「ギャラリー酔いどれ」から転載。
ここに書かれていることはネット民にはほぼ常識であると思うのだが、wantonなどとかいう阿呆が「原爆は昭和天皇の要請で落とされた。それに地上起爆だ」などという珍説を言い出して(もっとも、彼のブログはロクに読んでいないから、別の誰かの説の尻馬に乗っているのかもしれない。wantonブログが原発反対ブログであるだけに、彼のブログには一定の影響力もあるらしいのが困ったところである。あんなのは「原発反対商売」ではないか。飯山一郎の原発反対も似ているが。)しかもこの言説に乗る阿呆(安保Tカシなど。私は最初からこの人も嫌いなのだが、それは感覚的な嫌悪感だけだった。この人も「反原発」陣営だから「大摩邇」などにもよく転載されている。)が増殖しているようなので、改めて(同種の記事は無数にあるから、べつにこの記事には限らないが)載せておく。
この記事のどこをどう読めば、「昭和天皇が原爆投下を要請した」という要素が読めるのか。どこかで誰かの言ったデマを信じて、そんな妄想を「確信」した(あるいは自分のブログの「にぎやかし」に使った)のだろうが、何万の情報に触れても、何千の書物を読んでも、読解力が無ければ無意味な行為である。
反原発という立場が同じであると、「同じ陣営」の人間の、眉をひそめたくなるような言行を目にしても批判がしにくくなる。だが、昭和天皇批判(理性的な議論)はいいとしても、悪質なデマの流布は、故人に対するものでも「犯罪的」だと私は思う。「国体護持」のために降伏の決断が遅れたことを問題にするのはいいが、「原爆投下要請」論は、話の次元がまるで違う。現実議論が妄想議論になっている。
結論を言っておく。「反原発」を「商売」に結びつけているような人物は、商売のために何でも言うと思っておけばいい。
(以下引用)
鬼畜・湯田米、
◆http://www.asyura2.com/13/warb11/msg/489.html
投稿者: 金剛夜叉 日時: 2013 年 8 月 11 日 6p4GTwa7i4pjA
◎日本人は知らない原爆投下の真実
2011年8月6日、広島に原爆が投下されて66年が経過した。
広島・長崎の悲劇は繰り返されてはならない。
一瞬にして数十万の命を奪い、また生き残った人達もその後
凄惨な人生を送ることとなった行為は正当化されるものではない。
「繰り返されてはならない」であって「繰り返してはならない」ではない。
日本人の発言としては「繰り返されてはならない」が適切であると思うが
いかがだろうか。
戦争をおこさない、あるいは参戦しない、ということに関しては
「繰り返してはならない」という強い決意に同意だ。
しかしながら広島・長崎の被爆は、
日本が第二次世界大戦に参戦したから引き起こされた悲劇ではない。
参戦したから原爆を落とされたという因果応報的な自虐史観はいかがなものかと思う。
日本には元々第二次世界大戦を戦い抜く力はなく早く終戦させたかった。
戦争を終結させるために原爆投下は必要ではなかったことは明らかだった。
終戦後、GHQ占領の元で アメリカのためだけの
資本主義、民主主義教育体制が構築され 日本人は自虐史観を持つよう洗脳されてきた。
勝てば官軍、負ければ賊軍。
勝ったアメリカが正で、負けた日本は悪なのか?
欧米諸国の侵略・略奪植民地主義から日本やアジア諸国を守ろうとし
命を落としていった先祖達は悪で、原爆を落としたアメリカが正義なのか!
