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古文と関西弁

コピーできていないが、下のチコちゃん氏によれば、今の関西弁は江戸時代にできたらしい。

古文が口語文ではなく文語文だからにしても、井原西鶴などの庶民生活を描いた作品に今の関西弁がまったく出てこないのは不思議である。関西弁が江戸時代にできたとしても、江戸時代には「下品な言葉」として、小説の中には出てこなかったのではないか。(何事でも出始めには下品視されるものだ。)たとえば江戸の十返舎一九の「東海道中膝栗毛」には庶民の言葉もかなり出てきたと思うが、江戸時代以前の大阪や京の作家でも関西弁はほとんど使われていないはずだ。明治でも小説にはほとんど登場していないと思う。谷崎潤一郎の「細雪」あたりが、小説の中で関西弁が使われたさきがけではないか。
私の推測だが、明治維新以降に関西人が「反東京」(反中央)意識から関西弁を多く使用するようになったのではないか、と思う。

これは、井上章一が世間の「関西弁蔑視」に文句を言っている文章を読んで持った疑問を考察したものである。
井上章一は「関西弁でも抽象的な高度な思考はできる」例として富永仲基を例に出しているが、彼の著作は関西弁で書かれてはいない。彼の思考が関西弁でなされたかどうかは証明不可能だろう。



(以下引用)




補足

言葉足らずですみません。なぜ古文の表現が残ってないのではなく、なぜ今の関西弁が生まれたのかが知りたいです。 「~~やねん」とか「~~やで」とかの表現は古文中に出てこないので、どこから発生したのかなぁと思いました。 昔は書き言葉と話し言葉が違ったから一概に無かったとは言えませんが。



日本語 | 文学、古典・529閲覧















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2019/9/2 20:13



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チコちゃん


2019/9/3 11:25



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「ビッグバン説」の虚妄性

夜明け前の空が完全に曇り空で、空を見ても面白くないので、心内の夢想だけに耽りながら散歩をした。まあルソーではないが、「孤独な散歩者の夢想」である。
で、例によって大半は散漫な夢想ではあるが、比較的集中して考えた題目が宇宙論である。

私がビッグバン説をインチキだと思っていることは何度も書いているが、それは私に宇宙物理学の知識があるからではまったくなく、むしろそういう知識が無いからこそ、直観的にそれが嘘だと分かるというか推定するのである。

その判断の根拠は非常に簡単な大原則で、「無から有は生まれない」ということだ。これに反する事象はこの宇宙には存在しないはずで、それなら宇宙そのものも無から生まれたはずがない。「ビッグバン説」は基本の基本から大嘘なのである。
何かが無から生まれたように見えるのは、単に「目には見えない物質の離合集散」の結果にすぎない。それは微生物や細菌や元素(あるいは原子や分子)という存在だ。
しかし、仮にビッグバンによる宇宙誕生が、何かの原子や分子の離合集散によるものなら、「宇宙誕生以前に原子や分子が存在した」ということになり、それは既に「ビッグバン以前にそれらの元素を含む宇宙が存在した」ことになる。つまり、無から有が生まれることは絶対にないのである。おそらく、ビッグバン説の大本(ヒント)は核爆発による異常な熱膨張現象だろう。しかし、それも「無から有が生まれた」わけではない。単なる膨張だ。
そういう意味では、ビッグバン説とは別の話として「膨張宇宙説」は可能性が無いとも限らない。しかし、膨張とは基本的に「限界があるもの」の話であり、限界の無い宇宙(宇宙に限界があるなら、その限界の「向こう側」はどうなる、という頓智問答になる。)が膨張するというより、単に遠隔地点の星と星の間の運動の結果が「宇宙そのものが膨張しているように見える」だけという可能性もある。核爆発による膨張と私が言うのは、爆風のことである。

まあ、物理学その他の学問は「専門的言葉」「前提的知識」が膨大にあり、それらを学んでいるうちに何もかもが混迷化してビッグバン説のような極端な詐欺がまかり通るようになるのだろう。もちろん、それは「学問の世界」が「権威者による支配」の世界であり、それに逆らうと学問の世界で生きていけないからでもある。

