コロナ自粛下の子供の学校生活がどんなものだったか分かる。まあ、それよりも「サヘラントロプスチャデンシス」とは何者か、と驚いたのがこれを転載した理由だ。これこそ学校教育の無意味さを示すものだろう。そんなのは学者たちの問題であって、子供が覚える必要性はゼロだ、と思う。私の頃はたぶん「ピテカントロプスペキネンシス」だったと思う(後で気がついたが、これは「ピテカントロプスエレクトス」と「シナントロプスペキネンシス」をごっちゃにしているようだ。まあ、私の学校由来の知識の残骸はそんなものだ。なお、「シナントロプスペキネンシス」の「シナン」は「シナの」つまり「チャイナの」の意味だろう。「ペキネンシス」は「北京原人」か。))し、紙屋氏の頃は「アウストラロピテクス」のようだ。あと十年くらいしたら、新種の「最古の人類」が発明されているだろう。発見ではなく「発明」だというのは私の皮肉だ。ただし、明治時代には「発明」と「発見」は同じ意味だったようだ。漱石などは「発見」の意味で「発明」の語を使っている。あるいは「発見」の語が一般的でなかったのかもしれない。
いつ変わるかもしれない知識を強制的に子供の脳に叩き込むのは、脳細胞の無駄遣いであり、子供への虐待だろう。
(以下引用)
何が嫌なのか?
彼女に何が嫌なのかをインタビューする。それは聞くたびに変わるし、とらえどころがない。悟性的に原因を突き止めようとすると、煙をつかむような感じになる。以下、彼女が挙げた「理由」を列挙してみよう。
- 担任の先生がいやだ。合わない。
- なんでノートを埋めないといけないの?
- 学校の行き帰り、特に「行き」は友達とも帰れないのでなんの楽しいこともない。そして(8kgに及ぶ)あのクソ重いカバンをどうして背負って1.8kmも歩いて通わないといけないんだ?(先生によれば「使わない教科書は置いて帰ってもいい」とのことだが、家庭学習で一定のものは使うように言われているので「最小限」のものだけ持って帰っても「めちゃめちゃ重い」と娘は述べる)
- 体育で半ズボンでやるのが嫌だ。毛深いから足の毛を剃らないといけない……。でも剃ると剃刀負けするし…。体育だけでも休めないのか?(休みたいって言えば?)うう、でも目立つし。
- 体育で今日ラジオ体操やるのも意味がわからん。なぜ? 学校教育でわざわざ1時間使ってラジオ体操だって?
- 給食がまずい。小学校の給食は美味しかったのに、なぜこんなにまずくなるのか。カレーでさえまずい。そんなものを食べるために長い時間残るのはうんざりだ。その分帰りたい。それは他の子もそう言っている。
- 黙って前を向いて給食を食べさせるのも耐えられん。
- まだ5時間(5コマ・5時制、午前中に5つの授業をこなして給食を食べ、帰る)なら耐えられるが、これで7時間になるとか、無理!
- 月曜から金曜まで死ぬ思いで登校しているのに、これで土曜日まで授業されたら耐えきれない。
と、ひいふうみい…9つの「原因」がとりあえず並んだ。
先ほども述べたとおり、「それはどうなの」と思うものもあるが、まあ、複合的なんだろ。本人もよくわかっていないし、ムカつくことが泡のように浮かんでは消え*1、それが楽しいことで打ち消されずに残ってしまうような感じなのではないか。
「もっと埋めてね」
娘は学校の勉強もそれほど好きな方ではない。
中学校に入り生活日誌と一体になった学習ノートを渡され、1日1ページ「埋める」ように言われている。しかし、まだろくすっぽ授業も始まっていない。授業の様子を聞いてもオリエンテーション的なものがほとんどだ。たまに中身があっても例えば理科では顕微鏡の各部名称などを教えられている。
そんなもの、ノートを埋めようがないだろ? と思う。
ましてや予習の仕方など教えてもらってもいない。左翼組織で、市内の学校の先生たちと広く懇談をした時、市教委がコロナ下で各家庭の学習用に作成したプリントが「新学期の予習」的な中身になっていて、集まった左派系の先生たちは「小学生に予習前提でプリントさせたりするのは無理ですね」と言っていた。
つい最近まで小学生だった娘も同断であろう。
4月です、あなたたちは中学生です、もう小学生じゃありません、計画的に学習しましょう、ノートをさあ埋めなさい、と言っても埋まるものではない。
ツイッターにも書いたが、娘は市教委の配信している動画を見ながら、「歴史」「裸子植物・被子植物」についてノートを書いた。
あなたは「最古の人類」を言えるだろうか? ぼくは堂々と「アウストラロピテクス」と述べたが、全く「不正解」だった。現在では「サヘラントロプス・チャデンシス」が最新知識になっている。これは市教委の動画配信でも冒頭で紹介し、教科書にも確かに出てくるのである。娘に学ばされた1つである。*2
しかもノートには、「二足歩行ができるようになって人類に何が起きたか?」を娘なりに予想して書いた。「動画」ではその「答え」を述べているのだが、娘の「予想」とは外れていた。しかし、そういう論理こそ歴史である、そこに踏み出したことは歴史を学ぶ上でとても重要なことだ。
しかし、担任の先生は、その中身については一切触れず、ノート欄のついてのコメントはただ一言。
「もっとすき間を埋めようね」
だけであった。これが2日連続した。
すき間を埋めるのがこの先生にとっての至上の価値なのである。
40年前の元・優等生のぼくとしてはわからないでもない。まず「書く」という形で学習をし、それを量をこなすことによって質に転化するのだと。その訓練としてこのような生活日誌があり、すき間を埋めさせようとするのだろう。
だが、動画も参考書もこれだけ発達した現代に、この方法は引き続き有効なのか。本人がわかるように図を書いて理解してもいいではないか。
百歩譲って、すでに授業もかなり行われ、学習の方式を体得している生徒ならそういうコメントもわかる。しかし、コロナが終わっていきなりの宿題ノートにこれはないだろ。