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「体罰」問題の基礎考察 (1月16日追記)

私の一生の思想的課題は、「この世から悪を無くすことはできないか」という質問に答を出すことだが、おそらく世間の99.999……%の人は、それは不可能だ、と最初から決め込んでいると思う。だが、私はへそ曲がりだから、全世界の人がこの問題を考えていけば、いつかこの世から悪を消せ、「地上の天国」が実現する可能性はある、と能天気に考えている。(私の少年小説『天国の鍵』はそれを扱ったものなので、お暇ならどうぞ。)
もちろん、これは悪の定義をどうするか、どの程度までの悪なら認容するかという「放射能基準値」みたいな部分があり、福島原発以後は「放射能基準値」を引き上げれば放射能被害は「無い」ことになる、というずるい手もあるのだが、まあごく常識的な範囲で「悪は、理想的な法と理想的な行政と理想的な社会道徳によってこの世から消せる」という解答を何とかして出したいと思っているわけだ。

さて、「体罰」は「悪」だろうか。
もちろん悪だ、と言う人が多いとは思うが、「体罰は必要だ」という意見の持ち主もたくさんいる。いわば「必要悪」という考えだろうか。それとも、積極的に「体罰によって根性が鍛えられ、選手としてのその後の成功にも結びつくのだから、完全に善だ」という考えだろうか。案外、スポーツ関係者には後者の考えの人が多いような気がする。だからこそ、スポーツの世界は「体罰社会」のモデルみたいになっているわけだ。
まだ私自身、体罰の是非についての最終結論は出していないが、その考察のための材料として、二つほど引用をしておく。

桜宮高校の「体罰自殺事件」について、

「引用1」は「ライブドアニュース」の自由人という人の記事の一節。どちらかというと「体罰容認派」のようだが、今回の桜宮高校の場合は、体罰ではなく「いびり」だ、という意見である。こういうように分析的な意見には私などすぐに、なるほど、と感心する傾向があるのだが、「ちょっと待てよ」と考えてみると、体罰といびりは、現象は同じであり、この論法で体罰を容認したら、いびりをする側が「これはいびりではなく体罰だった」と主張したら、すべて無罪になるのではないか。(1月16日の追記参照。予感が当たったようだ。)
むしろこのような「言葉の付け替え」で悪を容認する手法こそが悪を存続させる一因ではないかと思うので、その点だけ留保すれば、言っている意見自体には私はほぼ賛成である。つまり、「物理的な力の行使」によってしか制御できない悪が社会には溢れている、ということだ。だからこそ警察という「暴力装置」が社会には必要なのだが、暴力とは制御されない力のことだから、「暴力装置」は言いすぎか。問題は、この「装置」が実際には使う側の恣意によって悪の擁護機関にもなっているという現実である。もともと警察や軍隊自体が「体罰社会」の縮図のような部分もあるし。
なお、この自由人氏の文章の中で「しごき」は事例が不適切である。「しごき」は運動能力向上の目的で度外れた訓練を課すことだから、「試合に遅刻した」ことを理由とするなら、それは「しごき」ではなく「体罰」だろう。しかし、「体罰」と「しごき」と「いびり」という区分けを提唱したのは、今後の議論に非常に有益である。
「引用2」は「BLOGOS」の猪野亨という人の記事の一節。体罰否定論者のようで、記事全体はよくある意見なので省略するが、最後のこの部分は「体罰」そのものよりも「体罰社会」が問題だ、という、問題の根本を見据えた意見なので転載した。





(引用1)

毎度思うことながら、現在の報道を観ていると、なにやら「体罰」という言葉だけが独り歩きしているように感じられる。今回の事件の場合、「体罰という言葉を使用するのはおかしい」という比較的冷静な意見も聞かれるものの、では何がおかしいのかということになると、「暴力だ」「虐待だ」と言う意見が多いようだ。
しかし、肉体への体罰を「暴力」だとし、それが生徒を自殺に追い込んだ原因であるから体罰を禁止しなければならないと言うのであれば、少しお門が違っている。
暴力には、暴力を伴わない「言葉の暴力」というものがある。もし、今回の事件が物理的な暴力を伴わずに「言葉の暴力」のみで自殺問題に発展していた場合は何と言うのだろうか?
この質問に対して「体罰だ」と言う人はおそらく誰もいないだろう。つまり、今回の問題は「体罰」ではなかったということになる。
では何と言うべきなのか?答えは「いびり」である。
既に多くの人が述べていることだが、そもそも論として、「体罰」というものは、何か悪いことをした生徒に対して罰を与える行為を意味するので、単に試合に負けたとか、能力が足りないといった理由で生徒に暴力を振るうことは「体罰」では有り得ない。なぜなら、生徒を殴ったり蹴ったりしても、その生徒の能力が向上するわけではないからだ。こういう因果関係を無視した暴力行為は特訓的な意味合いの「しごき」にも該当しない。
いじめを行ったという理由で、
「顔面を平手打ち(ビンタ)」・・・・体罰
試合に遅刻したという理由で、
「校庭を100周走らせる」・・・・しごき
能力が足りないという理由で、
「生徒を殴る・蹴る」・・・・肉体的いびり
「生徒を罵倒する」・・・・・精神的いびり
簡単にまとめると以上のようになると思うが、教師が生徒に対して、その行為を行うことによって、事態の改善に繋がることであれば、体罰やしごきを特に問題視する必要もない。鼻血が出るとか骨折するような体罰や、健康を害するとか死の危険が伴うようなしごきは問題だが、通常の体罰であれば、有っても構わない…と言うよりも、全く体罰が無い学校の方が危険だと言える。
例えば、生徒によるいじめ事件があれば、教師がいじめを行った生徒を平手打ち(ビンタ)することは仕方がない。それは必要悪というものである。
まずは言葉で注意すべきであることは言うまでもないが、言葉で言っても解らない人間には、暴力をもって教えるしかない。他人の痛みが解らない人間には、自らも痛みをもって解らせるしか方法がない。
正気を失った犯罪者を警官が暴力行為によって諌めるのと同様、他人を傷付けても心が痛まない異常者には正義の鉄槌が時には必要だ。学校には子供を叱るべき親がいないのだから、親に代わって教師が体罰を与える行為は事情によっては認めるべきだ。
まともな体罰までも禁止にすれば、元々、事勿れ主義で無法化している学校が更なる無法地帯と化し、野獣の如く野放し状態となったいじめっこは、ますます手が付けられなくなってしまい、いじめによる自殺問題は更にエスカレートすることになるはずだ。そんな地獄のような学校なら、存在自体が悪であり、もう必要無いということになってしまう。「体罰は絶対悪」と言っているような人は、学校の更なる地獄化を望んでいるとしか思えない。
家庭内でキッチリと子供の教育ができない不出来な親が「教師が生徒を殴ってはいけない」などと言う資格は無いし、教師がそんなクレーマーのような親の存在を許しておく必要もない。教師も生徒も言いたいことをハッキリと言える学校にすることこそが、今回のような問題を防ぐには最も重要なことである。
今回、自殺した生徒も、おそらくは多くのいじめ自殺者と同様、「逃げ場が無い」と思ったのだろうと思う。単に暴力が嫌だったのではなく、クラブのキャプテンという責任ある立場(または将来ある地位)にいながら、期待通りにいかない状況に不安を感じ、そこに教師からの体罰という名のいびりが重なり、自殺に追い込まれたのだろうと推察する。
実際はもっと複雑が事情が絡んでいるのかもしれないが、結局のところ、いじめ自殺問題同様、閉鎖された教育空間が齎した悲劇であることには違いはないだろう。


