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なぜ他人と同調することだけが第一義なのか

ビジネスジャーナル記事にしては珍しくまともな記事である。いや、好記事だ。
こうした「学校漬け」の生活を送っている当人には分からなくても、外部から来た人間にはその異常さが分かるわけだ。
こうした異常さは日本社会のあちこちにあり、よく批判もされるが、いっこうに直る気配は無い。それが、「日本というシステム」を動かすのに最適だからだろう。しかし、そのために精神を病む人間は想像以上に多いと思われる。精神を病むなどと大げさなことを言わなくても、阿呆になることは確実であるwww


(以下引用)




放課後も夏休みも部活…日本の学校教育は絶望的?貴重な10代の全生活が拘束される危険さ
 
 


 8月からオーストラリア人の交換留学生を自宅で預かっている。彼女は日本の高校に通っている。学校での様子を聞く中で、この国の教育にあり方についてあらためて考えさせられてしまった。


●学校以外の生活がない


 夏休みが終わってから、学校では文化祭、体育祭という大きなイベントが続く。彼女も夏休み中から、部活での発表やクラスの出し物の練習のために学校に行っていた。2学期になってからは、放課後は連日練習らしい。


 それに対して、彼女は言った。


「文化祭の練習が終わったと思ったら、今度は体育祭の練習。しかも、同じようなことを何度も何度も練習をする。なんで日本人はこんなに練習をするの? 私はもっとほかのこともやりたいから、早く帰ってきたいのに」


 確かに日本の学校は各イベントの準備にやたらと時間をかける。そして、それらに参加しないことは雰囲気が許さない。参加しなければ仲間外れにされるか、少なくとも話題には加われなくなる。村の行事にかかわり続けなければ村八分にされるようなものだ。


 彼女はさらにこうも言った。


「それに加えて毎日部活なんて、信じられない。みんなの生活はどこにあるの?」


 確かに、同じく高校生の娘は、夏休みは毎日のように部活の練習があった。おかげで、家族旅行にも行けずじまいだった。もっとも多くのことを吸収するはずの10代後半の貴重な夏休みがほとんど部活だけというのは、時間の過ごし方としてはあまりにももったいない。


 留学生の彼女は、日本文化に興味があり、いろいろなところに行って、いろいろな経験をしたいと思って日本にやってきた。だから、あえて練習の少ない文化部に入っている。学校に必要以上に時間を取られないようにするためだ。


 彼女は本当はすごいスポーツウーマンで、ネットボールというオーストラリアではポピュラーな球技をやっている。しかし、それも学校外のクラブでだ。彼女が住んでいる地域では、ほとんどの子が放課後は学校外の活動に参加しているという。学校はあくまでも生活の一部に過ぎないのだ。


© Business Journal 提供

 それに比べて、日本の中高生は学校が生活のほとんどすべてになっている。学校に拘束されていると言ってもいい。結果的に、子供は狭いコミュニティの中だけで貴重な年代を過ごすことになり、人間関係も視野も広がらない。


 村社会の発想がいまだに脈々と流れているのか、日本人は狭いコミュニティに帰属し、帰属させるのが好きなようだ。社会に出てからも、朝から晩まで会社で過ごし、夜は会社の上司や同僚と飲んで帰り、帰るところは会社が用意した社宅だ。下手をすると、休日も上司とのゴルフということになる。


 狭い世界でしか生きていないから、ビジネスパーソンとしての市場価値も上がらない。定年になった途端にやることがなくなり、会社以外の交友関係がまったくないことに気づいて愕然とするのである。


●日本のテストは簡単


 もうひとつ考えさせられたのが、留学生の彼女が「日本の授業はオモシロイ」と言ったことだ。この「オモシロイ」は「変だ」という意味である。彼女が学校の先生の口調をまねして見せた。


「ハイ、ここ覚えて。ハイ、ここも覚えて。テストに出まーす」


 彼女は笑いながらおどけて見せたが、こちらは笑えなかった。


 彼女はこうも言った。


「日本のテストは簡単ね。全部、空欄に言葉を入れるだけか、選択肢を選ぶ問題ばかり。日本の高校生は論文は書かないの? オーストラリアではテストは論文ばかり。本を何冊も読まないとできない宿題も毎日のように出される。日本のように部活、部活の生活なんかしてたら寝る時間なくなるね」


 要するに、日本の教育は、言われたことを忠実に再現するよう徹底的にトレーニングする教育なのだ。これではワーカーとしては優秀な人材が輩出できても、優秀なリーダーを生み出すことはできない。イノベーションを起こす人材の育成など絶望的だ。


 誰かが考えたものを誰よりも安く高品質につくる“世界の工場”としての役割をとっくの昔に終えた日本は、教育のあり方に関して大きな岐路に立たされている。


 そういえば、その昔、私が公認会計士試験の合格体験記を依頼されたとき、「電卓早叩き競争のような現在の公認会計士試験のあり方は、時代錯誤も甚だしい」と書いた。あれから20年以上たった今、多少の制度改正はあったものの、いまだに電卓を叩かせている。ほとんどすべての企業がシステムによって経理業務を行っているのにだ。


 だから、社会の現実を何も知らない若い会計士の中には、何十行もある帳票の数字を目にも留まらぬ速さで電卓を叩き、「合計、合ってます!」と得意気に言ったりする者まで出てくるのだ。その帳票が、電卓よりもはるかに信頼性の高い高度なシステムから出力されたものだとも知らずに。


 時代にミスマッチな教育は、時代にミスマッチな人材しかつくり出さない。オーストラリアからの留学生が抱いた日本の学校生活に対する素朴な疑問は、日本の教育のあり方、そして日本の学校生活のあり方に対する重大な問題提起と受け止めなければならないだろう。
(文=金子智朗/公認会計士、ブライトワイズコンサルティング代表)








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