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足の底は体の底(体全体を支えるアトラス)

私の別ブログに書いた記事だが、案外と重要な考えかもしれないので、こちらにも載せておく。

(以下自己引用)年齢がばれるので冒頭の一句を削除したww


「足底部」の重要性



今日初めて私は「歩き方(歩行のメカニズム)」を知ったのだが、それを書いておく。

最初に、あなたたちは足指の付け根の部分を何と言うか知っているだろうか。
それを実は「足底部」と言うのである。
つまり、足の底は踵ではなく、足指の付け根、あるいは足の中で足指と踵を除いた部分なのである。そのうち、「土踏まず」は実質的には地面に触れないから、「足の底」は「足の指の付け根」部分だ、と言えるだろう。
これが「歩き方」の最大の秘密である。この足底部(足底部前部)が、体重を支え、歩く時の中心であるということだ。体重制御の中心は決して踵でもつま先でもない。

歩いていると、これが分かるはずで、踵は平地を歩く時「最初に地面に触れる」から歩く時の中心部分だと錯覚する人が多いと思う。しかし、それはほんの一瞬で、次の瞬間には体重は足底部に移り、次の脚の踵が地面に触れるまで、体重を足底部が支えるのである。そして、次の脚に運動部位が移る瞬間に今の脚の足指が少し地面に触れてすぐに地面を離れる。一瞬触れるだけで体重を支えることはない。

足底部(足底部前部。以下「足底部」とする)が歩く時の重心移動の中心だということは、上り坂を上るときに明白になる。この時、踵はほとんど地面に触れないのであり、上っている間中、足底部が体重を支えているのである。つま先は靴底に触れるが体重を受けることはない。
下り坂もほぼ同じで、下るときには踵が最初に地面に軽く触れるが、それは「地面の存在場所の確認」程度で、次の瞬間には体重は足底部に完全に乗り、次の脚の踵が地面に触れる時まで体重はそこで支えられる。

以上を頭に入れれば、正しい歩き方とは「足底部」を意識して歩くことだとわかるだろう。これができていないと、長期的には足や脚の変形や故障につながる可能性もある、かもしれない、と少し脅しておく。

妄想的に言えば、格闘技でも足底部に重心を置くのが大事で、踵に重心を置けば、後ろに倒れそうになった時の支えがないし、足指に重心を置けば、前に倒れそうになった時の支えがない。足底部に重心を置けば、後ろに倒れそうだと踵が支えるし、前に倒れそうだと足指が支える。このことを言った格闘技の先生はいないのではないか。

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風邪の微熱と解熱剤

風邪やインフルエンザによる発熱は身体の自己防御反応なのであり、さほどの高熱でもないのに解熱剤を使うのは愚の骨頂だと思うが、目安は40度を超えてから、というところだろう。
下の記事の中に出ているボルタレンなどは現在でも解熱剤の主流なのではないか。
「風邪は汗をかくと治る」というのが昔からの生活の知恵であり、発熱と発汗は同じ事象の両面であると思う。「発熱で苦しい」など、甘えでしかない、というのが私の考えで、そういう連中にはたとえば尿道(尿路、尿管?)結石などの七転八倒の苦しみをプレゼントしてやりたいくらいだwww 
まあ、タンパク質は40度を超えると変質するという説も聞いたような気がするので、脳がゆで卵状態になる前に解熱剤を飲むのはいいだろうが、38度くらいでは平熱と同じだろう。

(蛇足)このブログに載せてあるヘミングウェイの「目の前の死」を、お暇な人は読むと面白いのではないか、と思う。

(以下引用)

インフルエンザ脳症の原因は解熱剤だった。( ̄▽ ̄;)

donのブログさんのサイトより
https://ameblo.jp/don1110/entry-12878268037.html
<転載開始>
画像

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囚人の歌

「二木紘三のうた物語」から転載





2007年7月22日 (日)

