも分かるものである。

さんがリツイート

今回のゲゲゲの鬼太郎

水が汚染されて、ねずみ男の会社の浄水器が唯一汚染を解消できるので、国がねずみ男に頼ったら、浄水器代を1000倍に値上げ。

現実の日本で起きてる水道事業民営化の警鐘という鋭い内容。

今期のゲゲゲの鬼太郎は風刺アニメとしてのクオリティが高い。




拍手

「化」も人偏であるのが面白い

最近の若い人は漢字部首の意味を小学校で習わないのだろうか。体は牛で顔は人という妖怪を「にんべん」に「牛」の「件」という漢字で表したのは自然だろう。もっとも、「件」という漢字を「例の」の意味として「くだん(の)」と読ませた理由は知らない。「くだん(の)」の語源自体が分からない。
なお、「里見八犬伝」では、犬に嫁する姫君が「伏姫」である。つまり、「人偏に犬」の「伏」である。




さんがリツイート

届かないけど何度も呟く。
この木彫像を件(くだん)とする根拠は何?
どのような謂れで?
誰が言ってるの?

気になる、気になる!
教えて、教えて!





拍手

カレンダー

06 2025/07 08
S M T W T F S
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31

カテゴリー

最新CM

プロフィール

HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

ブログ内検索

アーカイブ

カウンター

アクセス解析