本屋に行くと、本棚の大半が異世界転生漫画で呆れるのだが、これはアニメ化されるとそのアニメの原作漫画で本棚を全部埋めるという書店の方針によるもののようだ。その為に読みたい漫画が探せなくて困ることが多い。
それはともかく、漫画ではなく本(まあ漫画も本だが、活字主体の本だ)の世界でも「なろう小説(もともと「小説家になろう」というインターネットのサイトだったと思うが、要するに小説家志望のアマチュア作家の作品を掲載するサイトだろう。その小説を「なろう小説」と総称する。)で棚の大きなスペースが埋められ、その「なろう小説」の大半がまた「異世界物」なのである。
というのは、異世界物は自分が現に生きている現実世界の知識はほとんど不要で、すべて「異世界の事だから」で片づけられる便利さがあるからである。それは作る側の話だが、実は異世界物には大きな需要があるからこそこれだけ隆盛しているということもある。要するに一般庶民が漫画や小説に求める娯楽というのは、そういうものだ、ということだ。
これまで学校教科書に載っている幾つかの小説以外、小説を読んだ経験の無い人間にとって純文学など「何が言いたいのか分からん」だろうし、大衆文学ですら「読むのが面倒くさい」のである。
だが、「異世界物」はそういう層にも理解可能な、そしてその潜在的願望に応えるものなのである。それは「ここではないどこかへ」行きたい、そして今の人生とのつながりをすべて絶って、できればそこで生きたいという願望だ。仕事への不満、家庭への不満、自分自身のこれまでの人生への不満を解消するのが「異世界」なのだ。
ついでに言えば、同じ異世界物でも「異世界転移」と「異世界転生」は異なるが、異世界転移物の魁(さきがけ)はマーク・トゥエインの「アーサー王宮廷のコネチカットヤンキー」だと思う。そのマーク・トゥエインが晩年にひどい厭世的な人間になったのと、彼が「異世界転移」小説を書いたことには関連があると思う。通底するのは現実社会への嫌悪という感情だ。
某ブログからボードレールの詩を載せておく。
この人生は一の病院であり、そこでは各々の病人が、ただ絶えず寝台を代えたいと願っている。
ある者はせめて暖炉の前へ行きたいと思い、ある者は窓の傍へ行けば病気が治ると信じている。
私には、今私が居ない場所に於いて、私が常に幸福であるように思われる。従って移住の問題は、絶えず私が私の魂と討議している、問題の一つである。
「私の魂よ、答えてくれ、憐れな冷たい私の魂よ、リスボンヌに行って住めばどうであろう?
あそこはきっと暖かだから、お前も蜥蜴のように元気を恢復するだろう。あの街は水の滸りにあって、人のいうには、それはすっかり大理石で造られていて、そこの住人たちは、樹木をすっかり抜き棄ててしまうほど、植物を憎んでいるということだ。だからその、光線と鉱物と、それらを映す水とばかりで出来ている風景こそ、お前の趣味にも合うだろう!」
私の魂は答えない
「お前は運動するものを眺めながら休息するのが、それほど好きな性分だから、和蘭へ行ってあの至福の土地に住みたくはないか?美術館でその絵を見てさえ、屡々お前の感嘆したあの国では、恐らくお前の気分も紛れることだろう。林立するマストや家並の下に繋がれた船の好きなお前は、ロッテルダムをどう思う?」
私の魂は黙っている
「バタビアの方がお前の気に入るだろうか?あそこでは、熱帯地方の美と融合した、欧羅巴の精神が見られるだろうが。」
一言も答えない。ーー私の魂は死んだのだろうか?
