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三島由紀夫の市ヶ谷自衛隊乱入自決事件の思想的背景

三島由紀夫の政治思想というのは、彼の文章からは読み取るのが困難で、何度も読みかけては投げ出したものだが、昨日読んだ「 三島由紀夫 生きる意味を問う」という、三島由紀夫の文章の「アンソロジー」のような本に納められていた文章を読んで、少し理解できたような気がする。
それについて書こうと思っているが、その前に、彼の思想の読み取りを一層混迷させている「市ヶ谷自衛隊乱入と自決」の解釈から先に書いておく。
以下は三島の文章である。

「国家は力なくしては国家たりえない。国家は一つの国境の中において存立の基盤を持ち、その国境の確保と、自己が国家であることを証明する方法としては、その国家の領土の不可侵性と、主権の不可侵性のために力を保持せざるを得ない」
「まだ国際政治を支配しているのは姑息な力の法則であって、その法則の上では力を否定するものは、最終的にみずから国家を否定するほかはないのである。平和勢力と称されるものは、日本の国家観の曖昧模糊たる自信喪失をねらって、日本自身の国家否定と、暴力否定とを次第次第につなげようと意図している。そこで最終的に彼らが意図するものは、国家としての日本の崩壊と、無力化と、そこに浸透して共産政権を樹立することにほかならない。そして共産政権が樹立されたときにはどのような国家がはじまるかは自明のことである。」
「われわれ反革命の立場に立つ者は、ただちに国家権力、およびその武装集団である自衛隊の力を借り、あるいは警察の力を借りて革命勢力を弾圧し、自分はぬくぬくとプチ・ブルジョアの生活を守ろうとしているものであってはならない。」
「われわれは自分の中の少数者の誇りと、自信と、孤立感にめげないエリート意識を保持しなければならない。(中略)では、その少数者意識の行動の根拠は何であるか。それこそは天皇である。われわれは天皇ということをいうときには、むしろ国民が天皇を根拠にすることが反時代的であるというような時代思潮を知りつつ、まさにその時代思潮の故に天皇を支持するのである。なぜなら、われわれの考える天皇とは、いかなる政治権力の象徴でもなく、それは一つの鏡のように、日本の文化の全体性と連続性を映し出すものであり、このような全体性と連続性を映し出す天皇制を、終局的には破壊するような勢力に対しては、われわれの日本の文化伝統を賭けて闘わねばならないと信じているからである。」
「われわれは、自民党を守るために闘うのでもなければ、民主主義社会を守るために闘うのでもない。もちろん、われわれの考える文化的天皇制の政治的基礎としては、複数政党制による民主主義の政治形態が最適と信じるから、形としてはこのような民主主義政体を守るために行動するという形をとるだろうが、結局目標は天皇の護持であり、その天皇を終局的に否定するような政治勢力を、粉砕し、撃破し去ることでなければならない。」

(「反革命宣言」より)

私は要点の読み取りとか要約は苦手だが、以上の抜書きをさらに箇条書きにしたら、少しは理解しやすくなるかもしれない。

1)「われわれの考える天皇」とは、「日本の文化の全体性と連続性を映し出すもの」である。
2)共産勢力は「天皇を終局的に否定するような政治勢力」であるから、これを「粉砕」し、「撃破」しなければならない。
3)そのためには「国家権力、およびその武装集団である自衛隊の力を借り、あるいは警察の力を借りて革命集団を弾圧」するべきであり、「自分はぬくぬくとプチ・ブルジョアの生活を守ろうとしているものであってはならない」。


ということで、「反革命の前衛」としての「少数者・エリート」が三島らの「楯の会」であり、彼らが市ヶ谷自衛隊に乱入して自衛隊にクーデターを呼びかけたのだが、それが何に対するクーデターなのか、当の自衛隊員たちにはさっぱり分からず、嘲笑すら浴びたのはご存じのとおりだ。そもそも、クーデターとは「時の政権に対するクーデター」以外にはありえないのだから、それを呼びかけているわけではなく、ただ「(何かに対して)立ち上がれ」と言うだけの三島の演説が彼らに理解不可能だったのは当然だろう。当時ですら、自衛隊の仮想敵国はソ連や中国ではあっても、日本が共産主義者によって侵略される、という危機感を本気で持っていた自衛隊員がどれだけいたか、怪しいものである。
三島の思想の根底は、政治形態としての天皇制ではなく、【「日本文化の全体性と連続性を映し出す鏡」としての天皇が無ければ、日本文化は消滅する】、というものだから、それが市ヶ谷の自衛隊諸君にまったく伝わるはずもなかった、と言えるだろう。そんなのは普通の人々には「文化人の寝言」にすぎないのだから。だからこそ、三島自身も自分たちを「少数者・エリート」と規定していたのである。その少数者・エリートが「(凡人集団である)自衛隊員諸君、日本の文化防衛のために立ち上がれ」と呼びかけたのがあの市ヶ谷事件だった、と総括できるのではないだろうか。

そこに至るまでに、「小集団内の思想の自家中毒」というのが楯の会にはあって、それは連合赤軍事件とまったく同一だ、というのが私の見立てだが、どんな集団でも、思想の自家中毒は容易に起こりうる、と私は思っている。かつての共産党も、日本会議もその点では似たようなものではないか。ただ、共産党はかなり柔軟化しており、天皇に関しても昔とはだいぶ姿勢が変わってきている。まあ、右翼思想に染まっている人々は、それを擬態だと見做すかもしれないが。
なお、三島由紀夫が今生きていたら、彼は共産主義よりもグローバリズムを、すなわち、グローバリズム推進政党である自民党を敵だと考えたのではないかと思う。


念のために言っておくが、三島由紀夫の「文化的天皇制」という、天皇の規定はまったく正しいと私は思っている。しかし、三島由紀夫や楯の会の行動は、いわば「天皇への片思い」であり、当の天皇(昭和天皇)にはまったく通じていなかったと思う。
自分たちの作った幻想に恋焦がれて、最後には自殺した、というのが楯の会の顛末だったと言ったら、彼らを貶めているように聞こえるかもしれないが、文化的な意図による自殺というものは、藤村操以下、無数にあるだろうし、それは意義が無いわけではない。世間を驚かし、耳目を集めることで、自分の思想を伝えることは、「ぬくぬくとプチブルジョアの生活を守る」より有意義だ、というのもひとつの考え方である。


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