アメリカに押し付けられた価値観ではなく、
日本人は自らの文化、歴史に誇りを持って良いと思う。
今、世界で戦争や紛争が起こると「人道的」という言葉がよく使われる。
「人道的」とは人が人としてどうあるべきかを問う言葉だと思う。
人が人であるならば、「人道的」という概念は太古の昔から変わっていないはずだが、
どうやらこの言葉は欧米諸国の都合によって使い分けられているようだ。
日本人はもちろん人間なのだが、欧米の一部のものたちはそうは思っていない。
人間以下の動物と思っているわけだから、
人道的という概念も日本人に対しては適用されないというわけだ。
アメリカは自国民に対しプルトニウムを投与するという人体実験を
国家プロジェクトとして行っていた国である。
人間以下の日本人を原爆の実験台にすることに何のためらいもなかったのだ。
最新の調査によると、アメリカ政府は1943年5月という早い時点で
「対日投下」を決定し、
原爆使用を来たるべき戦後の原子力開発競争において、
アメリカがとりわけソ連に対していかに優位を確保していくかを中心に
議論していたことが判明している。
大戦中、アメリカとソ連は同じ陣営に属してはいたが、
戦後の世界再建に向けてにらみ合っていた。
ともに増大する軍事的脅威に危機感を感じ取っていた。
ソ連はヨーロッパ戦線でベルリンを陥落し、東ヨーロッパの大部分を手中に収めるにまで
至っており、アメリカと対等の席につくはずであった。
ところが、原子爆弾という切り札によってソ連の優位は崩れ、
アメリカに交渉のイニシアティブを握られてしまったのである。
原子爆弾は「対ソ外交」を有利に運ぶ上で、効果的な材料だったのである。
「マンハッタン計画」に携わったユダヤ人科学者の中で、
もっとも反日強硬派だったのはフォン・ノイマンだろう。
彼は日本人を蔑視し、京都を原爆の最初の血祭りにあげるべきだと主張。
京都が日本国民にとって深い文化的意義をもっていたというまさにその理由によって、
京都の破壊を求めていたのである。
しかし、ヘンリー・スチムソン陸軍長官の反対によって、京都は原爆のターゲットから外された。
彼は、京都の代わりに長崎の追加を指示したのである(1945年7月22日)。
一般に、この時にスチムソンが京都を原爆のターゲットから外した理由として、
「スチムソンは京都が歴史のある都市であることを理解していたから」という
“美談”で語られる場合があるが、だまされてはいけない。
この“美談”は、戦後、GHQが お涙頂戴好きの日本人を洗脳する為に、
意図的に流したニセ情報である。
アメリカ軍部の一部は京都を原爆投下目標とすることを諦めず、空襲を実施しなかった。
原爆投下後に原爆の影響を正確に把握するため、空襲が禁止されていたのである。
京都が最後まで空襲されなかったのは、原爆投下の前に日本が降伏したからにすぎない。
スチムソン以外にも、「京都を戦果から救った恩人」と言われるアメリカ人が何人かいるが、
すべて何の根拠もない流言に過ぎないのだ。
詳しくは吉田守男著『日本の古都はなぜ空襲を免れたか』(朝日文庫)を読んで欲しい。
当時のアメリカ政府は、日本の文化遺産を根こそぎ破壊することに、
なんのためらいもなかったのである。
ところで、「マンハッタン計画」をスタートさせたフランクリン・ルーズベルト大統領は、
日本人を“劣等人種”として激しく差別していたことで知られている。
一般のアメリカ人の間にも、日本人に対する人種差別意識が蔓延していた。
当時のアメリカの雑誌にはこう書かれていた。
「アメリカ人はドイツ人を憎むことを学ばなければならないが、
日本人に対しては憎しみが自然と湧いてくる。
これはかつてインディアンたちと戦ったときと同様に自然なものだ。」
「普通の日本人は知性が低く、無知である。たぶん人間なのだろうが、
人間であることを示すような点はどこにもない。」
当時、トマス・ブレーミー将軍も、こう演説していた。
「諸君らが闘っているのは奇妙な人種である。人間と猿の中間にあると言っていい。
文明存続のために我々は最後まで戦いぬかねばならない。
日本人を根絶しなければならない!」
ところで、「強制収容所」といえば、真っ先にナチスを思い浮かべる人は多いと思うが、
第二次世界大戦中、自由と民主主義の国、アメリカ合衆国にも「強制収容所」があった。
それも日本人と日系人専用のもので、約12万人もの民間人が
財産と市民権を奪われて、カリフォルニア州からルイジアナ州までに広がる
10数ヶ所の強制収容所に収容されたのである。
このアメリカの日系人に対する強制収容政策の裏には、
白人の有色人種に対する人種的偏見や差別意識があったことは明らかである。
(この時期、同じ敵国であったドイツ系・イタリア系のアメリカ人は
「お構いなし」の状態だった)。
この日系人強制収容政策の最高責任者は、前出のヘンリー・スチムソン陸軍長官である。
彼は太平洋戦争と原爆を語る上で、非常に重要な人物だ。
彼は、セオドア・ルーズベルト大統領の時代に政権に入り、以後、1950年に死ぬまで、
7人のアメリカ大統領に仕えたことで知られている。
第二次世界大戦中は、「マンハッタン計画」の最高責任者を務め、
