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「非常時」はゆるやかに日常とすり変わっていく

「シジフォス」というブログに転載されていた記事の孫引き転載である。
中島京子という作家が直木賞を取ったことは知っていたが、最近の作家にはまったく興味がない(漫画家には興味があるが)ので、作品を読もうとは思わなかった。しかし、この文章を読むと、作家としてというより、「人間として」実にまともで賢明な人のようだ。
下の記事は、「非常時」がゆるやかに日常の中に滑り込んできて、当たり前の日常と同化していく様を見事に示している。そして、多くの人が言うように、今は再び「戦前」になろうとしているのである。まったく戦争の必要性の無い、平和なこの日本が「戦前」だ、と言うと頭がおかしいと言う人も多いだろう。しかし、戦争は国民の意志で起こされるものではない。経済界の一部と政治指導者の意志で起こされるものであり、戦争の「理由」など、どうとでもでっち上げられるものだ。そして、マスコミがそのでっち上げに協力し、全国民的な狂気が形成されていく。
「霜を踏みて堅氷至る」とは、そうした事態への警告でもあるのだ。


(以下引用)



>(寄稿)「戦前」という時代 作家・中島京子(朝日新聞 2014年8月8日)

 昨年のいまごろ私は、準備中の短編小説のために、戦後まもないころの出版物をあれこれ調べていて、プロレタリア作家・徳永直(すなお)の「追憶」という文章に出くわした。「文藝春秋」1946年11月号に掲載されたその随筆は、敗戦直後に書かれたにも拘(かかわ)らず、なんと、関東大震災時の朝鮮人虐殺を書いたものだった。
 「朝鮮人が火をつけた」に始まり、「“てき”が一人一つずつ爆弾を抱えて向かってくるから応戦せよ」に至る、震災当日から翌日、翌々日と膨れ上がっていくデマの実態と、それを真に受ける人々の行動が詳細に描かれる。同時に、「しゃかいしゅぎしゃ」だった徳永が、身に迫る危険を感じていかに怖かったかも書かれている。実際、このときに「亀戸事件」も「大杉栄一家惨殺」も起こるので、徳永は戒厳令下で行われ始めた排除の空気をその肌に感じて、東京の街を逃げ惑う。
 1923年が関東大震災の年、2年後に「治安維持法」が成立、その悪名高い法律は、3年後の改定を経て、戦争へとなだれ込んでいく昭和の時代の思想弾圧に猛威を振るった。太平洋戦争に突入する1941年には、さらに厳罰主義を徹底する全面的な改定がなされ、戦時の言論は見事に封殺される。敗戦で自由が保障されるまで、徳永は書こうにも書けなかった。「戦争中にくらべれば多少は検閲がらくであつた昭和の初期でも、伏字くらいですむ性質とも思へなかつたし、昭和七・八年以後となると、書いてしまつておくことさへいざといふ場合が考へられて怖い気がしてゐた」。1923年から1945年までは、徳永の中でひとつながりだ。
 私が随筆「追憶」を見つけて間もないころに、「特定秘密保護法案」に対するパブリックコメント募集がひっそりと行われ、あっという間に締め切られた。それでも9万件ものコメントが寄せられ、その8割近くが法案に否定的だったにもかかわらず、問題の多いこの法案は、年末に強行採決され、国会を通過した。
 あれ以来、日本史年表を見るとどうしても、「関東大震災」と「東日本大震災」を、「治安維持法」と「特定秘密保護法」を引き比べてしまう。いまは昭和史で言うと、どのへんにいるのかと、つい考えてしまう。「関東」と「東日本」が違うように、「特定秘密保護法」は「治安維持法」ではないのだから、そんなに心配することはない、というような楽観的な気持ちにはなかなかなれない。7月に閣議決定で憲法解釈の変更がなされ、行使できるとされてしまった「集団的自衛権」が、「特定秘密保護法」施行下で使われたら、日本は歯止めのない武力行使の時代に突入することが、理論上ありえることになる。