(引用2)


未だに根性論が蔓延っているスポーツ界。
学校現場で体罰禁止が一般的になる中で、まるで別世界です。
しかも、スポーツ界とは無縁の管理職や教員までもが黙って見ているだけという、いかにも日本的な風潮。
このような場合に、声を上げると必ず異端視されてしまうのですから、ただただ何事も起こらないように、あるいは問題が表面化しなよう、時だけが過ぎ去っていって欲しいと願う浅はかさ。
これは、もちろん体罰以外の組織内の違法行為についても言えることです。

今回の事件は体罰が問題なのはもちろんのこと、体罰という違法行為が蔓延していたのは何故か、体罰を擁護するような声が恥ずかしげもなく表明できるのは、どういうことなのかなど、検討すべきことは多々あります。

①体罰に限らず違法行為が蔓延し、しかも、それを指摘する声を、ことさら敵視し、かえってその声を押し潰そうとする社会のあり方そのものが問われているのではないか。

②体罰であろうと違法行為であろうと結果ばかりが求められはしていないか。そして、その結果さえ出せば、それに至った経緯などは不問に付されてしまってはいないか。

③そのような体罰という違法行為を擁護する声が大きくなりがちなのは、やはりその声にも同様に恫喝的な傾向があるのではないか。あるいは学校に限らず、職場、家庭などで暴力を容認する人たちが少なくないのではないか。








(1月16日追記) 「小田嶋隆ツィッター」から転載。私はもともとこの「ヤンキー先生」という奴は大嫌いだったんだが、その本性がここからも見えるようだ。だいたいが、この義家(元ヤンキーの元教師、現代議士)のように、自分の過去の悪事を「反省」してみせることで社会的に上昇できるという手段が社会的に許容されていることがおかしい。それなら、悪事は「したもの勝ち」ではないか。むしろ、過去の悪事が売名に利用されている。まあ、どの程度の「ヤンキー」だったかは知らないが。
バルザックの作品中の哲学的悪党ヴォートランの名言を借りれば、「美徳というものは切り売りできないんだぜ」、つまり、道徳的な意味では、一度なされた悪は取り返しはつかない、ということだ。法的な処罰とは別の話である。最初からそのつもりで生き、悪を遠ざけるのが世間一般のまともな人間というものだ。元ヤンキーであるだけで、すでに人間として終わっている、と見るのが当たり前の感覚だろう。
まあ、本人の人間としてのレベルの話はともかく、「体罰」と「暴力」を区別してみせることで結果的に体罰が温存されるという、この誤魔化しはよくよく注意する必要がある。
これもある種の「東大話法」「官僚話法」つまり、「詐欺的話法」として国民の間に周知徹底させることが必要だろう。




小田嶋 隆‏@tako_ashi

「体罰とは生徒へ懲戒として行われるものだが、今回は継続的に行われた暴力という認識を持つべきだ。物事を矮小(わいしょう)化して考えるべきではない」と言う義家文科政務官は、生徒を自殺に追いやった体罰を「体罰とは別の個人的な暴力」と定義することで、問題を矮小化している。




18時間小田嶋 隆‏@tako_ashi

文科省の政務官は「体罰は暴力」と言うべき立場であるはず。だが彼は「体罰と暴力の線引きをすべき」と言っている。つまり両者は別のものだと。なんだこいつ。→『義家政務官「体罰ではなく暴力だ」 自殺の事実解明指示』』 http://bit.ly/104083n




18時間小田嶋 隆‏@tako_ashi

この人が強調しているのは「体罰≠暴力」ということ。体罰と暴力を切り分けることで体罰を擁護しています。→『義家政務官「体罰ではなく暴力だ」 自殺の事実解明指示』 http://bit.ly/104083n







(1月17日追記) 「2ちゃんねる」から拾った記事だが、義家とは要するにこういう人物であるわけだ。
権力亡者のクズ人間だから、その自分の権力が無視されるとファビョる(発狂する、ヒステリーになる:もう死語か?)わけである。



(以下引用)


神奈川16区選出の自民党衆院議員で、
文部科学政務官の義家弘介氏が地元の神奈川県厚木市の成人式に出席した際、
比例復活した民主党議員より後に紹介されたため、
「民意を否定する話ではないか」などと同市に抗議していたことが16日、分かった。


義家氏の事務所によると、成人式は14日に開かれ、
国会議員は義家氏と民主党の後藤祐一氏の2人が出席。
司会者が後藤氏から紹介した。


義家氏の抗議を受け、厚木市は「担当課長が会場の司会者に指示を出さなかった。
二度とミスがないようにする」と回答したという。


選挙区内の伊勢原市などほかの自治体の成人式では義家氏が先に紹介されたという。
義家氏が成人式後に自身のフェイスブックで明らかにした。


義家氏の事務所は「与党議員で政務官に就いていることを重視してほしかった。
申し訳ないとの返事があったので、この問題は終わっている」と話した。


[2013年1月16日22時42分]
http://www.nikkansports.com/general/news/f-gn-tp0-20130116-1072880.html









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体罰を容認する日本社会の狂気

「ライブドアニュース」に転載された秋原葉月の「BLOGOS」所載記事の一部である。特に注意したいのは、スポーツ部員や、そのOBによる体罰教師擁護や体罰容認論がなぜ存在するのか、という分析であり、これが自分のアイデンティティを守るための精神メカニズムから来ているという指摘は実に鋭いと思う。自らの過去を否定することは自分の存在価値を否定されることであり、それが耐え難いために、自らの過去の一部を形成していた体罰的指導までも容認するようになるわけだ。
そして、その体罰社会の根底にあるのが「絶対的上下関係」である。特に、スポーツ特待生などは、指導教師への反抗はほとんど自己の全存在を失う結果になるために、反抗は不可能である。指導教師への反抗によってチームから落伍した場合の家族からの非難、周囲の軽蔑を考えれば、精神的に不安定な年齢の青少年が自殺を選択することも当然ありうる。
当人が自殺を選んだことについて、「精神が弱すぎる」という批評をするのは、おそらく体罰容認派や体罰教師擁護派の人間だろう。また、「子供を支えてやれなかった家族に問題がある」という批評も同様の責任転嫁作戦である。こうした一見もっともらしい議論は、世間のB層にはなかなか有効なので、それが結果的にはこの体罰社会を延々と存続させているのである。
後で、元ジャイアンツの桑田による体罰全否定論を追加掲載する予定である。