囚人の歌



(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo




ロシア民謡、フランス語詞:モーリス・ドリュオン
日本語詞:人形劇団プーク



1 船漕ぐ明け暮れ 鎖につながれ
  思いはいつか 母のおもかげ
  日ごと夜ごとに 涙で語った
  母の言葉を 今ぞ思う


2 町や酒場に 幸せはない
  楽しみばかり 求むるではない
  だが若い日は 自由にあこがれ
  翼のぞまず 生きられようか


3 人を殺した わけじゃない
  物を盗んだ おぼえもない
  ただ毎日が すばらしい
  祭りの続きで ほしかっただけさ


4 仕事にでかける 朝の門口(かどぐち)
  立ちはだかった 王の兵士ら
  涙ですがる 母を足蹴(あしげ)
  われらをへだてた 牢獄の壁


5 瞳で誓う マドレーヌを
  いだいた胸に 鎖は重い
  だが幸せと 人の誠を 
  求むる心は 鎖じゃつなげぬ

《蛇足》 原曲はロシアの古い民謡です。そのメロディを音楽家のレオ・ポル(Léo Poll)が採譜・編曲し、作家で政治家のモーリス・ドリュオン(Maurice Druon 1918-2009)がフランス語の詞をつけました。作家でジャーナリストのジョセフ・ケッセル(Joseph Kessel 1898-1979)も、作詞に関わったようです。
 発表は1947年。


 レオ・ポルは筆名で、本名はレイブ・ポルナレフ(Leïb Polnarev 1899-1988)。ロシア革命に伴うユダヤ人迫害を逃れてフランスに亡命しました。有名な歌手のミシェル・ポルナレフは息子。
 ジョセフ・ケッセルもユダヤ人で、旧ソ連からフランスに移住し、帰化しました。


 1951年にジェルメーヌ・サブロンが創唱しましたが、とくに評判にはなりませんでした。その数か月後に発売されたイヴ・モンタンのレコードが大ヒット、翌年ディスク大賞を受賞しました。この歌が世界に広まったのは、イヴ・モンタンの歌唱によるところが大です。
 日本では、昭和20年代以降、歌声喫茶・うたごえ運動では必ず歌われた定番曲でした。


 政治犯を歌った歌といわれています。ロシア語の原詞がわからないので、なんとも言えませんが、フランス語の詞とその訳詞には、政治との関係は、はっきりとは表れていません。
 享楽的な生活を送っていた若者が罪を犯して漕役刑囚
(ガレリアン galérien)になり、母親の戒めを聞かなかったことを後悔している、という歌です。上の日本語詞は、フランス語詞をほぼ忠実に再現しています。


 むかし、酒を飲んでバカ騒ぎをしているときなどに、この歌の「……涙で語った母の言葉を……」とか、「楽しみばかり求むるではない」といったフレーズが浮かんできて、チクリと痛みを感じたものでした。
 実際、横道にそれがちな年頃には、母親の言葉ほどブレーキになるものはありません。


 ただ、帝政ロシア時代の漕役刑囚には、一般の犯罪者だけでなく、政治犯もかなりいたようですから、もしかしたら、母親の言葉には「政治に関わるな」という戒めも含まれているのかもしれません。


 ガレー船は古代に出現したものですが、地中海やバルト海では地形が複雑で風向きが不安定なため、19世紀初頭まで使用されていました。


 フランス語の原詞は次のとおりです。


    Le Galérien


1. Je m'souviens, ma mèr' m'aimait
   Et je suis aux galères
   Je m'souviens ma mèr' disait
   Mais je n'ai pas cru ma mère


2. Ne traîn' pas dans les ruisseaux
   T'bats pas comme un sauvage
   T'amuses pas comm' les oiseaux
   Ell' me disait d'être sage


3. J'ai pas tué, j'ai pas volé
   J'voulais courir la chance
   J'ai pas tué, j'ai pas volé
   J'voulais qu'chaqu' jour soit dimanche


4. Je m'souviens ma mèr' pleurait
   Dès qu'je passais la porte
   Je m'souviens comme ell'pleurait
   Ell' voulait pas que je sorte


5. Toujours, toujours ell' disait
   T'en vas pas chez les filles
   Fais donc pas toujours c'qui t'plait
   Dans les prisons y a des grilles