 しかし、私は政治家でも法律家でもないので、法律の話はこれくらいにしようと思う。私の危機感、私自身が皮膚感覚で感じ取っている怖さは、法律や政治の動きもさることながら、少し別のところからやってきている。
     ■     ■
 「小さいおうち」という小説は、今年映画になって公開もされた、私の代表作だ。昭和10年、東京郊外に小さな家が建てられ、核家族の一家がそこで暮らす日々を、当時女中として雇われていた女性が晩年になって綴(つづ)る、というのがメインのストーリーになっている。
 これを書こうと思った理由は、現実社会に警鐘を鳴らそうなどという大それた気持ちではなくて、ただ単純に、自分自身の興味と関心のためだった。私は、政治家や軍人、官僚など、歴史を動かす決断をした人たちではなく、一般の人々にとって、あの時代はどういう時代だったのか、なぜ戦争に向かったのか、知りたいと思ったのだ。
 当時の記録に触れると、文化的には円熟期であり、都会の市民層には教養もあり、分別もあり、平和主義的な傾向すらあったように見える。しかし、歴史の教科書が教えるように、軍国主義が力を持ち、他国を侵略し、おびただしい犠牲者を出した時代だ。私はその、明るくて文化的な時代と、暗くて恐ろしい残酷な時代がどう共存していたのか、あるいはどこで反転したのか、知りたいと思った。
 そこで私は当時書かれた小説、映画、雑誌、新聞、当時の人々の日記などを読んだ。のちになって書かれたものは、戦後的な価値観が入っているので、できるだけ、当時の考え方、当時の価値観がわかるものを調べた。すると、だんだんわかってきた。そこには、恋愛も、親子の情も、友情も美しい風景も音楽も美術も文学も、すべてのものがあった。いまを生きる私たちによく似た人たちが、毎日を丁寧に生きる暮らしがあった。私は当時の人々に強い共感を覚えた。
 けれども一方で、そこからは、人々の無知と無関心、批判力のなさ、一方的な宣伝に簡単に騙(だま)されてしまう主体性のなさも、浮かび上がってきた。当時の人々に共感を覚えただけに、この事実はショックだった。豊かな都市文化を享受する人たちにとって、戦争は遠い何処(どこ)かで行われている他人事のようだった。少なくとも、始まった当初は。それどころか、盧溝橋で戦火が上がり日中戦争が始まると、東京は好景気に沸いてしまう。都心ではデパートが連日の大賑(にぎ)わい。調子に乗って、外地の兵士に送るための「慰問袋」を売ったりする。おしゃれな奥様たちは、「じゃ、3円のを送っといて頂戴(ちょうだい)」なんて、デパートから戦地へ「直送」してもらっていたようだ。これは前線の兵士たちには不評で、せめて詰め直して自分で送るくらいのデリカシーがないものか、と思っていたらしい。つまり、それほどに、戦闘の事実は市井の人々から遠かった。これは1939年の「朝日新聞」の記事から読み取れる。盧溝橋事件からは2年が経過している。しかし、この後、戦況は願ったような展開を見せず、煮詰まり、泥沼になってきて、それを打開するためと言って、さらに2年後に日本は太平洋戦争を始める。また勝って景気がよくなるのだと人々は期待する。しかしそうはならない。坂を転げ落ちるように敗戦までの日々が流れる。
     ■     ■
 人々の無関心を一方的に責めるわけにはいかない。戦争が始まれば、情報は隠され、統制され、一般市民の耳には入らなくなった。それこそ「秘密保護法」のような法律が機能した。怖いのは、市井の人々が、毒にちょっとずつ慣らされるように、思想統制や言論弾圧にも慣れていってしまったことだ。現代の視点で見れば、さすがにどんどんどんどんおかしくなっていっているとわかる状況も、人々は受け入れていく。当時流行していた言葉「非常時」は、日常の中にすんなりと同居していってしまう。
 昨年あたりから、私はいろいろな人に、「『小さいおうち』の時代と(今の空気が)似てきましたね」と言われるようになった。出版された2010年よりも、2014年のいまのほうが、残念ながら現実と呼応する部分が多い。