もっとも、まだ「人間」になっていない幼児が危険な行為をした時に、お尻を叩いて教えるという程度の「体罰」は、これは絶対に必要であり、周囲に危害を与える青少年の不良行為には体罰どころか刑事罰が相当である。教師は、そうした不良行為が教室内で行われた場合には「体罰」よりも「教室からの退去」を命じるべきであり、それは即座にその生徒の親にも通告すべきである。そして、そうした行為が続くようなら退学にするのが当然であり、これによって「教室崩壊」は防止できる。それを社会的合意にすればいいのである。なお、「教室退去」については小田嶋隆の考えを参考にした。




(以下引用)






この事件に関するいくつかの報道を、末尾の[続きを読む]の中に記録しておきますので、よろしければ目をとおしてくださいませ。
顧問の教師は「気合を入れるため」に殴り、ほかの部員にも「発憤させるため」殴ったそうです。
悪いことしてないのに殴られるのが続いたら、心に傷を負って人格歪むのが普通です。
人倫に反する悪行をしたわけでもないのに、些細なことですぐに平手打ちが飛んでくるのが常態になってるって、ホントに70年前の日本軍を想起させます。
こんなのは断じて教育ではありません。「調教」といったほうがいいかも。

しかし、父兄や卒業生の中にも「厳しい指導で手が出るのは当たり前」と、軍隊式のしごき、根性主義を良いことだと肯定する風潮があるのですね。ある意味とても日本的だと思います。


高2自殺 厳しい意見の一方、擁護する声も
日本テレビ系(NNN) 1月10日(木)19時27分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/nnn?a=20130110-00000049-nnn-soci

 先月、大阪市立桜宮高校バスケットボール部のキャプテンだった2年の男子生徒(17)が、顧問の男性教諭に体罰を受けた翌日に自殺した問題で、9日夜、保護者説明会が行われた。部活動での指導について、保護者から、疑問や要望など厳しい意見が次々と上がるなど、学校側の対応に不満の声が多くを占める中、擁護する声もあった。

 保護者「僕も卒業生。正直、僕らの頃はもっと厳しかった。先生だけの責任じゃなくて、親の責任だと思う。友達を作ることも大事ですし、そういう友達がいたら、手を差し伸べるように言ってやるのも親の役目。先生はこれからも大変だと思いますけど、頑張ってください。僕は応援します」

 学校側「謝罪するしかありません。今度こそしっかりとやっていきたいと思います」
「自分は理不尽な仕打ちに耐えた、もうこんな仕打ちはなくそう」ではなく「自分は理不尽な仕打ちに耐えた、だからおまえも耐えろ」というのは、日本の社会のありとあらゆる場面で見られる負の思考回路ですね。
それにしても、子どもを自死で失ったのに「親の責任」という言葉を出すのはちょっと酷くないでしょうか。
軍隊的しごき、暴力を肯定する人が被害者である遺族の親御さんを傷つけるような発言をするのは、軍事優先思考な人が沖縄で米兵に女性が暴行されても被害者の女性の方を責める傾向にあるのと共通しているな、と感じます。


「先生は間違っていない」“熱血”指導で全国大会常連校にした顧問 桜宮高2自殺http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130108-00000578-san-soci

桜宮高校の男子バスケットボール部顧問は、高校バスケ部の指導者として全国的に知られる存在で、16歳以下の男子日本代表チームのアシスタントコーチも務めていた。以前から体罰も含めた“熱血”指導で知られ、同部を全国大会の「常連校」に育てたという。
(略)
 顧問は平成6年4月から保健体育科教諭として勤務。学校での評判について、顧問を知る卒業生からは「先生がやってきたことは間違っていない」などと擁護する声も聞かれた。

 ある関係者は、顧問の指導方法について「いいチームをつくることで評価されているが、古いタイプ」と指摘。中高の運動部では「叱られ役」を意図的につくる場合があり、主将がその役になるケースが多いという。「強く叱ったとしてもフォローは絶対に必要。コーチもいたはずで主将がそこまで思い詰めていたことになぜ気付けなかったのか」と残念がった。
(引用ここまで)
全国大会の常連校にまで育て上げることこそ大事、そのためなら暴力だって許されるという教育を私は支持できません。(実際、体罰とチーム強化に因果関係があると思えませんし)
「叱られ役」を意図的につくる場合があり、主将がその役になる~こういう見せしめの生け贄を吊し上げるやりかたもチームが強くなるための必要悪だと納得してしまうようでは、残念ながら教育が失敗した事例だといえるでしょう。

生徒は部活を続けたかったら本当は全否定したい暴力の環境を受け入れざるを得ません。ですからそれをなんとか合理的に肯定しようとしてしまいます。
「先生がやってきたことは間違っていない」と教師を擁護する声が卒業生からあがるのは、そうやって自分が置かれていた環境を肯定しないと自分の三年間が否定されてしまいそうになるからだと思います。
で、その鬼のような先生がたまに優しかったりすると益々「ああ、ホントは良い先生なんだ」と先生を肯定する気持ちが強化されます。
これ、典型的なマインドコントロールですよね
そしてその肯定感をいだいたまま、何の疑問もなく暴力をふるう側に回る大人になる卒業生も出てくるでしょう。
こうして世代を超えて悪しき軍隊精神は伝統として継承されていきます。




中村 真美子@MAAMIK0


「先生は間違っていない」“熱血”指導で全国大会常連校にした顧問 桜宮高2自殺(産経新聞) - Y!ニュース headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130108-… 暴力で支配された者たちは支配されてきたことを間違っていると否定出来ないのです。自己否定に繋がるので認めたくないのです。

2013年1月10日 返信
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ウサギ@nekotausagi


そう言わないと耐えた自分のアイデンティティが崩壊RT @KuroU_Usagi: そう言う卒業生と、現状の認識とのズレは何だろう?〓「先生は間違っていない」“熱血”指導で全国大会常連校にした顧問 桜宮高2自殺(産経新聞) - Y!ニュース headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130108-…

2013年1月9日 返信
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学校は軍隊であってはなりません。自分の三年間を否定されるかも知れない苦痛と向かい合っても、間違っていると認める勇気を持つところから始めなくてはいけないと思います。
子供達個人個人の人格を尊重し民主的な教育をしなければならないはずのこの日本で、いまだに軍隊的スポ根的なしごきが横行する、そんな「悪しき伝統」はいりません。
以前、日本の企業は体育会出身の学生を好む傾向にあるけど、それは上からの命令に従順な傾向があるからだと書きました。
こんな悪しき伝統が生き延びているのも、日本の社会にニーズがあり、パワハラを許容する土壌があるからでしょう。
学校から体罰をなくすには私たち一人一人が、社会が古き悪しき価値観から脱皮する必要があると思います。
そして、もちろん先生一人一人も、子どもを独立した人格として尊重し、教育とは暴力と恐怖による支配ではないという民主的な価値観、教育観をしっかり学んで欲しいと思います。