広島と長崎への原爆使用を決定した。
それ以前に、彼は、ロンドン海軍軍縮会議においてアメリカ代表団議長として、
また、フーバー政権の国務長官として、日本海軍力の制限のために中心的に働いた。
さらに、フランクリン・ルーズベルト政権においては、
経済封鎖によって日本を窮地に追い込み、真珠湾攻撃へと駆り立て、ついに、
アメリカを太平洋戦争に参加させた張本人である。
ルーズベルト大統領が急死すると、彼はトルーマン大統領の背後で、
実質的にアメリカの戦争を指揮した。(トルーマンはスチムソンを全面的に信頼した)。
戦争が終わると、スチムソンは、原爆投下に対する批判を抑えるために、
「原爆投下によって、戦争を早く終わらせ、100万人のアメリカ兵の生命が救われた」
と発言(1947年2月)。
これが原爆使用正当化の定説となった。(「原爆神話」の誕生)。
一般のアメリカ人に、なぜアメリカが広島と長崎に原爆を落としたのかを尋ねれば、
たいていの人はこう答えるであろう。
「アメリカ軍の日本上陸により、多くの犠牲者を出すことを避けるためであった。
原爆を落とさなければもっと大きな悲劇を生んでいたであろう」と。
しかし、この言説を鵜呑みにしてはならない。
「当時、原爆投下以外にも日本への本土上陸を阻止する方法があったことは
識者の間ではすでに常識となっており、トルーマンも彼の顧問もそれを知っていた」
という事実があるからである。
これは、アメリカ原子力規制委員会の主任歴史家であるサミュエル・ウォーカーの言葉である。
1946年実施の戦略投爆調査の結論も、
「原爆が投下されなくても、またソ連が宣戦布告しなかったとしても、
さらには日本上陸を考えなくとも、1945年12月31日までには確実に、
そしておそらく1945年11月1日までには、日本は降伏していたであろう」として、
先の歴史家サミュエル・ウォーカーと同じ結論を示している。
1989年に公開された、陸軍省諜報部による1946年の最高機密調査では、
「日本の降伏に原爆はほとんど関係がなかった」という大胆な結論が出されている。
そして第二次世界大戦終結の決定的要因はソ連の宣戦布告であったとされ、
アメリカの大規模な日本侵略が行なわれることはなかったであろうと記されている。
つまり、「日本を降伏に追い込んだのは、原爆の使用ではなく、ソ連の参戦である
といっても過言ではない」というのが同調査の結論であった。
また、スタンフォード大学の歴史家バートン・バーンスタイン教授によれば、
統合参謀本部の諮問グループ、統合戦争計画委員会は当時、
ソ連が宣戦布告しない場合でも、九州への上陸だけで戦争を終結できるであろう
と結論づけていたのだ。
ヨーロッパのアメリカ軍司令官アイゼンハワー将軍は、
スチムソン陸軍長官から計画を報告された時のことをこう記している。
「彼の報告を聞いているうちに、暗い気持ちになった。
私は彼に深い不安を伝えた。まず、日本はすでに敗北しており、
原爆は全く必要ないということ、次にアメリカ人の命を救う手段として、
もはや不要ともいえる兵器を使用することで
国際世論に衝撃を与えることは避けるべきだと伝えた。」
アイゼンハワーの見解は
「日本はできる限り体面を損なわない降伏の方法を模索している。
恐ろしい兵器で日本に打撃を与える必要はもはやない」というものであったのだ。
現在では、原爆は恐らく戦争を長引かせ、アメリカ兵の命を救うどころか、
奪ったと信じる歴史家もいる。
なぜなら、国務次官ジョセフ・グルーは、
1945年5月には降伏条件を変えるだけで戦争は終結すると大統領に進言しており、
また大統領は原爆が完成するまで明らかにそれを引き延ばしたからである。
タフツ大学の歴史家マーティン・シャーウィンは、
「トルーマン大統領がジョセフ・グルーの助言を受けていれば、
アメリカ兵、日本人の犠牲者の数は大幅に削減されたことであろう」と語っている。
スチムソン陸軍長官もまた後になって、
「歴史の中で、アメリカは降伏の条件を延期したことによって戦争を長引かせた」としている。
結局、アメリカ政府が日本に対して原爆を使用したのは、先に触れたように、
戦争を早期に終結させるためではなく、
戦後の対ソ外交を有利に運ぶ上で、効果的な材料だったためである。
アメリカ政府は1943年5月という早い時点で「対日投下」を決定し、
原爆使用を来たるべき戦後の原子力開発競争において、
アメリカがとりわけソ連に対していかに優位を確保していくかを中心に議論していたのだ。
大戦末期、米軍幹部の間では、原爆を投下しなくてもいずれ日本は力尽きる
という予想が大勢をしめていた。
しかし、トルーマン大統領は、ソ連の対日参戦で日本が降伏する前に、
原爆という圧倒的なインパクトのある兵器を投入することで、
日本にとどめを刺したのはソ連ではなく原爆、
というイメージを全世界に与えようとしたのだ。
「原爆ホロコースト」に重大な責任がある人物を挙げるなら、その筆頭は、
直接ゴーサインを出したトルーマン大統領だろう。
「原爆の誕生」自体は、当時の「原子物理学」発展の流れにおいて避けられなかったとしても、
原爆の「実戦使用」に関しては、