「それではお前は、もはや苦悩の中でしか、楽しみを覚えないほどに鈍麻してしまったのか?もしそうなら、いっそそれでは、死の相似の国に向かって逃げ出そう・・・。憐れな魂よ!私がすべてを準備しよう。トルネオに旅立つべく、我らは行李を纏めよう。そしてなお遠くへ、バルチックの尖端へ赴こう、更になお遠くへ、出来るなら、人生から遠ざかって、我らは極地へ赴こう。
そこでは太陽が、斜めにのみ地上を掠め、緩慢な昼と夜との交替が、変化を減じて、虚無の半身なる単調を増している。そこで我らは、暗黒の永い浴みに涵ることができるだろう。そしてその時、我らを慰める北極光が、地獄の煙火の反映のような、その薔薇色の花束を、時々我らに贈るだろう!」
終いに私の魂が声を放ち、いみじくも私にむかってこう叫んだ、
「どこでもいい、どこでもいい・・・、ただ、この世界の外でさえあるならば!」
(『巴里の憂鬱』 ボードレール 三好達治訳 新潮文庫)
(以下引用)
それはともかく、漫画ではなく本(まあ漫画も本だが、活字主体の本だ)の世界でも「なろう小説(もともと「小説家になろう」というインターネットのサイトだったと思うが、要するに小説家志望のアマチュア作家の作品を掲載するサイトだろう。その小説を「なろう小説」と総称する。)で棚の大きなスペースが埋められ、その「なろう小説」の大半がまた「異世界物」なのである。
というのは、異世界物は自分が現に生きている現実世界の知識はほとんど不要で、すべて「異世界の事だから」で片づけられる便利さがあるからである。それは作る側の話だが、実は異世界物には大きな需要があるからこそこれだけ隆盛しているということもある。要するに一般庶民が漫画や小説に求める娯楽というのは、そういうものだ、ということだ。
これまで学校教科書に載っている幾つかの小説以外、小説を読んだ経験の無い人間にとって純文学など「何が言いたいのか分からん」だろうし、大衆文学ですら「読むのが面倒くさい」のである。
だが、「異世界物」はそういう層にも理解可能な、そしてその潜在的願望に応えるものなのである。それは「ここではないどこかへ」行きたい、そして今の人生とのつながりをすべて絶って、できればそこで生きたいという願望だ。仕事への不満、家庭への不満、自分自身のこれまでの人生への不満を解消するのが「異世界」なのだ。
ついでに言えば、同じ異世界物でも「異世界転移」と「異世界転生」は異なるが、異世界転移物の魁(さきがけ)はマーク・トゥエインの「アーサー王宮廷のコネチカットヤンキー」だと思う。そのマーク・トゥエインが晩年にひどい厭世的な人間になったのと、彼が「異世界転移」小説を書いたことには関連があると思う。通底するのは現実社会への嫌悪という感情だ。
某ブログからボードレールの詩を載せておく。
この人生は一の病院であり、そこでは各々の病人が、ただ絶えず寝台を代えたいと願っている。
ある者はせめて暖炉の前へ行きたいと思い、ある者は窓の傍へ行けば病気が治ると信じている。
私には、今私が居ない場所に於いて、私が常に幸福であるように思われる。従って移住の問題は、絶えず私が私の魂と討議している、問題の一つである。
「私の魂よ、答えてくれ、憐れな冷たい私の魂よ、リスボンヌに行って住めばどうであろう?
あそこはきっと暖かだから、お前も蜥蜴のように元気を恢復するだろう。あの街は水の滸りにあって、人のいうには、それはすっかり大理石で造られていて、そこの住人たちは、樹木をすっかり抜き棄ててしまうほど、植物を憎んでいるということだ。だからその、光線と鉱物と、それらを映す水とばかりで出来ている風景こそ、お前の趣味にも合うだろう!」
私の魂は答えない
「お前は運動するものを眺めながら休息するのが、それほど好きな性分だから、和蘭へ行ってあの至福の土地に住みたくはないか?美術館でその絵を見てさえ、屡々お前の感嘆したあの国では、恐らくお前の気分も紛れることだろう。林立するマストや家並の下に繋がれた船の好きなお前は、ロッテルダムをどう思う?」
私の魂は黙っている
「バタビアの方がお前の気に入るだろうか?あそこでは、熱帯地方の美と融合した、欧羅巴の精神が見られるだろうが。」
一言も答えない。ーー私の魂は死んだのだろうか?
「それではお前は、もはや苦悩の中でしか、楽しみを覚えないほどに鈍麻してしまったのか?もしそうなら、いっそそれでは、死の相似の国に向かって逃げ出そう・・・。憐れな魂よ!私がすべてを準備しよう。トルネオに旅立つべく、我らは行李を纏めよう。そしてなお遠くへ、バルチックの尖端へ赴こう、更になお遠くへ、出来るなら、人生から遠ざかって、我らは極地へ赴こう。
そこでは太陽が、斜めにのみ地上を掠め、緩慢な昼と夜との交替が、変化を減じて、虚無の半身なる単調を増している。そこで我らは、暗黒の永い浴みに涵ることができるだろう。そしてその時、我らを慰める北極光が、地獄の煙火の反映のような、その薔薇色の花束を、時々我らに贈るだろう!」
終いに私の魂が声を放ち、いみじくも私にむかってこう叫んだ、
「どこでもいい、どこでもいい・・・、ただ、この世界の外でさえあるならば!」
(『巴里の憂鬱』 ボードレール 三好達治訳 新潮文庫)
(以下引用)
人間歳喰うと変化を嫌うようになるらしいわ
せやから中年チーがハマるんやで
せやから中年チーがハマるんやで
>>7
編集者の知り合いが言うには面白いと思ったものが終わると似たようなものをさがして欲求を埋めようとするすらしいで
編集者の知り合いが言うには面白いと思ったものが終わると似たようなものをさがして欲求を埋めようとするすらしいで
>>7
いうて10代20代も大好きやん
いうて10代20代も大好きやん
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