ちなみに「このような悲劇を繰り返さないために、自分が学校から体罰を無くします!」とは絶対言わないんですよね、橋下市長は。
そりゃ、言わないでしょう、だって体罰の背景にあるものはまさしく「子どもは所詮、恐怖心でしかコントロールできない」「教育は20000%強制」という橋下氏の教育観なんですから。
軍隊しごき式経営のワタミ社長を教育アドバイザーに打診するようなパワハラ市長が条例でもって直接陣頭指揮をとれるようにしても、体罰問題の解決など絶対に無理なのです。


おまけ




ひまわり(^o^)@meimi0814


「君が代条例」なんて作る位なら、「体罰禁止条例」を作る方がまっとうだろうが!!憲法にも学校教育法にも合致している。

2013年1月10日 返信
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げに。







(引用2)




「体罰は自立妨げ成長の芽摘む」桑田真澄さん経験踏まえ

朝日新聞デジタル 1月11日(金)20時51分配信



体罰について語る桑田真澄さん=11日午後、東京都新宿区、越田省吾撮影


 【岡雄一郎】体罰問題について、元プロ野球投手の桑田真澄さん(44)が朝日新聞の取材に応じ、「体罰は不要」と訴えた。殴られた経験を踏まえ、「子どもの自立を妨げ、成長の芽を摘みかねない」と指摘した。








 私は中学まで毎日のように練習で殴られていました。小学3年で6年のチームに入り、中学では1年でエースだったので、上級生のやっかみもあったと思います。殴られるのが嫌で仕方なかったし、グラウンドに行きたくありませんでした。今でも思い出したくない記憶です。

 早大大学院にいた2009年、論文執筆のため、プロ野球選手と東京六大学の野球部員の計約550人にアンケートをしました。

 体罰について尋ねると、「指導者から受けた」は中学で45%、高校で46%。「先輩から受けた」は中学36%、高校51%でした。「意外に少ないな」と思いました。

 ところが、アンケートでは「体罰は必要」「ときとして必要」との回答が83%にのぼりました。「あの指導のおかげで成功した」との思いからかもしれません。でも、肯定派の人に聞きたいのです。指導者や先輩の暴力で、失明したり大けがをしたりして選手生命を失うかもしれない。それでもいいのか、と。

 私は、体罰は必要ないと考えています。「絶対に仕返しをされない」という上下関係の構図で起きるのが体罰です。監督が采配ミスをして選手に殴られますか? スポーツで最も恥ずべきひきょうな行為です。殴られるのが嫌で、あるいは指導者や先輩が嫌いになり、野球を辞めた仲間を何人も見ました。スポーツ界にとって大きな損失です。

 指導者が怠けている証拠でもあります。暴力で脅して子どもを思い通りに動かそうとするのは、最も安易な方法。昔はそれが正しいと思われていました。でも、例えば、野球で三振した子を殴って叱ると、次の打席はどうすると思いますか? 何とかしてバットにボールを当てようと、スイングが縮こまります。それでは、正しい打撃を覚えられません。「タイミングが合ってないよ。どうすればいいか、次の打席まで他の選手のプレーを見て勉強してごらん」。そんなきっかけを与えてやるのが、本当の指導です。

 今はコミュニケーションを大事にした新たな指導法が研究され、多くの本で紹介もされています。子どもが10人いれば、10通りの指導法があっていい。「この子にはどういう声かけをしたら、伸びるか」。時間はかかるかもしれないけど、そう考えた教え方が技術を伸ばせるんです。

 「練習中に水を飲むとバテる」と信じられていたので、私はPL学園時代、先輩たちに隠れて便器の水を飲み、渇きをしのいだことがあります。手洗い所の蛇口は針金で縛られていましたから。でも今、適度な水分補給は常識です。スポーツ医学も、道具も、戦術も進化し、指導者だけが立ち遅れていると感じます。

 体罰を受けた子は、「何をしたら殴られないで済むだろう」という後ろ向きな思考に陥ります。それでは子どもの自立心が育たず、指示されたことしかやらない。自分でプレーの判断ができず、よい選手にはなれません。そして、日常生活でも、スポーツで養うべき判断力や精神力を生かせないでしょう。
.
朝日新聞社








(追記) 以上を一言でまとめた名言を見つけたので、転載する。「笑点」なら「うまい、座布団一枚!」というところだ。これこそ伝統的スポーツ名門校の実態だろう。




殊能将之‏@m_shunou

殴られて指導された奴が殴って指導するんだよなあ






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「ちきゅう」の動きにご注意

縄文人(なわふみひと)氏のブログ(日記)から転載。
「カルマの法則」とか「サタンのシナリオ」という言葉を除けば、井口博士あたりが常々言っていることと一致している内容である。つまり、「3.11」は人工地震であり、その設定(海底への原爆埋設)をしたのが大型掘削船「ちきゅう」である、ということだ。
これは誰かが既に言っていることかどうかは知らないが、福島原発事故は、その海底原爆の放射能が検出された時に「ちきゅう」への疑惑が起こらないように意図的に起こされた小事故が、東電が頑なに福島原発廃棄処分を承認しなかったために思いがけない規模の大事故になったのではないだろうか。つまり、「3.11」首謀者たちは、東電首脳がそこまで阿呆だとは予測もしていなかったということだ。
「3.11」が人工的に起こされた地震と津波であったとして、ではその目的は何か、というと、日本経済を弱体化し、買取価格を底値にした上で日本企業を外資が乗っ取る、というところだろうか。それに加えてTPPもあるという二段構えである。もちろん、TPPも日本(企業)乗っ取りのための法的整備が第一の目的だと私は考えている。農業や保険や医療といった個別分野の問題ではなく、日本の「法」を無力化し、日本の国家主権を奪うのが最大の目的だ、ということだ。
だから私はTPPは「3.11」以上の政治的大津波だと言っているのであるが、前回の衆院選でそれを争点にできなかったのが「日本未来の党」「社民党」「共産党」などの敗因だろう。もちろん、表マスコミの圧倒的な情報支配力(あるいは不正選挙)の前に敗れたわけだが、それらの政党そのものも、なぜもっとTPPの危険性を声を大にして訴えなかったのか。
まあ、それはともかく、「ちきゅう」が紀伊半島沖の海底を掘削しているということは、かなり臭う話だ。下記記事に言うようにマスコミが「大地震が近いうちにやってくる可能性が高い」、と昨年ずっと大騒ぎしていたのは、西日本直撃の人工大地震をこれから起こすための布石と思われる。たしか昨年前半にその手の記事がやたらに週刊誌や新聞を賑わせ、現在は一段落しているが、だからこそ、「D-day」(これは死語か?)は近いのかもしれない。そして、それが起こったら、「ほら、我々はちゃんと警告していたでしょう」と言うわけだ。
私は、「首都圏大地震」の話がマスコミを賑わしていた時は、これは関西遷都の布石だな、と思っていたが、遷都の話は立ち消えになっている。その後「南海トラフ」がどうのこうのという話が出てきて、これも全週刊誌的話題になった。つまり、意図的に操作された話題である。誰も意味の分からないような「南海トラフ」の話に、全週刊誌が一斉に飛びつくこと自体がおかしいではないか。そして、現在は大地震の話がマスコミから消えている。そして「ちきゅう」は伊勢半島沖をせっせと掘っている。
というわけで、関西の(あるいは東海地方もか)太平洋側に住む人々は、井口博士ではないが、「備えあれば憂いなし」の気持ちで、これから半年乃至1年くらいは日々用心しながら暮らすのがいいかと思われる。まあ、べつにびくびくしろというのではない。どうせ人間誰でも一度は死ぬし、一度しか死なない(笑)のだから、いつ死んでも悔いの無いように生きればいいだけだ。