彼個人の「政治的な判断」で避けようと思えば避けられたのだ。
(原爆は作った人よりも使う人に問題があると思う)。
しかし彼は、原爆を使わずに戦争を終わらせるなどとは考えもしなかった。
彼は誕生したばかりの超兵器=原爆を使用したくてたまらなかった。
人間のいない荒野で爆発させるのではなく、人間が密集する大都市の上で爆発させて、
その破壊力を試してみたい気持ちに駆られていたのだ。
人体実験をしたかったのだ。
彼は日本から提示された降伏条件をはねつけ、日本への原爆投下を命じた。
しかも無警告で。2発も。
そうしたうえでその降伏条件を認めたのだった。
彼は自分の行動を正当化するために、
「原爆投下により100万のアメリカ兵の生命が救われた」とする
「原爆神話」を積極的に広めた張本人でもある。
--------------------------------------------------------------------------------
「原爆ホロコースト」の実態より
広島大学の名誉教授である芝田進午氏は、原爆の対日使用は「人体実験」だったとして、
1994年に次のように述べている。
「広島・長崎への原爆攻撃の目的は何だったのか。
1つには戦後世界でのアメリカの覇権確立である。
そしてもう1つは、原爆の効果を知るための無数の人間への『人体実験』である。
だからこそ、占領後にアメリカ軍が行なったことは、
第1に、原爆の惨状についての報道を禁止し、
『人体実験』についての情報を独占することだった。
第2に、史上前例のない火傷、放射能障害の治療方法を必死に工夫していた
広島・長崎の医者たちに治療方法の発表と交流を禁止するとともに、
死没被爆者のケロイドの皮膚や臓器や生存被爆者の
血液やカルテを没収することだった。
第3に、日本政府をして国際赤十字からの医薬品の支援申し出を拒否させることだった。
たしかに、『実験動物』を治療するのでは『実験』にならない。
そこでアメリカ軍は全力を尽くして被爆治療を妨害したのである。
第4に、被爆者を『治療』せず『実験動物』のように観察する
ABCC(原爆障害調査委員会と訳されたアメリカ軍施設)を
広島・長崎に設置することであった。
加害者が被害者を観察するというその目的自体が
被爆者への人権蹂躙ではなかったか。」
広島で女学生(14歳)のときに原爆にあい、現在も原爆後遺症で苦しむ詩人の橋爪文さんは、
「ABCC」(原爆傷害調査委員会と訳されたアメリカ軍施設)について、
次のような恐ろしい事実を述べている。
まさにアメリカがやったことは、「人体実験」だったといえよう。
「私は広島の生き残りのひとりです。 〈中略〉 ここで、ひとつ触れたいことは
『ABCC』についてです。これは日本でもほとんど知らされていないことですが、
戦後広島に進駐してきたアメリカは、すぐに、死の街広島を一望のもとに見下ろす
丘の上に『原爆傷害調査委員会』(通称ABCC)を設置して
放射能の影響調査に乗り出しました。
そして地を這って生きている私たち生存者を連行し、私たちの身体からなけなしの血液を採り、
傷やケロイドの写真、成長期の子どもたちの乳房や体毛の発育状態、また、
被爆者が死亡するとその臓器の摘出など、さまざまな調査、記録を行ないました。
その際私たちは人間としてではなく、単なる調査研究用の物体として扱われました。
治療は全く受けませんでした。そればかりでなく、アメリカは
それら調査、記録を独占するために、外部からの広島、長崎への入市を禁止し、
国際的支援も妨害し、一切の原爆報道を禁止しました。
日本政府もそれに協力しました。
こうして私たちは内外から隔離された状態の下で、何の援護も受けず放置され、
放射能被害の実験対象として調査、監視、記録をされたのでした。
しかもそれは戦争が終わった後で行なわれた事実なのです。
私たちは焼け跡の草をむしり、雨水を飲んで飢えをしのぎ、
傷は自然治癒にまかせるほかありませんでした。
あれから50年、『ABCC』は現在、日米共同の『放射線影響研究所』となっていますが、
私たちはいまも追跡調査をされています。
このように原爆は人体実験であり、戦後のアメリカの利を確立するための暴挙だった
にもかかわらず、原爆投下によって大戦が終結し、
米日の多くの生命が救われたという大義名分にすりかえられました。
このことによって核兵器の判断に大きな過ちが生じたと私は思っています。」
--------------------------------------------------------------------------------
「原爆ホロコースト」の実態より
アメリカは人口の多い全国の64都市を戦略爆撃していることも忘れてはならない。
東京大空襲では一夜にして10万人以上の民間人が焼き殺された。
広島・長崎は戦略爆撃、無差別空襲の極みとも言えよう。
日本人はとてつもなく徹底的に、、、虐殺された。
これを戦争犯罪と言わずして何と言うべきか。
全ての犠牲者の御霊が安らかに眠らむことを願います。
↑
ユダ米は鬼畜、仇敵。
日米安保条約廃棄通告を! 悪魔との悪縁切りを!
