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「猫」における「屁」と「水島寒月」の考察

散歩の時の思考は、体の運動を伴うせいか、よく思考が働くが、メモできないので大半は忘れてしまう。まあ、もともと記録に残すほどの思考ではなく、単なる浮遊思考である。
で、今日は、漱石の「吾輩は猫である」中の人物の名前に関する思考から、漱石が好んだいろはかるた中の札、「屁をひって尻つぼめ」に考察が至った。
この「好んだ」という言い方自体、問題があり、私はこれは、妻と娘ふたりだけという女だらけの家でかるたをする時、女性が嫌いそうな札を漱石が「取ってやった」という思いやりではないか、と想像したのだが、まあ、漱石自体、「屁の勘定」の話を確か「猫」の中でやっていたと思うので、屁の話が嫌いでもないだろう。と言うより、世間の人間が拘泥することの大半は屁のようなものだと思っていたのではないか。

で、私が考察課題としたのは「尻つぼめ」の方である。
「つぼめ」は「すぼめ(る)」と同じ意味だろうが、言葉としては「つぼめ」のほうが古く、語源的根拠もあるような気がする。と言うのは、「つぼめ」は「つぼみ(蕾)」と同じ語源だろうと思うからだ。「すぼめ」にはそういう語源が無さそうである。とすると、「尻つぼめ」は、尻の穴を蕾のようにキュッと締める意味になる。
ではなぜ尻の穴をつぼめるのか。

1:実がでないようにする。
2:屁を連発しないようにする。

というのが考えられる解だろうが、私は、これを心理学的に捉えたい。
つまり、「屁をひる」という「失策をした」犯人が自分であるということを隠したいという深層心理から咄嗟に出た行為だということである。いくら尻をつぼめたところで隠せるはずはないが、「かくすればかくなるものと知りながら、やむにやまれぬ大和魂」であるwww

ついでに、「猫」の作中人物の名前の件だが、それは「水島寒月」というのは、キャラの個性によく合った素晴らしいネーミングだなあ、ということだ。
水のように平静で、島のように孤立を恐れず、誰もが見上げて讃嘆する満月とは違って、寒月のように、誰も見ようとしなくても、自ら世界を見下ろして照らしている。そういう人格である。彼が弟子の寺田寅彦をモデルにしているのは周知の事実だ。

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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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