山岸凉子先生の描く「怖い話」はほんとうに怖い。類を見ないほど怖い。どうしてこんなに怖い話を描けるのだろうか。
私の仮説は、山岸先生はご自身の心の奥底にわだかまっている恐怖の「種」をマンガにすることで「祓っている」というものである。
「お祓い」なのだから、手抜きはできない。うっかり一番怖いところを「祓い残し」たら、そこから恐怖が再び鎌首をもたげてくるかも知れない。膿は出し切らなければいけない。だから、徹底的に怖い話、これ以上怖い話はこの世にないという話を語ることを山岸先生はみずからに使命として課しているのである。
そして、世には無数の恐怖譚があるけれど、どういう物語が最も根源的に、最も救いなく人を恐怖させるのか、それを考え抜いた結果、山岸先生がたどりついた結論は、「自分自身が自分を恐怖させる当のものである」という恐怖譚が最も救いがないというものであった。
外から鬼神の類が訪れてくるのであれば、仲間を集めたり、あるいは霊能力の高い人にすがって、それと「戦う」という積極的な対策も立てられる。結界を引いてその中に「閉じこもる」という防御策も講じられる。だが、自分自身が自分を恐怖させている当のものである場合、「恐怖させるもの」と「恐怖するもの」が同一である場合、いわば恐怖に釘付けにされていること自体がその人のアイデンティティーを形成している場合、その恐怖からは逃れる手立てがない。そういう話が一番怖い。「汐の声」は「私の人形はよい人形」とともに私が「山岸ホラーの金字塔」とみなす傑作だけれど、まさに「そういう話」だった。
それ以外でも山岸先生の「怖い話」はどれも「他の人は感じないのに、私だけが恐怖を感じてしまう」という「恐怖させるもの」と「恐怖するもの」がひとつに縫い付けられていることの絶望が基調音を創り出している。ああ、書いているだけで怖くなってきた。
(『ダ・ヴィンチ』9月号)
(以下引用)
■真実が暴かれる21世紀の庶民は疲弊している
なぜ、このようなダークヒーローが残酷に大量殺人をする映画やドラマがアメリカや韓国ばかりでなく、日本でも人気を博しているのか?
ヒントは、『ヴィンチェンツオ』の中で女性弁護士が言う台詞の中にある。「イタリアのマフィアはシシリーにいるだけ。でも韓国は、政府もメディアも警察も裁判所も刑務所も財閥も、みんなマフィア」という台詞の中に。
上が上なんだから、法そのものが恣意的なあてにならないものなのだから、実質的には法治国家じゃないのだから、生き抜くためには下もマフィアになるしかないということだ。
日本社会は、そこまでは腐っていないと思いたいかもしれないが、真実はわからない。
ドラマや映画を製作する側も、それを消費する側も、2021年に生きる人間とならば、以下の8点を共通認識としている(と思う)。
(1)教科書に書いてあることは、真実のほんの一部。歴史のほんの表面。教育は、国民を奴隷にするために機能している洗脳機関。常識を疑え!
(2) 立派なスローガンや主義主張の背後には、残酷冷酷な意図が潜んでいる(ことが多いかもしれない)。地獄への道は善意で敷き詰められている。
(3)TVや映画を含み大手メディアは、それらの立派なスローガンや主義主張の残酷冷酷な意図を隠し、糖衣状にして流通伝搬させる装置。
(4) そういうメディアの策略を読むメディア・リテラシー(media literacy)を身につけることは非常に難しい。せいぜい中途半端な陰謀論者になり、脳と心が一層に混乱するだけだ。
(5)価値観の相対化が進み倫理も美意識も人それぞれになるのは、多様性を認めあう理想の世界に見えて、実際には人々は何を守ればいいのかわからなくなった。表面的にはポリコレぶりっこだが、実際は、無規範(anomy)が世界に蔓延しつつある。
(6)そういう世界の中で、人々は自己防衛のために他人を潜在的脅威とみなし、相互不信が人間関係の基調になる。人間は相互扶助のために集団を形成するはずが、集団形成そのものが難しくなりつつある。たとえば、個人が属する最小集団である家族そのものが個人にとって危険なものとなるように。古代からそうだったのかもしれないが、それが暴露されてきた。
(7)「お上」は庶民から収奪するだけの存在であり、特権的支配層は「お上」と結託して税金の中抜きが自由にできる。ならば、自分たちだって、脱税や課税回避地域への資産逃亡や非合法行為は自己防衛として許されるというアナーキーな心情が、多くの企業人や庶民の心に形成された。
(8)昔の庶民は、良きにつけ悪しきにつけ、メディアの発達もなく、factだろうがfakeだろうが、情報にアクセスする機会も手段もなく、特権層の腐敗も知らず、価値観の混乱や無規範に翻弄されることもなかった。しかし、現代に生きる庶民は、真実もゴミも大量に浴びるので疲弊する。