(以下引用)



● 次の人工地震は東南海地震になる?  2013年1月7日(月)

  サタンのシナリオの一環として我が国を対象に実施された最近の事件といえば、やはり東日本大震災ということになると思います。この地震と津波および原発事故が人工的に実施されたものであることを、私は確信していますが、ほとんどの日本人は偶然起こった自然災害だと思っていることでしょう。「人工地震なんかであるはずがない!」と、ご自身のブログで断言している人までいるくらいです。しかし、「人工地震ではない」という理由はまったく述べられていません。要するに「そのように考えたくない」ということでしょう。
  人工地震ということにしますと、それを仕組んだ人間とその目的を特定しなくてはなりません。誰が(どのような勢力が)、何のために、日本に対して人工地震を仕組んだのかについての証明が必要となります。しかしながら、あのような大規模な災害を人工的に引き起こせる連中が、その証拠を残すようなことは考えられません。
  実際、アメリカの「9.11」などのように、どうみてもアルカイダの犯行とは思えないものでも、それをでっち上げ、マスコミを操作してアフガニスタンへの侵攻を正当化できる連中のやることです。日本の政府を黙らせ、東日本大震災は自然災害だというアナウンスをさせることなど朝飯前なのです。地震後すぐに日本を訪れたアメリカのクリントン前国務長官が、そのことを元首相の菅さんに釘を刺しに来たのだと、私は見ています。
  このことの説明も必要だと思いますが、皆さんが最も知りたいと思われるのは「では、次の人工地震は計画されているのか」ということではないでしょうか。このことについて私は「東南海地震がすでに準備に入っています」と答えざるを得ません。

  その第一の理由は、東日本大震災後におけるマスコミの地震や津波に関する報道姿勢です。政府や政府関係機関からのアナウンスを受けて報道されているのはわかりますが、最近では津波を伴った大地震や首都直下型地震の発生は避けられないといったトーンの報道が相次いでなされています。実際にそのような巨大地震が起こっても、だれもそれが人工地震だとは思わないように、周到に国民を洗脳しているとしか思えないような報道姿勢です。それを受けて、地方の行政や各企業では、BCPと銘打って震災後も事業を継続できるようにするための様々な対策が打たれています。
  日本の社会全体が、巨大地震と津波を想定しての準備を着々と進めているのです。私が力説してきたカルマの法則からすれば、まさに震災を生み出すエネルギーが異次元に急ピッチで蓄積されつつあると考えられます。そして、対策が完了し、人々の関心が地震や津波の襲来から離れてしまったころ、(それはもしかしたら、自民党の安倍政権のもとで始まったこの国の第二のバブル景気の中で、多くの人が再びお金の魔力に翻弄され始めたころ)、それに冷や水をかける形で、津波を伴う巨大地震の引き金が引かれるのかもしれません。
  私の言う「サタンのシナリオ」では、この国の崩壊にとどめを刺すという最後の手段が間違いなく準備されていると思うからです。その最後の手段となる物理的な処置が、首都直下型地震と東海地震、東南海地震、南海地震になるのではないかと見ています。
  そんな矢先、先の震災後長い間東京湾の付近で掘削作業を続けていた「ちきゅう」が、今度は南海トラフで掘削作業を始めているというニュースが新聞で報じられたのです。
  それも、日経新聞の「SUNDAY NIKKEI」という欄で、下の写真のようにイラスト入りでかなり目につく記事になっていました。

         

  地震の巣 南海トラフ掘る
  掘削船で地殻変動解明へ

  東海沖から日向灘にかけての「南海トラフ」は、地震の巣だ。内閣府は最大マグニチュード(M)9.1の地震が起き、32万人が亡くなる可能性があるとの想定を公表した。ここで地震が起きる仕組みを解明するため、海洋研究開発機構の大型掘削船「ちきゅう」が空前の作戦を進めている。暑いベールに包まれた巨大地震の正体を突き止め、防災に役立てられるのか。

  紀伊半島沖の熊野灘。海原に全長210㍍の船体が浮かぶ。船上には海面区から高さ121mにも達する掘削装置のやぐらがそびえ立つ。水深2500mの海底まを7500mまで掘削できる能力は世界最高だ。
  (中略)
  南海トラフでは2007年度から断続的に調査を続けている。海底の断層や周辺をドリルで貫き、穴の底から岩石を採取。堆積物や岩石の種類からはプレート境界面の滑りやすさや圧力がわかる。地震や津波の規模や発生期を特定したいと研究者らは意気込む。
  10月1日から、紀伊半島沖の熊野灘で掘削を始めた。調査は昨年1月以来。
  来年1月13日までに海底下3600mまで掘り下げる。来年度には海底下約5200mまで掘る計画だ。
  「ちきゅうは大学の研究室に匹敵する実験室を備える」(海洋気候の東垣地球深部探査センター長)。海底から引き上げた岩石は船上ですぐに写真を撮影。設備がより充実した陸上での解析に向けた準備に入る。帰港後に岩石の成分や土中の微生物を調べる。
  南海トラフでは直近の100年間でM8級の昭和東南海地震(1944年)と昭和南海地震(46年)が津波を伴って起き、それぞれ1000人以上が亡くなった。1707年には、東海、東南海、南海の3領域が連動し、西日本最大と言われる宝栄地震(M8.6)が起きた。M9級地震が起きる危険性もある。
  これだけのエネルギーを蓄える地震の巣への潜入が14年度以降の作戦だ。ちきゅうが開けた穴の底に地震計や傾斜計をおろし、巨大地震の兆候を観察する。うまくいけば地震や地殻変動をその場で見届けられる。
  (中略)
  調査の最終目的は防災だ。東センター長は「東日本大震災せを予測できず、悔しい思いでいっぱいだ。従来の地震学に加え、掘削調査の地学的な知見を防災に生かしたい」と力を込める。地震や津波を多方面から調べることで、救える命が増えるかもしれない。