ここに書かれていることはネット民にはほぼ常識であると思うのだが、wantonなどとかいう阿呆が「原爆は昭和天皇の要請で落とされた。それに地上起爆だ」などという珍説を言い出して(もっとも、彼のブログはロクに読んでいないから、別の誰かの説の尻馬に乗っているのかもしれない。wantonブログが原発反対ブログであるだけに、彼のブログには一定の影響力もあるらしいのが困ったところである。あんなのは「原発反対商売」ではないか。飯山一郎の原発反対も似ているが。)しかもこの言説に乗る阿呆(安保Tカシなど。私は最初からこの人も嫌いなのだが、それは感覚的な嫌悪感だけだった。この人も「反原発」陣営だから「大摩邇」などにもよく転載されている。)が増殖しているようなので、改めて(同種の記事は無数にあるから、べつにこの記事には限らないが)載せておく。
この記事のどこをどう読めば、「昭和天皇が原爆投下を要請した」という要素が読めるのか。どこかで誰かの言ったデマを信じて、そんな妄想を「確信」した(あるいは自分のブログの「にぎやかし」に使った)のだろうが、何万の情報に触れても、何千の書物を読んでも、読解力が無ければ無意味な行為である。
反原発という立場が同じであると、「同じ陣営」の人間の、眉をひそめたくなるような言行を目にしても批判がしにくくなる。だが、昭和天皇批判(理性的な議論)はいいとしても、悪質なデマの流布は、故人に対するものでも「犯罪的」だと私は思う。「国体護持」のために降伏の決断が遅れたことを問題にするのはいいが、「原爆投下要請」論は、話の次元がまるで違う。現実議論が妄想議論になっている。
結論を言っておく。「反原発」を「商売」に結びつけているような人物は、商売のために何でも言うと思っておけばいい。
(以下引用)
鬼畜・湯田米、
◆http://www.asyura2.com/13/warb11/msg/489.html
投稿者: 金剛夜叉 日時: 2013 年 8 月 11 日 6p4GTwa7i4pjA
◎日本人は知らない原爆投下の真実
2011年8月6日、広島に原爆が投下されて66年が経過した。
広島・長崎の悲劇は繰り返されてはならない。
一瞬にして数十万の命を奪い、また生き残った人達もその後
凄惨な人生を送ることとなった行為は正当化されるものではない。
「繰り返されてはならない」であって「繰り返してはならない」ではない。
日本人の発言としては「繰り返されてはならない」が適切であると思うが
いかがだろうか。
戦争をおこさない、あるいは参戦しない、ということに関しては
「繰り返してはならない」という強い決意に同意だ。
しかしながら広島・長崎の被爆は、
日本が第二次世界大戦に参戦したから引き起こされた悲劇ではない。
参戦したから原爆を落とされたという因果応報的な自虐史観はいかがなものかと思う。
日本には元々第二次世界大戦を戦い抜く力はなく早く終戦させたかった。
戦争を終結させるために原爆投下は必要ではなかったことは明らかだった。
終戦後、GHQ占領の元で アメリカのためだけの
資本主義、民主主義教育体制が構築され 日本人は自虐史観を持つよう洗脳されてきた。
勝てば官軍、負ければ賊軍。
勝ったアメリカが正で、負けた日本は悪なのか?
欧米諸国の侵略・略奪植民地主義から日本やアジア諸国を守ろうとし
命を落としていった先祖達は悪で、原爆を落としたアメリカが正義なのか!
