「世に倦む日々」記事の一部だが、この部分が特に印象深いというか、ここにある「予言」は現実化する可能性が高く、その後半は私も考えていなかった悲喜劇(ここでは喜劇は「喜ばしい結末」を持つドラマの意)を示していて興味深い。だが、それは「日本の悲劇」を前提とした喜劇なのである。
(以下引用)
結局、この国は、長い間、(1)9条の非武装中立の平和主義と、(2)日米安全保障条約の立場と、二つの間で葛藤相克を続けてきた。二つの矛盾する国是を持ち、不断に鬩ぎ合ってきたのである。国の平和を守るためには何より対話の外交が重要で、友好と協調と互恵の関係構築だとする思想と、否、平和を守るためには軍事力こそ必要で、武力優勢な国との同盟強化こそが得策だとする思想と、二つが刺を立てて衝突してきたのだ。後者は常に我こそがリアリズムだと威張り、前者をお花畑の空想的理想主義だと罵ってきた。
さて、実は、リアリズムなら私も負けない。中国との戦争は5年以内に起こり、10年後には終わっていると直観する。それくらいの時間軸で予想している。9条改憲のタイミングがどうあれ、アメリカは必ず台湾を口実にして戦争を始め、日本を中国との全面戦争に仕向ける。戦争が回避できれば、それは神の奇跡だ。今、日本の9割くらいが、時間軸はともかく、中国との戦争は必至で確実と想定し、ほとんど前提しているのではないか。マスコミの論調はそうであり、抗う声はなく、日本人全体がそのコンコースを歩いている。列の進行から逃げられない。
この将来の災難については、残念ながら、平均寿命や健康寿命よりも先に来る。中国との戦争を実人生で経験せざるを得ないと覚悟している。戦火に巻き込まれて命を失うか、見終わった老人として果てるか、いずれかだろうと観念している。結局のところ、日本は9条を持っていたけれど、最後は戦争してしまいました、平和を守ることはできませんでしたと、そういう結論になるだろうと悲観する。しかし、それは9条の責任ではない。平和憲法に問題があったわけではない。日本人が9条を守ろうとせず、9条の原則で国家の外交と安全保障の政策を方向づけなかった所為だ。逸脱したからだ。
現在の日本は、すでにとっくに憲法9条が改訂された後の現実になっている。日本国憲法は生きておらず、殺されてしまっている。死文同然になった憲法があり、それが明文で書き変えられる間際にある。教育基本法や労働基準法の外濠が埋められた後、遂に本丸が炎上・崩壊する段階に来た。その最期は、上皇や上皇后の日本国の終焉でもある。最早、地上に日本人らしい日本人はおらず、司馬遼太郎が28年前に予言したとおりの、蛆虫が這う列島の地上になった。平和憲法は日本国と共に劇的な最期を遂げる。戦争によって燃え果てる。そのようにパセティックに予想する。
だが、9条は生き続けるだろうと思う。第三次世界大戦を経た世界の人々が、9条平和主義を自国の憲法に導入するだろう。日本人ではなく、別の国の人々が、この理想の追求を始め、その地平を広げて行くに違いない。武力放棄の安全保障を虚妄だとせず、夢想だとせず、それこそ真の平和実現の理念だと認め、9条を選択することになるだろう。100年、200年と、9条の理想にチャレンジする人類史を歩むだろう。第三次世界大戦後に主役になる国々が、9条を受け継いで実践に出るだろう。9条は不滅であり、普遍的価値観となる。
(以下引用)
結局、この国は、長い間、(1)9条の非武装中立の平和主義と、(2)日米安全保障条約の立場と、二つの間で葛藤相克を続けてきた。二つの矛盾する国是を持ち、不断に鬩ぎ合ってきたのである。国の平和を守るためには何より対話の外交が重要で、友好と協調と互恵の関係構築だとする思想と、否、平和を守るためには軍事力こそ必要で、武力優勢な国との同盟強化こそが得策だとする思想と、二つが刺を立てて衝突してきたのだ。後者は常に我こそがリアリズムだと威張り、前者をお花畑の空想的理想主義だと罵ってきた。
さて、実は、リアリズムなら私も負けない。中国との戦争は5年以内に起こり、10年後には終わっていると直観する。それくらいの時間軸で予想している。9条改憲のタイミングがどうあれ、アメリカは必ず台湾を口実にして戦争を始め、日本を中国との全面戦争に仕向ける。戦争が回避できれば、それは神の奇跡だ。今、日本の9割くらいが、時間軸はともかく、中国との戦争は必至で確実と想定し、ほとんど前提しているのではないか。マスコミの論調はそうであり、抗う声はなく、日本人全体がそのコンコースを歩いている。列の進行から逃げられない。
この将来の災難については、残念ながら、平均寿命や健康寿命よりも先に来る。中国との戦争を実人生で経験せざるを得ないと覚悟している。戦火に巻き込まれて命を失うか、見終わった老人として果てるか、いずれかだろうと観念している。結局のところ、日本は9条を持っていたけれど、最後は戦争してしまいました、平和を守ることはできませんでしたと、そういう結論になるだろうと悲観する。しかし、それは9条の責任ではない。平和憲法に問題があったわけではない。日本人が9条を守ろうとせず、9条の原則で国家の外交と安全保障の政策を方向づけなかった所為だ。逸脱したからだ。
現在の日本は、すでにとっくに憲法9条が改訂された後の現実になっている。日本国憲法は生きておらず、殺されてしまっている。死文同然になった憲法があり、それが明文で書き変えられる間際にある。教育基本法や労働基準法の外濠が埋められた後、遂に本丸が炎上・崩壊する段階に来た。その最期は、上皇や上皇后の日本国の終焉でもある。最早、地上に日本人らしい日本人はおらず、司馬遼太郎が28年前に予言したとおりの、蛆虫が這う列島の地上になった。平和憲法は日本国と共に劇的な最期を遂げる。戦争によって燃え果てる。そのようにパセティックに予想する。
だが、9条は生き続けるだろうと思う。第三次世界大戦を経た世界の人々が、9条平和主義を自国の憲法に導入するだろう。日本人ではなく、別の国の人々が、この理想の追求を始め、その地平を広げて行くに違いない。武力放棄の安全保障を虚妄だとせず、夢想だとせず、それこそ真の平和実現の理念だと認め、9条を選択することになるだろう。100年、200年と、9条の理想にチャレンジする人類史を歩むだろう。第三次世界大戦後に主役になる国々が、9条を受け継いで実践に出るだろう。9条は不滅であり、普遍的価値観となる。
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