6. J'ai pas tué, j'ai pas volé
   Mais j'ai cru Madeleine
   J'ai pas tué, j'ai pas volé
   J'voulais pas lui fair'de peine


7. Je m'souviens que ma mèr' disait
   Suis pas les bohémiennes
   Je m'souviens comme ell' disait
   On ramasse les gens qui traînent


8. Un jour les soldats du roi
   T'emmen'ront aux galères
   Tu t'en iras trois par trois
   Comme ils ont emmn'nés ton père


9. Tu auras la têt' rasée
   On te mettra des chaînes
   T'en auras les reins brisés
   Et moi j'en mourrai de peine


10. Toujours toujours tu rameras
   Quand tu seras aux galères
   Toujours toujours tu rameras
   Tu penseras peut-être a ta mère


11. J'ai pas tué, j'ai pas volé
   Mais j'ai pas cru ma mère
   Et je m'souviens qu'ell' m'aimait
   Pendant qu'je rame aux galères


(二木紘三)


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女性の感情(身体性)、男の理屈(抽象性)

今日は記事をひとつしか載せていないので、サービスとして私の別ブログから記事を提供する。元記事では2回に分けていたが、それをひとつにまとめる。
で、その前書きにも書いたが、ここで書かれた内容は男と女の間の深淵というか、深い河を示しており、男も女もここに書かれたことを拳拳服膺するのが世界平和の基礎かと思うww
特に、男は「相手との感情の共有」はそっちのけで、話題そのものに精神を集中する傾向が、女性をうんざりさせるのだ、ということをよく理解すべきだろう。
おそらくホストなどはそれを熟知していると思う。話などロクに聞いてなくても話を「へーそうなんだ、すごいね、面白いね」と合わせる技術に優れているわけだ。

(以下引用)文中(記事後半)の「増田」とはスレッド主のことである。
非常に重要で目からウロコの内容なので、これに対応する「男の考える『面白さ』」と2回連続で載せる。

(以下引用)

2024-10-02
■彼氏がおもんなさすぎる

念の為、彼の顔や体型、学歴や社会性地位には言及しません。関係ないので。

彼とはマチアプで出会いました。

最初のデートのときから、会話があまり面白くないな...と思ってたんですが

5回目のデート(5回目!?)で彼から告白されてお付き合いが始まりましたが

会う度に「こいつおもんな~~~」って思う。

■なにがおもんないのか
人間誰しも、普通に生きてたら鉄板の話が有ると思います。

定義はウケるウケないは別として、絶対に関心を引くような話です。

(私の場合は、マチアプで出会い2年半付き合ったモラハラ男が出会ったときから既婚者子持ちだった)

(ずっと母方のお婆ちゃんだと思ってた女性が実は赤の他人だった)

(ハリウッドスターとの写真撮影で、プリンターのエラーで写真が出ず、5万円を無駄にした)(これは今でも本当に悲しい)