アメリカに押し付けられた価値観ではなく、
日本人は自らの文化、歴史に誇りを持って良いと思う。
今、世界で戦争や紛争が起こると「人道的」という言葉がよく使われる。
「人道的」とは人が人としてどうあるべきかを問う言葉だと思う。
人が人であるならば、「人道的」という概念は太古の昔から変わっていないはずだが、
どうやらこの言葉は欧米諸国の都合によって使い分けられているようだ。
日本人はもちろん人間なのだが、欧米の一部のものたちはそうは思っていない。
人間以下の動物と思っているわけだから、
人道的という概念も日本人に対しては適用されないというわけだ。
アメリカは自国民に対しプルトニウムを投与するという人体実験を
国家プロジェクトとして行っていた国である。
人間以下の日本人を原爆の実験台にすることに何のためらいもなかったのだ。
最新の調査によると、アメリカ政府は1943年5月という早い時点で
「対日投下」を決定し、
原爆使用を来たるべき戦後の原子力開発競争において、
アメリカがとりわけソ連に対していかに優位を確保していくかを中心に
議論していたことが判明している。
大戦中、アメリカとソ連は同じ陣営に属してはいたが、
戦後の世界再建に向けてにらみ合っていた。
ともに増大する軍事的脅威に危機感を感じ取っていた。
ソ連はヨーロッパ戦線でベルリンを陥落し、東ヨーロッパの大部分を手中に収めるにまで
至っており、アメリカと対等の席につくはずであった。
ところが、原子爆弾という切り札によってソ連の優位は崩れ、
アメリカに交渉のイニシアティブを握られてしまったのである。
原子爆弾は「対ソ外交」を有利に運ぶ上で、効果的な材料だったのである。
「マンハッタン計画」に携わったユダヤ人科学者の中で、
もっとも反日強硬派だったのはフォン・ノイマンだろう。
彼は日本人を蔑視し、京都を原爆の最初の血祭りにあげるべきだと主張。
京都が日本国民にとって深い文化的意義をもっていたというまさにその理由によって、
京都の破壊を求めていたのである。
しかし、ヘンリー・スチムソン陸軍長官の反対によって、京都は原爆のターゲットから外された。
彼は、京都の代わりに長崎の追加を指示したのである(1945年7月22日)。
一般に、この時にスチムソンが京都を原爆のターゲットから外した理由として、
「スチムソンは京都が歴史のある都市であることを理解していたから」という
“美談”で語られる場合があるが、だまされてはいけない。
この“美談”は、戦後、GHQが お涙頂戴好きの日本人を洗脳する為に、
意図的に流したニセ情報である。
アメリカ軍部の一部は京都を原爆投下目標とすることを諦めず、空襲を実施しなかった。
原爆投下後に原爆の影響を正確に把握するため、空襲が禁止されていたのである。
京都が最後まで空襲されなかったのは、原爆投下の前に日本が降伏したからにすぎない。
スチムソン以外にも、「京都を戦果から救った恩人」と言われるアメリカ人が何人かいるが、
すべて何の根拠もない流言に過ぎないのだ。
詳しくは吉田守男著『日本の古都はなぜ空襲を免れたか』(朝日文庫)を読んで欲しい。
当時のアメリカ政府は、日本の文化遺産を根こそぎ破壊することに、
なんのためらいもなかったのである。
ところで、「マンハッタン計画」をスタートさせたフランクリン・ルーズベルト大統領は、
日本人を“劣等人種”として激しく差別していたことで知られている。
一般のアメリカ人の間にも、日本人に対する人種差別意識が蔓延していた。
当時のアメリカの雑誌にはこう書かれていた。
「アメリカ人はドイツ人を憎むことを学ばなければならないが、
日本人に対しては憎しみが自然と湧いてくる。
これはかつてインディアンたちと戦ったときと同様に自然なものだ。」
「普通の日本人は知性が低く、無知である。たぶん人間なのだろうが、
人間であることを示すような点はどこにもない。」
当時、トマス・ブレーミー将軍も、こう演説していた。
「諸君らが闘っているのは奇妙な人種である。人間と猿の中間にあると言っていい。
文明存続のために我々は最後まで戦いぬかねばならない。
日本人を根絶しなければならない!」
ところで、「強制収容所」といえば、真っ先にナチスを思い浮かべる人は多いと思うが、
第二次世界大戦中、自由と民主主義の国、アメリカ合衆国にも「強制収容所」があった。
それも日本人と日系人専用のもので、約12万人もの民間人が
財産と市民権を奪われて、カリフォルニア州からルイジアナ州までに広がる
10数ヶ所の強制収容所に収容されたのである。
このアメリカの日系人に対する強制収容政策の裏には、
白人の有色人種に対する人種的偏見や差別意識があったことは明らかである。
(この時期、同じ敵国であったドイツ系・イタリア系のアメリカ人は
「お構いなし」の状態だった)。
この日系人強制収容政策の最高責任者は、前出のヘンリー・スチムソン陸軍長官である。
彼は太平洋戦争と原爆を語る上で、非常に重要な人物だ。
彼は、セオドア・ルーズベルト大統領の時代に政権に入り、以後、1950年に死ぬまで、
7人のアメリカ大統領に仕えたことで知られている。
第二次世界大戦中は、「マンハッタン計画」の最高責任者を務め、