  この記事の言っていることを要約しますと、いまマスコミ等でしきりに話題にされている東海・東南海・南海地震の発生に備えて、地震の巣である南海トラフを莫大な費用をかけて掘り進み、岩石を掘り出して微生物等の調査をすれば、多少は救える命が増えるかも知れない、ということです。そして、「ちきゅうは今日も海底を掘り続ける」と結んでいます。

  「ちきゅうの掘削エリアが東日本大震災の震源地とぴったり一致していた」という情報がネット上で広がっているため、その疑念を打ち消す目的で、最近では完全にある筋のコントロール下にあると思われる日経新聞が、提灯持ちの記事を書いたとしか思えない内容です。
  ちきゅうの持つ世界一の深海掘削技術を駆使して、海底の岩石を掘り出し、微生物の調査をしているというのです。さすがに、「これで地震の予知ができる」などというでっち上げの記事は書けませんので、「地震や津波を多方面から調べることで、救える命が増えるかもしれない」といった弱々しい表現で、ちきゅうの動きを正当化しようとしているのです。なんのニュースバリューもない記事と言わなければなりません。
  この「ちきゅう」のことに関しては「東日本大震災 ちきゅう」でネットを検索していただけば参考になる情報が得られますので、ぜひご覧になってください。
  要するに、海底に穴を開けて、そこに時限爆弾(原爆?)を埋め込み、それを同時に爆発させることで複合津波を引き起こそうとしていると考えられるのです。東日本大震災の津波が想像を超える高さまで達したのは、3つの地震が同時に起こり、日本列島に向かう津波がぶつかることでその勢力を高め合った結果だと見られているのです。ですから、津波は日本列島だけに押し寄せ、ハワイ諸島やアメリカ西海岸などには何の被害も及ぼさなかったのです。
  いまそのときと同じ形で、今度は日本の工業の中心とも言える太平洋ベルト地帯を津波によって壊滅させようという計画が、文字通り水面下で進められている、というのが私の見解です。






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マグロの腹の中は真っ黒か

「ネットゲリラ」から転載。
これは明らかに政府による「景気回復」の小芝居演出のようだ。1億5千万の小芝居。(笑)
それで見ると官房機密費の額がどれほど巨大なものか、また政府の表支出に計上されない金がどれだけあるかも分かる。つまり、政府予算など虚構であり、実はまったくの丼勘定なのだろう。もちろん、これは「組織は上に行けば行くほど丼勘定になる」という「酔生夢人の定理」(w)によるものであり、下っ端役人はボールペン1本持ち出しただけでも汚職扱いされかねない、いや、事務用品などは自弁になっていると思う。
銀行なども同様で、窓口での金の出し入れは1円違っても残業してまで計算やり直しだが、肝心の資金貸し付けや上の方の給与などは、上層部の腹一つの丼勘定だというのが私の推定である。
世の中はだいたいそういうものである。


(以下引用)



官房機密費で15500万のマグロ購入疑惑

野次馬 (2013年1月 8日 10:14) | コメント(16)





安倍晋三にマグロ疑惑です。

 それにしても「すしざんまい」は良くやった。支那人のライバルに競り勝ったのは国威発揚の点でも「殊勲甲」だ。ひょっとして「国策」として官邸筋からの秘密指令があったのかと思っていたら、今朝の朝刊の「首相動静」を見て仰天した。
 <首相動静―1月6日>
 <「午後」1時30分、すしチェーン店「すしざんまい」を運営する「喜代村」の木村清社長。>
 おいおい(笑)。しかしこんなつながりに気付くのは私くらいかな。マグロ落札は社会部、首相動静は政治部だから、かかる面白い話を大きな記事にしない。
 う~ん、縁起ものだから一部を安倍晋三首相にお届けしなくては、ということだったにしても、よほどのルートがないとなかなかできることではない。この日、他に会っているのは麻生太郎副総理だけですぜ。まさか落札の裏に官房機密費があるとか(笑)。

勝谷誠彦メールで書かれているんだが、史上最高値で落札されたあのマグロが、安倍首相に献上されたらしい。官房機密費と書いてあるんだが、インフレ誘導のために、官房機密費を使ってわざわざ高値に釣り上げて落札したんじゃないか、ついでに、カネにあかせてマグロを買い漁る支那人にもひと泡吹かせられるし、という疑惑。税金使って、物価高騰のために猿芝居w アホな政権だw




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出口ナオの予言の実現は目前にある

少し前に「徽宗皇帝のブログ」に引用した出口ナオの「お筆先」(自動書記現象による「神のお告げ」かと思う)の一部をここにもう一度引用しておく。
まあ、年の初めにこれでも読んで、日本の現状と行く末に思いを馳せるのも無意味ではないだろう。
ついでに、「Darkness」の記事を転載しておくので、併せて読むと、この二つがぴったりと符合するのが分かるはずである。





(以下「2012年の黙示録」より引用)


外国は獣の霊魂になりてあるから、悪が強いから、心からの誠ということがなきようになりて、人の国まで、弱いと見たら無理に奪ってしもうて、奪られた国の人民は、あるにあられん目に遭わされても、何も言うことはできず、同じ神の子でありながら、あまり非道いやり方で、畜生よりもモ一つ惨いから、神が今度は出て、世界の苦しむ人民を助けて、世界中を桝掛け引きならすのであるぞよ。

  外国人はだんだん世が迫りて来て、食い物に困るようになりたら、日本の人民を餌食にいたしてでも、とことんやり抜くという深い仕組みをいたして、日本の国をとろうといたして、長らくの仕組みをしておるから、日本の人民はよほどしっかりと腹帯を締めておらんと、末代取り戻しのならんことが出来(しゅったい)して



(以下「Darkness」より引用)





グローバル経済は企業の形を変えた。2000年初頭には、製造業にも派遣労働が認められて非正規社員化が進んだ。

多くの企業は若者を正社員ではなく、派遣として雇うようになった。その結果、若者は不安定な生活を余儀なくされ、とても結婚や子供を産み育てる環境ではなくなってしまった。

それが少子高齢化につながるのだが、この少子高齢化はますます国の歳入を減らす。若者が減って老人が増えるのだから、年金制度も成り立たなくなる。

こんな状態では国内消費が増えるはずもないから、そうするとさらに企業は窮地に陥り、政府も歳入を失って一緒に窮地に落ちていく。

「負のスパイラル」に落ちている日本の姿を見て、いまだ日本は大丈夫だと言っている人の気が知れない。

2009年から2012年まで、民主党という史上最悪の政党が政権を握って日本の衰退は一気に加速していったが、民主党がいなくなったら衰退が止まるという単純な話ではない。