彼はこういったエピソードを一つも持っていません。

会社でも、上司や後輩がみんないい人だそうで、やらかしやトラブルも穏便に済ませてきたらしく

飲みの席での所謂「武勇伝」というものありません。

彼が主人公のエピソードトークを聞いたことがないです。

彼が友達と旅行に行き、感想を聞けば「◯◯に行って、◯◯見て~、◯◯食べて、寝た」

私が「◯◯には行った?」と聞けば「行かなかった」で終了です。

話を全く広げない。

■いやそれお前がおもんないだけちゃうん?
一理あると思います。

ですが、私は少なくとも旅行のエピソードがあれば

「◯◯に行ったんだけど、途中で雨が降ってきて~でも強行突破で◯◯見よう!ってなって~

日傘しか持ってなかったから日傘びちょびちょになった笑

雨やばかったからさすがにタクシーで帰った笑笑

それでそのあと◯◯食べて~、あ、写真これ!◯◯が入っててそれが美味しかった!」ぐらいは話します。

私は「自分の話はおもんない」を前提として、精一杯楽しんで貰えるように話し方や段落には気をつけて喋っています。

彼には聞き相手を楽しませようという心意気を一切感じません。

ChatGPTと話してるみたい。

■じゃあ別れれば?
彼とは趣味が一緒で、その同じ趣味をしているときは楽しいので別れません。

■結局何が言いたいのか
仲がいい相手でも、最小限自分でエピソードを掘り下げる努力をして欲しいです。

これは転職や就職時に「コミュニケーション能力」としてPR出来る部分です。

笑わせろ!というわけではなく、聞き手は細かい部分まで言及してくれた方が会話の糸口を見つけやすいです。

昨日なにがあった?というエピソードを最大限省略すれば「仕事して、飯食って、寝た」で終わります。

最小限掘り下げて「◯時に起きて~めざまし見ながら準備して~」と話してくれれば

「朝は私ZIP派だな~」という糸口に繋がります。

まじで全人類、努力してくれ。



前回の続きで、どちらも、この「男女の違い」を明確に言語化したのは凄い。

(以下引用)

2024-10-02
■彼氏おもんな増田から考える男女間の「面白さ」の違い(追記あり)

anond:20241002111546

そもそも「面白さ」に対する考え方には結構性差があって、増田が例示したエピソードは男さん基準ではそもそもオモロの俎上にすら上がらないことは認識した方がいいと思う

定義はウケるウケないは別として、絶対に関心を引くような話です。

(私の場合は、マチアプで出会い2年半付き合ったモラハラ男が出会ったときから既婚者子持ちだった)

(ずっと母方のお婆ちゃんだと思ってた女性が実は赤の他人だった)

(ハリウッドスターとの写真撮影で、プリンターのエラーで写真が出ず、5万円を無駄にした)(これは今でも本当に悲しい)

「ウケるウケないは別として」とか予防線張ってるけど大概の男さんはこれらのエピソードに関心すら持たないと思う

だって内容がすべて予定調和的というか、「まあそんなこともあるよね」の範疇にしか収まってない

3つのエピソードとも、現実世界で起こりうる事象の中で可能性が低いものがたまたま発生し、そこに増田がたまたま居合わせたという事実でしかないわけ

認知の枠外から意外性のある切り口を提示することがないから「へーそんなことがあったんだ」以上の感想は出てこない

男さんの面白さって、会話の脱臼というか、気の利いた切り口での「脱構築」的なメタ認知能力の高さ勝負みたいなところある

つまりその場にいる人間の思考フレームワークの外側から、自分しか持ちえない視点を提示しないと男さんからはオモロとはみなされない

男さんのオモロは目の前のテーマをいったん抽象化して大喜利に変換することから生まれる、と換言できるかもしれない。増田の提示した例で言えば

マッチングアプリで出会った男性に衝撃の事実が発覚。いったい何があった?

ハリウッドスターとの写真撮影でまさかのアクシデント。何があった?

というお題に対する気の利いた回答を提示する必要があって、ここで「実は既婚者子持ちだった」「プリンターがエラーで写真が出なかった」とか回答してもオモロにはなりえないということは感覚的に分かってもらえると思う

ではなぜ女さんはそんな予定調和的なエピソードトークを好むのかと言えば、答えは簡単で、女さんの会話の目的が「感情の共有とそれに伴う自身の存在価値の確認」だからだ

女さんは、トーク自体を面白くしたいわけではなく、このトーク面白いよね?という感情を目の前の相手と共有することで自分と相手が共通の価値観を持つ仲間であることを確認したいのだ

つまりトークの面白さそのものではなく、このトークを面白いと思ってもらえる関係性の方に価値を見出している。手段と目的が男さん目線では転倒しているのだ

女さんにとってエピソードトークとは、自分が任意の感情に至るまでの前提条件や結果に至るまでの文脈などを共有する手段でしかない。極端な話一切笑ってくれなくても共感さえしてくれれば目的は達成される

要は増田の真の不満は「彼氏のオモロなさ」ではなく「彼氏が自分の感情に共感を示さない」というところにあるので、仮に彼氏がスーパーオモロ人間だったとしても解決はしないと思う