 いちばん心配なのは、現実の日本の人々を支配する無関心だ。戦前とは違い、戦後の日本は民主主義国家なのだから、きちんと情報が伝えられる中で、主権者である国民がまともな選択をすれば、世の中はそんなにはおかしな方向にいかないはずだ。それなのに、たいへんな数の主権者が、投票に行かず、選挙権を放棄している。そのことによって、あきらかに自分自身を苦しめることになる政策や法律が国会を通ってしまっても、結果的にそれを支持したことになると気づいていない。そうした人たちが、だんだんと日常に入り込んでくる非日常を、毒に身体を慣らすように受け入れてしまうかと思うとほんとうに怖い。
 「集団的自衛権」に関して言えば、これを「検討が十分に尽くされていない」と感じている人は、共同通信の世論調査結果で82%に上る。高い数字の中には、防衛政策云々(うんぬん)の前に、内閣が立憲主義を無視した暴挙に対する批判も含まれるだろう。こうした意識が有権者に芽生えたのには、報道も寄与したはずだ。「集団的自衛権」に関しては、どの報道機関もかなり力を入れて報道していた。国民のほとんどが、「よく検討されていない」と感じるくらいには、報道されたわけだ。逆説のようだが、きちんと報道されなかった事柄に対しては、人は「検討が十分でない」ことすら判断できない。
 日常の中に入り込んでくる戦争の予兆とは、人々の慢性的な無関心、報道の怠惰あるいは自粛、そして法整備などによる権力からの抑圧の三つが作用して、「見ざる・聞かざる・言わざる」の三猿状態が作られることに始まるのではないだろうか。その状態が準備されたところに本当に戦争がやってきたら、後戻りすることはほんとうに難しくなる。平和な日常は必ずしも戦争の非日常性と相反するものではなく、気味悪くも同居してしまえるのだと、歴史は教えている。
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 終戦直後の新聞を繰っていると、やたらと出てくるのが「一億総ざんげ」という言葉だ。戦争に負けたことを、戦死した兵士と天皇に向かって謝らなければならないらしいのだが、「一億」みんながやらなければならないという主張が政権担当者によってなされ、戦争を煽(あお)ったメディアが積極的に報じているところが、なんとも責任逃れくさくて受け入れがたい。とはいうものの、私たちが未来への選択を誤るようなことがあれば、そのときこそ、主権者である国民は、言い逃れできなくなるだろう。
 「自分が何をしようと、世の中が変わるわけじゃない」と思うのは、間違っている。8割の人が「憲法解釈変更による集団的自衛権行使容認」に懐疑的である事実は、少なくとも、前のめり一辺倒できた政府の姿勢を慎重にさせている。「カラーパープル」を書いたアフリカ系アメリカ人の作家アリス・ウォーカーの言葉を引くならば、「人々が自分たちの力を諦めてしまう最もよくある例は、力なんか持っていないと思い込むこと」なのだ。特別なことをする必要はない。いまより少し社会に関心を持って、次の選挙で自分の考えに近い候補者に投票すればいい。
 「小さいおうち」の時代の人々は、いまを生きる私たちとよく似ている。でも、戦前の日本は、民主主義国家ではなかった。日本国憲法を得る以前は、一般市民は主権者ではなかった。だいじなのは、関心を持つ状態をこそ「日常」化させることではないだろうか。
 日本国憲法第十二条には書いてある。「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない」
    *
 なかじまきょうこ 64年生まれ。出版社勤務、フリーライターを経て作家に。2010年、「小さいおうち」で第143回直木賞。著書に「かたづの!」(8月下旬刊行予定)など。

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