日本の衰退は構造的なものであり、政治的なものではない。
今のうちに身の振り方を考えておく必要がある

グローバル経済は、格差を増長する。企業は儲けた分を従業員に回すのではなく内部留保する。あるいは、配当で株主に還元する。

その結果、企業のオーナー、経営陣、株主と言った資本主義の上層階級のみが潤って、労働者は切り捨てられていく。

かつての日本企業では労働者は「人材」だったが、今や労働者は単なる「コスト」扱いだから、賃金は低ければ低いほどいいのである。

だから、サラリーマンという職業は危険なのだ。日に日に、サラリーマンは足元が切り崩されていき、企業からも捨てられ、国家からも収奪されるという二重苦に陥っていく。

日本人の8割がサラリーマンなのだから、日本人の8割が苦境に陥って、どうにもならなくなる社会が、これから確実にやって来るのである。

いくら働いても豊かになれない。サラリーマンにはまったく未来がなく、今のうちに身の振り方を考えておく必要がある。

サラリーマンよりも、もっと悲惨な末路を迎えるのは、家に引きこもってしまった若者たちだ。

長く引きこもれば引きこもるほど単純労働しか働き口がなくなるので、自分で事業を興すような才覚を見せない限りは生きていくことはできなくなる。

もっとも、事業を興せば成功するのかと言えば、それも確約できないのは誰もが知っている。起業は3年以内に8割が消えていくという厳しい世界でもある。

格差のどん底に落ちていくというのは、そういう絶望的な世界である。誰もあなたを助けてくれない。政府でさえ、あなたから収奪しようとしているのだから、注意深く生きる必要がある。
最後のセーフティーネットすらも消失する

格差はさらに拡大していく。アメリカと同様に、日本も1%の特権階級と、99%の貧困階級へと分離して、大多数の国民がその99%に追いやられることになる。

日本はかつて世界で最も成功した「社会主義国家」と揶揄されていた。国民のほとんどが「自分は中流階級だ」と思っていた時代もあった。

しかし、もうそんな牧歌的な時代は終わったのだ。

グローバル経済が加速すればするほど格差社会となり、生活保護を受ける世帯も急増している。

2012年後半からは、毎月1万人が生活できない状況に陥っているという凄まじい状況になってしまっていた。

今では211万人が生活保護にすがっているが、2013年も引き続き増えていくだろう。いずれ政府は生活保護さえも払い渋ることになるが、そうなると貧困層の最後のセーフティーネットすらも消失する。

超格差はアメリカや中国の話ではなくなった。

今、あなたの目の前でそれが起きており、あなたがサラリーマンであれば、いずれは火の粉が自分に降りかかってくるという危機的な状況になっているということだ。

もし、あなたが財産を持っていなければ、そのまま地獄に突き落とされる。

もし、あなたが財産を持っていれば、それは国家に収奪されてから地獄に突き落とされる。

財産が奪われた挙げ句、最後に国も破綻するのである。

誰がトップになっても、国家の債務が消え去るわけではないのだから、いずれ追い込まれた日本政府は、国民の財産を収奪しにかかる。

あなたは持っているものを奪われないために、とにかく必死で守るべきだ。破綻していく国家に「自分の持ち物」を収奪されていいはずがない。






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普通人の心理を知らないと選挙には勝てない

「スロウ忍」ブログから記事の一部だけ転載。
こういう、自分の目や耳で実際に見聞きした話というのは貴重である。わずかな事例であっても実はそれは世間の普通の(大半の)人間のサンプルなのだ。商品の品質検査をするのに、全商品の梱包を解いて調べる必要はない。アトランダムに、100個から1個程度の割合で調べれば、全商品の品質は確率的に分かる。
要するに、不正選挙などしなくても自民党は勝っていただろう、ということだ。もちろん、あれほどの大勝はしなかっただろうが、200議席は軽く超えていただろう。それは、下の記事にあるようなB層が日本国民の大多数だからだ。(私自身がそうかどうかは今は問題にはしない)
後で、今日の徽宗皇帝のブログに転載した記事から、この記事に関連する「日本国民の選挙時の空気」に関する部分を追加転載しておくが、藤島利久候補は、原発脱却に対する国民の冷ややかな空気を選挙中に感じていたらしい。一般国民にとっては、「国民の生活」ではなく、「自分の生活」が第一なのである。「未来」よりも「今」が大事、「目の前のこと」が何より大事なのである。
少し考えれば、それが当然であることは分かる。

(問題1) あなたと、まったくの他人の二人が飢え死にしかかっています。そこに一人分の食料が投下されました。あなたはこれを他人に与えますか。

(問題2) 二つの選択があります。Aは「今から20年間、裕福に暮らせるが、20年後には死ぬ確率が5%から50%くらいあります」。Bは「今から20年間貧乏な生活が続きます。20年後に死ぬ確率は5%から20%くらいです」。あなたはどちらを選びますか。

まあ、こんなもってまわったような事を言わなくても、「他人より自分が大事」「どうなるか分からない未来より、目の前のことが大事」というのは当然だろう。子供のいる人なら、子供のために自分や現在を犠牲にすることもあるだろうが、余裕の無い庶民であるほど、脱原発の高邁な理想より自分の生活の維持や向上を選ぶはずだ。
要するに、普通の人間の心理を知らなければ選挙で勝つことは不可能だ、ということである。
「マスコミによる洗脳」に不毛な攻撃を加えるより、「いかにして」マスコミと戦うか、あるいはいかにしてマスコミを味方につけるか、を考えるべきである。私は、「新しいマスコミ」を立ち上げることを提唱しているが、それには金も時間も労力もかかる。あまり敗北主義的な観測はしたくないが、このままだと今年夏の参議院選は、おそらく自民党が大勝するだろう。
米兵による東電訴訟が大問題化する、とかいった「外圧」以外には今のところ突破口は無いように思える。
もちろん、安倍自民党が善政を敷けば、何も問題は無いわけだ。(笑)




(以下引用)



新年早々、将来の日本経済に対して絶望感を抱いた。まぁ今になって始まったことでも無いけどな。

以下は、俺の身近な者達の世間話から感じたことである。


(中略)


次に、都内の有名ミッション系大学(笑)で政治経済とやらを専攻するお嬢様の話だ。彼女は今回の選挙で自民党が圧勝したことについて、「消費税増税で財政が安定化し、私達も将来年金が貰えるようになる」など頓珍漢なことを抜かしていた。新自由主義者共の最終目標は社会保障の撤廃なのにな(プ 何処でそんな馬鹿な話を吹き込まれたのかと彼女に問い質して見た処、其の有名ミッション系大学(笑)で“社会福祉関係”の教授とやらがそう曰っていたのだそうだ。日本の大学とは此の程度なのである。矢張り、親御さんは大切な我が子を大学なんぞに行かせるべきでは無いのである。しかも彼女は20代という若さで将来の年金なんぞを異様に当てにしており、将来は良い病院で老後を迎えたいから年金が欲しいそうだ(プ 就職活動をしている彼女の仲間の多くも、会社選びでは、年金や福利厚生の充実(笑)を最も重視しているそうだ。さっきの“住宅ローン”の話と同様、“幻想”にカネを払い続けることを厭わない日本人の奴隷気質が此処にも表れている。