■追記

男さん的面白さの具体例を挙げると、滑舌の悪いプロレスラーのインタビューを聞いて何言ってるか当ててみようっていうクイズで、天龍の声を聞いた麒麟川島が「エスプレッソマシンのモノマネをしてらっしゃる」とツッコんだやつ(無断転載ではあるが動画を見てみるとニュアンスが伝わると思う)

https://youtu.be/QeSXpiKtj0A?si=i2EaM603ERPrugo-

多分女さんがこの場に居合わせたら天龍の声がガサガサすぎて聞き取れない状況をそのままオモロとして認識してしまってそこ止まりになる人が大半だと思う

ここで面白さのキモになるのは人間の声がエスプレッソマシンとリンクする世界観を一瞬で思いつく脱構築的発想であって、男さん目線では天龍の声質そのものに面白さが宿っているわけではないということを分かってほしい

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ワクチン接種の馬鹿馬鹿しさ

すごいね。ほとんどの医者よりはるかに論理的であり、見事な説明である。まあ、医者の中には、「分かっていてワクチン犯罪に加担している」人も多いのだろうが。

問題は、子宮頸がんワクチンよりも、インフルエンザワクチンのように、会社が社員に接種を半強制するところに勤めている人だろう。さすがに女子社員に子宮頸がんワクチンを強制する会社は無いだろうし。そして、そういう会社では、インフルエンザにかかったら犯罪者のように扱われるのではないか。たかが風邪の一種だのに。

(以下引用)

(女性に読んで欲しい)子宮頸がんとHPVワクチンの印象がガラッと変わる話

とある民間救急ドライバーの日常さんのサイトより
https://ameblo.jp/namachocoponzu/entry-12878005852.html
<転載開始>

 TODAY'S
 
(女性に読んで欲しい)子宮頸がんとHPVワクチンの印象がガラッと変わる話

 


こんにちは!生チョコぽん酢です。

 
前回投稿した記事の続きになりますので、まだの方は前回の記事からどうぞ。
前回は子宮頸がんワクチンのずさんな現状に触れたわけですが、調べてみて改めて思うことがあります。

子宮頸がんって、なんて曖昧な病気なのだろうって。
 

 



 
以下厚労省サイト抜粋

子宮頸がんの発生にはヒトパピローマウイルス(HPV)と呼ばれるウイルスが関わっています。このウイルスは、子宮頸がんの患者さんの90%以上で見つかることが知られており、HPVが長期にわたり感染することでがんになると考えられています。なお、HPVは一般に性行為を介して感染することが知られています。



この説明を読んで皆さんはどう感じますか?
おぉ!分かりやすい!なるほど!」となりますかね。
 
なんか曖昧じゃないですか・・・?

私から言わせれば、もう科学的に証明されているのでしたらハッキリこう書けばいいのですよ。

女性は性交渉時に男性からヒトパピローマウイルスを感染させられて癌になり死亡する恐れがあります

って。

でもそんな事は書かれていませんね。
 
ハッキリ書けない理由について今から説明しますので、少し長くなりますが良かったらお付き合いください。
 
 
さて、実際にはこう書かれています。

このウイルスは、子宮頸がんの患者さんの90%以上で見つかることが知られており、HPVが長期にわたり感染することでがんになると考えられています
 
知られており

考えられており

どうにも打算といいますか、いつ前提が覆ってもいいようなニュアンスに読めませんか?

そしてこの前提が少しでも変われば、一体私達は何を接種させられていたの?

となるわけです。
 
そんな簡単に前提が覆るの?」と思うかもしれませんが、
 
トランプ政権になった段階で、ケネディさんが厚生長官(保健福祉長官)になった段階で、もう何もかもがあり得るお話なのですよ。
 
 
今の世界が、医学に絞っても片側のこじつけで成り立っているのは明白ですから。
 
 
また、次の点も気になります。
 
HPVは一般に性行為を介して感染することが知られています

 


まるで特殊な感染のような書き方をされており、男性にすら子宮頸がんワクチン接種が促されている昨今ですが、


 

 


これは異性間に限らず、ありとあらゆる動物同士で起こっていることです。


 


例えばこのブログの読者さんは女性が多いので実体験があるかもしれませんが、


 


妊娠するとペットからの感染症の抗体検査をしたことはありませんか?


