奈良時代から平安時代の人間は、貴族であっても、趣味は歌を詠むくらいしかなかったわけで、それだけで一生の遊び(まあ、実は趣味や遊びではなくどちらかと言えば人生ステータスを上げる手段であったわけだが)として過ごしたのだから、凄いと思う。食う料理も現代のように種類があるわけではない。材料も調味料もだいたい決まっていただろうから、毎日同じようなものを食っていたのではないか。
それを考えると、現代の人間は昔の貴族より豪華な暮らしをしているわけで、藤原道長が「この世をば我が世とぞ思う」などと言っても、その暮らしは羨ましくも何ともない。平家一門が「平家にあらずんば人にあらず」と言っても、現代人の目には気の毒な暮らしである。だいたい、夏は蚊に刺され、冬は隙間風に悩まされ、トイレにはウォシュレットも無く、風呂で湯舟に浸かることもできない。
つまり、大昔から上級国民と下級国民は完全に分離していたが、技術や生産力の進歩は下級国民の暮らしまで大きく向上させたわけで、それを思えば、べつに上級国民を羨むにも当たらないのではないか。毎日一億円を使っていいと言われても、使いようもないだろう。とすれば、それだけのカネがある超上級国民がそのカネを慈善と社会改良に使えば、地上の天国は即座に出現するのである。それとも、下級国民が貧しく不幸でないと自分は楽しくない、という人間たちばかりなのか。
それを考えると、現代の人間は昔の貴族より豪華な暮らしをしているわけで、藤原道長が「この世をば我が世とぞ思う」などと言っても、その暮らしは羨ましくも何ともない。平家一門が「平家にあらずんば人にあらず」と言っても、現代人の目には気の毒な暮らしである。だいたい、夏は蚊に刺され、冬は隙間風に悩まされ、トイレにはウォシュレットも無く、風呂で湯舟に浸かることもできない。
つまり、大昔から上級国民と下級国民は完全に分離していたが、技術や生産力の進歩は下級国民の暮らしまで大きく向上させたわけで、それを思えば、べつに上級国民を羨むにも当たらないのではないか。毎日一億円を使っていいと言われても、使いようもないだろう。とすれば、それだけのカネがある超上級国民がそのカネを慈善と社会改良に使えば、地上の天国は即座に出現するのである。それとも、下級国民が貧しく不幸でないと自分は楽しくない、という人間たちばかりなのか。
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