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真理は時の娘

世には「勝者の歴史」しか残らないのだから、歴史上の悪役のどこまでが事実かは分からない。「時の娘」のリチャード三世など、その代表で、彼に対する誹謗のほとんどは敵方の讒謗か、それに基づく後世の伝聞にしかすぎないらしい。まさに「真理(真実)は時の娘」である。これには「時の経過によって真実が表に現れる」と楽観的な解釈もできるが、むしろ、「真実とは、その時代によって異なるものだ」、つまり「真実」というもののあやふやさへの皮肉と見るのが適切だろう。「現代の『真実』」ほど怪しいものはない。911事件のような明白な詐欺事件が、既に歴史的事実として扱われているくらいである。

(以下引用)



リチャード3世英語Richard III1452年10月2日 - 1485年8月22日[1])は、ヨーク朝最後のイングランド王(在位:1483年 - 1485年)。薔薇戦争の最後を飾る王である。


エドワード3世の曾孫であるヨーク公リチャード・プランタジネットセシリー・ネヴィルの八男で、エドワード4世ラトランド伯エドムンドクラレンス公ジョージの弟。即位前はグロスター公に叙されていた(在位:1461年 - 1483年)。護国卿でもあった(在位:1483年)。


戦死した最後のイングランド王であるが、他に戦死した王は1066年ヘイスティングズの戦いで敗死したハロルド2世と、1199年に矢傷がもとで死亡したリチャード1世がいるのみである。1484年1月に王直属の機関として紋章院を創設したことでも知られる。旗印は白い猪、銘は“Loyaulté Me Lie”(ロワイオテ・ム・リ)で、意味は古フランス語で「忠誠がわれを縛る」。

生涯[編集]

幼くして父を失ったリチャードは、兄エドワードや母方の従兄にあたる実力者ウォリック伯リチャード・ネヴィルの庇護をうけて成長した。ウォリック伯の元で少年期を過ごし、騎士としての修業を積み、1461年に兄がエドワード4世としてイングランド王に即位するとグロスター公に叙位された。


政権内の争いから、1470年にエドワード4世がランカスター派に寝返ったウォリック伯によって追放されたとき、ウォリック伯の誘いを拒否して一貫してエドワード4世に忠誠を誓い、翌1471年の兄王の復位に貢献した。1472年ヘンリー6世の継嗣エドワード・オブ・ウェストミンスターの寡婦であったウォリック伯の娘アン・ネヴィルと結婚した。アンの姉イザベル・ネヴィルの寡夫であったリチャードの兄クラレンス公ジョージが1478年に処刑されると、リチャードは広大なウォリック伯領を独占相続して、名実ともに実力者としての地位を確立した。


その後、王妃エリザベス・ウッドヴィル一族が政権内で勢力を伸ばすと、これと対立するようになる。1483年にエドワード4世が病死するとその息子(リチャード自身にとっては甥)であるエドワード5世の摂政(護国卿)に就任。まもなくリヴァーズ伯アンソニー・ウッドヴィルらの王妃一派を捕らえて粛清し、協力者のヘイスティングス男爵ウィリアム・ヘイスティングスも処刑、さらにエドワード5世とその弟リチャード・オブ・シュルーズベリーロンドン塔に幽閉した。2人はそのまま消息不明になり、殺されたとみられる。3ヵ月後の同年6月26日、エドワード5世の正統性を否定した議会に推挙されて(エドワード4世とエリザベス・ウッドヴィルの結婚は無効、2人の間の子供は庶子とされた)、イングランド王リチャード3世として即位した。同年、支持者の一人ジョン・ハワードノーフォーク公位(ロンドン塔に幽閉された甥リチャードから剥奪された)を与える。


1483年10月、リチャード3世政権の樹立に貢献のあったバッキンガム公ヘンリー・スタッフォードが反乱を起こすとこれを鎮圧したが、反乱の噂は絶えず、政情は不安定なままに置かれた。1484年4月には一人息子のエドワード・オブ・ミドルハムが夭折し、1485年3月には王妃アン・ネヴィルも病死する。唯一の子供であったエドワードの死後、リチャード3世は一時、自身と王妃の甥であるクラレンス公の幼い遺児ウォリック伯エドワードを王位継承者に指名したが、王妃の死後にそれを取り消し、代わって別の甥(姉エリザベス・オブ・ヨーク (enの息子)であるリンカーン伯ジョン・ド・ラ・ポールを王位継承者に指名した。


1485年8月、ランカスター派のリッチモンド伯ヘンリー・テューダー(後のヘンリー7世)がフランスから侵入し、ボズワースの戦いで国王自ら軍を率いて決戦する。この戦いでリチャード3世は味方の裏切りに遭い、自ら斧を振るって奮戦したが戦死した。遺体は、当時の習慣に従って、丸裸にされ晒された。

死後[編集]

評価[編集]

2015年までリチャード3世の墓とされたレスター大聖堂のリチャード3世の墓碑。「1485年8月22日にボズワースにて殺害されたイングランドの王、リチャード3世」と刻まれている。
発掘されたリチャード3世の遺骨(2012年)

リチャード3世はウィリアム・シェイクスピアによって、ヨーク朝に変わって新たに興ったテューダー朝の敵役として稀代の奸物に描かれ、その人物像が後世に広く伝わった。


一方で、リチャード3世の悪名はテューダー朝によって着せられたものであるとして、汚名を雪ぎ「名誉回復」を図ろうとする「リカーディアン (Ricardian」と呼ばれる歴史愛好家たちもおり、欧米には彼らの交流団体も存在する。リチャード3世を兄(エドワード4世)思いで甥殺しなどしない正義感の強い人物として描くベストセラー小説も、ジョセフィン・テイ時の娘』(1951年)をはじめとして数多くある。1980年代以降には以下のような作品がある。

ただし、デヴィッド・スターキー英語版のように著名な歴史家が「甥殺しのあの悪人」と書くなど、評価はいまだ分かれている。2002年、BBCが発表した「100名の最も偉大な英国人」では82位に選出された。

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