広島と長崎への原爆使用を決定した。
それ以前に、彼は、ロンドン海軍軍縮会議においてアメリカ代表団議長として、
また、フーバー政権の国務長官として、日本海軍力の制限のために中心的に働いた。
さらに、フランクリン・ルーズベルト政権においては、
経済封鎖によって日本を窮地に追い込み、真珠湾攻撃へと駆り立て、ついに、
アメリカを太平洋戦争に参加させた張本人である。
ルーズベルト大統領が急死すると、彼はトルーマン大統領の背後で、
実質的にアメリカの戦争を指揮した。(トルーマンはスチムソンを全面的に信頼した)。
戦争が終わると、スチムソンは、原爆投下に対する批判を抑えるために、
「原爆投下によって、戦争を早く終わらせ、100万人のアメリカ兵の生命が救われた」
と発言(1947年2月)。
これが原爆使用正当化の定説となった。(「原爆神話」の誕生)。
一般のアメリカ人に、なぜアメリカが広島と長崎に原爆を落としたのかを尋ねれば、
たいていの人はこう答えるであろう。
「アメリカ軍の日本上陸により、多くの犠牲者を出すことを避けるためであった。
原爆を落とさなければもっと大きな悲劇を生んでいたであろう」と。
しかし、この言説を鵜呑みにしてはならない。
「当時、原爆投下以外にも日本への本土上陸を阻止する方法があったことは
識者の間ではすでに常識となっており、トルーマンも彼の顧問もそれを知っていた」
という事実があるからである。
これは、アメリカ原子力規制委員会の主任歴史家であるサミュエル・ウォーカーの言葉である。
1946年実施の戦略投爆調査の結論も、
「原爆が投下されなくても、またソ連が宣戦布告しなかったとしても、
さらには日本上陸を考えなくとも、1945年12月31日までには確実に、
そしておそらく1945年11月1日までには、日本は降伏していたであろう」として、
先の歴史家サミュエル・ウォーカーと同じ結論を示している。
1989年に公開された、陸軍省諜報部による1946年の最高機密調査では、
「日本の降伏に原爆はほとんど関係がなかった」という大胆な結論が出されている。
そして第二次世界大戦終結の決定的要因はソ連の宣戦布告であったとされ、
アメリカの大規模な日本侵略が行なわれることはなかったであろうと記されている。
つまり、「日本を降伏に追い込んだのは、原爆の使用ではなく、ソ連の参戦である
といっても過言ではない」というのが同調査の結論であった。
また、スタンフォード大学の歴史家バートン・バーンスタイン教授によれば、
統合参謀本部の諮問グループ、統合戦争計画委員会は当時、
ソ連が宣戦布告しない場合でも、九州への上陸だけで戦争を終結できるであろう
と結論づけていたのだ。
ヨーロッパのアメリカ軍司令官アイゼンハワー将軍は、
スチムソン陸軍長官から計画を報告された時のことをこう記している。
「彼の報告を聞いているうちに、暗い気持ちになった。
私は彼に深い不安を伝えた。まず、日本はすでに敗北しており、
原爆は全く必要ないということ、次にアメリカ人の命を救う手段として、
もはや不要ともいえる兵器を使用することで
国際世論に衝撃を与えることは避けるべきだと伝えた。」
アイゼンハワーの見解は
「日本はできる限り体面を損なわない降伏の方法を模索している。
恐ろしい兵器で日本に打撃を与える必要はもはやない」というものであったのだ。
現在では、原爆は恐らく戦争を長引かせ、アメリカ兵の命を救うどころか、
奪ったと信じる歴史家もいる。
なぜなら、国務次官ジョセフ・グルーは、
1945年5月には降伏条件を変えるだけで戦争は終結すると大統領に進言しており、
また大統領は原爆が完成するまで明らかにそれを引き延ばしたからである。
タフツ大学の歴史家マーティン・シャーウィンは、
「トルーマン大統領がジョセフ・グルーの助言を受けていれば、
アメリカ兵、日本人の犠牲者の数は大幅に削減されたことであろう」と語っている。
スチムソン陸軍長官もまた後になって、
「歴史の中で、アメリカは降伏の条件を延期したことによって戦争を長引かせた」としている。
結局、アメリカ政府が日本に対して原爆を使用したのは、先に触れたように、
戦争を早期に終結させるためではなく、
戦後の対ソ外交を有利に運ぶ上で、効果的な材料だったためである。
アメリカ政府は1943年5月という早い時点で「対日投下」を決定し、
原爆使用を来たるべき戦後の原子力開発競争において、
アメリカがとりわけソ連に対していかに優位を確保していくかを中心に議論していたのだ。
大戦末期、米軍幹部の間では、原爆を投下しなくてもいずれ日本は力尽きる
という予想が大勢をしめていた。
しかし、トルーマン大統領は、ソ連の対日参戦で日本が降伏する前に、
原爆という圧倒的なインパクトのある兵器を投入することで、
日本にとどめを刺したのはソ連ではなく原爆、
というイメージを全世界に与えようとしたのだ。
「原爆ホロコースト」に重大な責任がある人物を挙げるなら、その筆頭は、
直接ゴーサインを出したトルーマン大統領だろう。
「原爆の誕生」自体は、当時の「原子物理学」発展の流れにおいて避けられなかったとしても、
原爆の「実戦使用」に関しては、
彼個人の「政治的な判断」で避けようと思えば避けられたのだ。