“将来への不安”を煽ることは、支配者が奴隷から“カネ=時間=労働力”を搾取するのに最も有効な手段の一つである。

奴隷製造工場のベルトコンベアに乗せられて飼育された彼等は、身体だけは立派に成長しているが、精神構造は奴隷其の物である。



(引用2「藤島利久」の「選挙無効訴状」より)



原告は、埼玉五区で未来の党公認で出馬し、選挙期間中はJR大宮駅前で「脱原発」一本の街頭演説を続けた。選挙中盤で有権者・国民のおかしな反応に気付いた。駅頭を往来する多くの有権者が「原発が無くなると、エネルギーが足りなくなる。日本の産業がおかしくなる。景気が悪くなる。電気代も上がる。」と、マスコミからニセ情報を刷り込まれて洗脳状態に陥っていたのである。



これには驚愕した。真実は、原発は既に止まっており、エネルギーは余っている。現在、唯一稼働している福井県の大飯原発2基については、関西電力が火力発電所を7基止めて意図的に電力不足を創り出したうえ、マスコミが此れに加担して我々国民を欺き、民意を「再稼働やむなし」に不当に誘引したものである。



マスコミによる「国民洗脳」の恐ろしさが此処に顕著であって、マスコミが脱原発政党への投票を妨害したと言える。








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天皇と「最後の拒否権」

「句の無限遠点」というブログから転載。

「民主主義は逆に言えば、共同体成員が対等に等しく最適な環境で生存する条件を保証し合う制度であって、いまのところこの原理的な「根本合意」以上の観念と制度は他にない。」

という言葉は、まさしく我が意を得たり、という言葉である。私が民主主義の絶対的支持者であることは、過去記事を読めば分かる。そのことと、「尊皇主義」と「漸進的社会主義者」であることは一つも矛盾は無いつもりだ。
私の「尊皇主義」は、日本の文化的伝統の中心に天皇が存在すること、また今後の政治的危機において、天皇の存在があることは、大きな重石、すなわち右にも左にもぶれない動かぬ中心として、日本の貴重な利点であると考えることによる。(天皇とは右でも左でもなく、中心にある存在だ、というのが私の思想だ。これを否定的に言ったのが丸山真男の「中空的存在」という言葉だが、私はこれを「中心の重石」と言い換えたい。)これが私の言う「万世一系の価値」だ。悪意をもって天皇を利用する勢力の台頭にさえ気をつければ、天皇は世界に誇れる国民統合の象徴であり続けるだろう。それだけでなく、優れた政治システムだとさえ言える。

なお、これはまだ熟していない考えだが、私は天皇に「最後の拒否権」を与えるのはどうか、と考えている。憲法改定、および開戦という国家最大の重大事案に関しては、天皇が「ノー」と言えば、ストップできる、という考えだ。これを新たな国家システムとするのである。

これは、国民自体が民主主義を運営できない現状では、国民主権もまた形骸化しており、実は官僚主権となっている、という事実から考えだした過渡的手段ではあるが、選挙すらも当てにならないのなら、最後の防衛線としてこれほど強力なものはない。それが天皇の最終的決定なら、日本国民は従うだろう。
もちろん、天皇の「ノー」とは事案の「国会差し戻し」である。もしもこれに対し、国会が再度同じ議決をしたら、それこそ国会が焼き打ちされると私は見ている。天皇という存在にはそれほどの潜在的力があると私は思っている。すぐれた人格者が「最後のノー」を言うためにいつでも存在してくれる、ということの与える安心感は計り知れない。日本のシンボルは、いざと言う時に日本国民の守り神になるわけだ。
まあ、これは一種の「天皇機関説」であり、ある種の人々には不敬と思われるだろうし、天皇嫌いの人々からも嫌われそうな意見だ。つまり右にも左にも嫌われる。(笑)だが、昭和天皇自身が「天皇機関説」について「それで良いのではないか」とお側の者に答えたという事実を考慮してもらいたい。昭和天皇自身が、自らを国家の一つの機関であると認識していたのである。現天皇の人格の素晴らしさは今更言うまでもないだろう。
私は、国家の最後の命運を預けるならば、人格低劣な秀才官僚や口先だけの詭弁政治家にではなく、徳のある人格者に預けたい。

「漸進的社会主義」についてはこれまで何度か書いてきたから詳しく書かなくていいだろう。政治が結局は一部の人間の利益を中心に動かされようになるというのが自由主義(資本主義)の宿命である。社会主義は本来、社会全体の利益、すなわち一般国民の利益を一部の富裕層の利益より優先する健全そのものの思想である。あらゆる福祉政策は社会主義的政策であり、国民がそれに反対する理由は無いはずだ。社会主義を何か悪の思想であるかのように思う幼稚な反応はもうやめたいものである。




(以下引用)


もう一度、私たちが社会や政治を論ずるのはなぜか?と問わなければならない。
それは、動物が自然環境を生存の条件にしていると同様、社会や政治(人間の作り上げたもの)が人間の生存条件であるからである。
ただそれは自然界と同じように実在物としてシステム論や法理論や経済理論として語られるが、それは仮象であって、人間の幻想が生み出した共同観念であり、絶えず共同の合意によって刷新している観念体系なのである。
そこをよく理解しておかないと、なぜ社会のひとびとがいきなり意見が違うから殺してしまえとならずに、論議を尽くし、多数決で少数意見を尊重し取り込まねばならないという民主主義の手続きができたことも忘れ去られていく。
民主主義は逆に言えば、共同体成員が対等に等しく最適な環境で生存する条件を保証し合う制度であって、いまのところこの原理的な「根本合意」以上の観念と制度は他にない。
自民党公明党維新の会みんなの党の主張する政策は、こうした「根本合意」を忘れて、共同体の劣化と弱体化を図るような話が多すぎる。
どのような世界の歴史をみても、共同体内部の格差と抑圧が激しくなって栄えたためしはないのだ。
共同体が強固なのは、自分も他人も同じ人間だという共感をベースに、「対等である」という実感が他人を支える動機になるのであって、対等にものを言う人間が多いほどいい知恵もでてくるのはいうまでもない。
もっともらしい政治家や知識人の言説も、このような「根本合意」の原理に引き当てて吟味すれば嘘か信か見抜くのもそれほど難しいことではない。
あれやこれやで迷ったら、今年はここに立ち返って考えるとしよう。





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考えること
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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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