「私は、スポーツをするために、脚を切断して生きると決めました。そして陸上は生きる手段だった。その覚悟の証しを残したい気持ちが、すごく強かった」
セミヌードは、まさに裸一貫で競技に取り組んでいた心意気の現れだ。
というのは、その理屈が分からない。なぜヌードが「裸一貫で競技に取り組んでいた心意気の現れ」になるのか。まさか、ヌードで走っていたわけではあるまい。
まあ、生き方はそれぞれの勝手だし、女性でしかも障害者となると生きるのも容易ではないだろうが、ヌードになることに「立派な」建前をくっつけるのはどうなのか、と思うわけである。他の障害者の励みになるかどうかも怪しいわけで、実際、同じ障害者から批判されたのも宜(むべ)なるかな、と感じる。「裸になりたいから裸になっただけです」なら、私はその潔さに拍手したかもしれない。もちろん、下の記事のインタビュアー(記者)に誘導された結果の発言だった可能性は高い。
(以下引用)
「死ねって言葉よりきつかった」 生きる手段だった陸上、批判覚悟でセミヌードになった理由――パラ陸上・中西麻耶
障がいを持つ人からの声が「『死ね』っていう言葉よりきつかった」
セミヌードを選択した理由は、もう一つある。当時、障がいを持つ女性やその家族と接するなかで、女性として生きていくことの罪悪感を当人たちから覚えていたからだ。
「女性障がい者の方が着飾ったり、キレイになりたいと思ったりすることは、『贅沢だ』『わがままだ』と思ってる人も、すごくたくさんいた。障がい者は介護者に面倒をみさせて生活しているのだから、少しでも手間のかかることは望んではいけない、という考えを当人からも強く感じました。
でも私は、女であることを捨てたくなかった。それを諦める必要ってどこにあるのかなと思いました。これで、資金が集まらなかったら引退しかありません。ならば最後に、同じ障がいを持った女性の勇気につながるものを残そうと考えました」
そういう中西自身も「世の中は自分を受け入れてくれない」と、感じていたという。また、どんなに悩んで引退を決めても、誰も自分のことを覚えていないんだろうな、という悔しさもあった。
「私は、スポーツをするために、脚を切断して生きると決めました。そして陸上は生きる手段だった。その覚悟の証しを残したい気持ちが、すごく強かった」
セミヌードは、まさに裸一貫で競技に取り組んでいた心意気の現れだ。ところが世間の声はまたもや、彼女の想いとは異なる方向へと暴走する。
「この時期はやばかったです。『わざわざ見せるんじゃない』『気分が悪くなった』という声はすごく多かったですね。一番ショックだったのは、『こういうことをされると、自分たちも同じような目で見られるから迷惑です』という、障がいを持つ人からの声もたくさんあったことです。これは『死ね』っていう言葉よりきつかったかも。うん」
この後、ロンドンパラ出場は叶うが、女子走り幅跳びでメダルを狙うも、結果は8位。思うような成績を出せず、バッシングに立ち向かう精神も削がれ、大会後、自ら現役引退を決めた。
(後編へ続く)
■中西 麻耶 / Maya Nakanishi
1985年6月3日生まれ。大分・由布市出身。明豊高(大分)ではソフトテニスでインターハイ出場。働きながら国体出場を目指していた2006年9月、勤務中の事故で右脚の膝下から先を切断。退院後にパラ陸上競技の世界を知り、義足のスプリンターに転向する。初出場の2007年日本選手権では100、200メートルで当時の日本記録を樹立。事故からわずか2年後、2008年北京パラリンピックに出場し、以降3大会連続出場。2016年リオ大会では走り幅跳び4位入賞となり、日本人では同種目のパランピック過去最上位を記録した。2019年には世界パラ陸上の走り幅跳びで日本人初となる金メダルを獲得し、東京パラリンピックの出場権を獲得。2021年の本大会では6位入賞。T64(片下腿義足)女子走り幅跳び日本記録保持者(5メートル70)。
(長島 恭子 / Kyoko Nagashima)