(原爆は作った人よりも使う人に問題があると思う)。
しかし彼は、原爆を使わずに戦争を終わらせるなどとは考えもしなかった。
彼は誕生したばかりの超兵器=原爆を使用したくてたまらなかった。
人間のいない荒野で爆発させるのではなく、人間が密集する大都市の上で爆発させて、
その破壊力を試してみたい気持ちに駆られていたのだ。
人体実験をしたかったのだ。
彼は日本から提示された降伏条件をはねつけ、日本への原爆投下を命じた。
しかも無警告で。2発も。
そうしたうえでその降伏条件を認めたのだった。
彼は自分の行動を正当化するために、
「原爆投下により100万のアメリカ兵の生命が救われた」とする
「原爆神話」を積極的に広めた張本人でもある。
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「原爆ホロコースト」の実態より
広島大学の名誉教授である芝田進午氏は、原爆の対日使用は「人体実験」だったとして、
1994年に次のように述べている。
「広島・長崎への原爆攻撃の目的は何だったのか。
1つには戦後世界でのアメリカの覇権確立である。
そしてもう1つは、原爆の効果を知るための無数の人間への『人体実験』である。
だからこそ、占領後にアメリカ軍が行なったことは、
第1に、原爆の惨状についての報道を禁止し、
『人体実験』についての情報を独占することだった。
第2に、史上前例のない火傷、放射能障害の治療方法を必死に工夫していた
広島・長崎の医者たちに治療方法の発表と交流を禁止するとともに、
死没被爆者のケロイドの皮膚や臓器や生存被爆者の
血液やカルテを没収することだった。
第3に、日本政府をして国際赤十字からの医薬品の支援申し出を拒否させることだった。
たしかに、『実験動物』を治療するのでは『実験』にならない。
そこでアメリカ軍は全力を尽くして被爆治療を妨害したのである。
第4に、被爆者を『治療』せず『実験動物』のように観察する
ABCC(原爆障害調査委員会と訳されたアメリカ軍施設)を
広島・長崎に設置することであった。
加害者が被害者を観察するというその目的自体が
被爆者への人権蹂躙ではなかったか。」
広島で女学生(14歳)のときに原爆にあい、現在も原爆後遺症で苦しむ詩人の橋爪文さんは、
「ABCC」(原爆傷害調査委員会と訳されたアメリカ軍施設)について、
次のような恐ろしい事実を述べている。
まさにアメリカがやったことは、「人体実験」だったといえよう。
「私は広島の生き残りのひとりです。 〈中略〉 ここで、ひとつ触れたいことは
『ABCC』についてです。これは日本でもほとんど知らされていないことですが、
戦後広島に進駐してきたアメリカは、すぐに、死の街広島を一望のもとに見下ろす
丘の上に『原爆傷害調査委員会』(通称ABCC)を設置して
放射能の影響調査に乗り出しました。
そして地を這って生きている私たち生存者を連行し、私たちの身体からなけなしの血液を採り、
傷やケロイドの写真、成長期の子どもたちの乳房や体毛の発育状態、また、
被爆者が死亡するとその臓器の摘出など、さまざまな調査、記録を行ないました。
その際私たちは人間としてではなく、単なる調査研究用の物体として扱われました。
治療は全く受けませんでした。そればかりでなく、アメリカは
それら調査、記録を独占するために、外部からの広島、長崎への入市を禁止し、
国際的支援も妨害し、一切の原爆報道を禁止しました。
日本政府もそれに協力しました。
こうして私たちは内外から隔離された状態の下で、何の援護も受けず放置され、
放射能被害の実験対象として調査、監視、記録をされたのでした。
しかもそれは戦争が終わった後で行なわれた事実なのです。
私たちは焼け跡の草をむしり、雨水を飲んで飢えをしのぎ、
傷は自然治癒にまかせるほかありませんでした。
あれから50年、『ABCC』は現在、日米共同の『放射線影響研究所』となっていますが、
私たちはいまも追跡調査をされています。
このように原爆は人体実験であり、戦後のアメリカの利を確立するための暴挙だった
にもかかわらず、原爆投下によって大戦が終結し、
米日の多くの生命が救われたという大義名分にすりかえられました。
このことによって核兵器の判断に大きな過ちが生じたと私は思っています。」
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「原爆ホロコースト」の実態より
アメリカは人口の多い全国の64都市を戦略爆撃していることも忘れてはならない。
東京大空襲では一夜にして10万人以上の民間人が焼き殺された。
広島・長崎は戦略爆撃、無差別空襲の極みとも言えよう。
日本人はとてつもなく徹底的に、、、虐殺された。
これを戦争犯罪と言わずして何と言うべきか。
全ての犠牲者の御霊が安らかに眠らむことを願います。
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ユダ米は鬼畜、仇敵。
日米安保条約廃棄通告を! 悪魔との悪縁切りを!
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