 


これは以前、患者さんのご家族さんが言っていた事なのですが、猫を飼っている人が妊娠すると必ず抗体検査をするようなのです。


 


改めて調べてみると以下のサイトに詳しく書いてありました。

以下抜粋


妊娠中にちょっとした注意をしておくほうがいいのは猫。「トキソプラズマ」という原虫によって猫の糞便に排出されるオーシストと呼ばれる一種の卵のようなものが、抗体を持っていない妊婦さんに初感染し、さらに、そこからおなかの赤ちゃんにも一部感染が起こると、先天性トキソプラズマ症という病気を引き起こすことがあります。

このため猫を飼っている妊婦さんは、一度トキソプラズマの抗体検査をしておくとよいでしょう。抗体がある人は、これまで通りで大丈夫。抗体がない場合妊娠中に初感染すると問題になるので、飼い猫は外に出さないようにします。


 


このように猫一匹飼っているだけで、無自覚のうちに猫から人に病気が感染しているのです。


 


そして抗体があれば「特に心配いりません」となる。


 
こんな事はありとあらゆる場面で起こっています。
 
子宮頸がんの原因とされるヒトパピローマウイルスについても例外ではありません。

 

 



以下抜粋


百数十種類以上の型があり、型によって、手足・顔などにできるイボ、陰部にできる性感染症の尖圭コンジローマ、また子宮頚癌に関りがある。

通常は様々な免疫が応答し体内から排除される。発がん性のリスクが高いといわれるHPV16型や18型でも、出生時に感染がみられ、日本の5歳でも、口腔から16型が1/3の子供から検出されている。


数百種類以上ある型、全てに果たして有効なワクチンは存在するのでしょうか?
 
コロナワクチンを経験した我々からすると、最新技術のmRNAワクチンですら、ウイルスの株が変われば無意味になる事は知っていますよね。
 
更には男性から性交渉時に移る、なんて言われていますが、医学的研究では
 
発がん性のリスクが高いといわれるHPV16型や18型ですら出生時に感染していることを示している
 
しかも通常は自然免疫で対処できている。
 
ですから、性行為によって男性からヒトパピローマウイルスが感染する、
 
なんて書き方になると恐怖を煽られますが、正確には
 
皆が生まれながらに感染しているが、性交渉時にも感染することがある
 
ですし、日本で3人に1人の5歳児の口腔から検出されているウイルスですから、
 
逆に性行為時に女性から男性に移っている場合もあるでしょう。
 
つまり男から女とか女から男とかどうでもよくて、抗体ができればそれまでの話なのではないでしょうか。

どんなに衛生的に取り繕ったところで人間も動物も細菌の塊であって、
 
動物の営みなんて、細菌の営みみたいなものなのですよ。
 
生きていれば他の生物から自然と病原菌が移り、抗体ができて、また感染し、抗体ができ。
 
特定の病原菌が特定の病気に結びついている"恐れがある"という段階で
 
その都度ワクチンを作って接種しなければいけないのなら、将来何万種類のワクチンを打つのですか?
 
そしてそれは本当に現実的かつ合理的な考えですか?
 
天文学的数の病原菌の大きな海の中で、本当にワクチンなんて入る余地があるのでしょうか。
 
私から見ると、人の命につけこんだご都合主義のビジネスに見えてしまいます。
 
そもそも人間は日常的に、無数に出現する癌細胞を処理しながら生きているのですよ。
 
もちろんこの記事は"これこそが真実だ!"なんて趣旨ではなく、
 
"こうした見方がある"事を知って一人ひとりよく考えて欲しいというものですが、
 
結局は予防医学に頼らず、
自然なカタチの健康体で衛生的に生きていく、
病気になった時に病院に行く、
 
私はこれだけで十分な気がしてなりません。
 

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プロフィール

HN:
酔生夢人
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男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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