(以下引用)
フロイトによるエスの用語の定式、(この自我に対する)エスの優越性は、現在まったく忘れられている。私はこのエスの確かな参照領域をモノ[la Chose ]と呼んでいる[…à FREUD en formant le terme de das Es. Cette primauté du Es est actuellement tout à fait oubliée. …c'est que ce Es …j'appelle une certaine zone référentielle, la Chose.] (Lacan, S7, 03 Février 1960) |
つまり無法の現実界、無道徳のエスの世界だーー、 |
私は考えている、現実界は法なきものと言わねばならないと。真の現実界は秩序の不在である。現実界は無秩序である[je crois que le Réel est, il faut bien le dire, sans loi. Le vrai Réel implique l'absence de loi. Le Réel n'a pas d'ordre]. (Lacan, S23, 13 Avril 1976) |
エスはまったく無道徳であり、自我は道徳的であるように努力する[Das Es ist ganz amoralisch, das Ich ist bemüht, moralisch zu sein](フロイト『自我とエス』第5章、1923年) |
現実界のモノとはもちろん母のことであって、つまりは母の名なる享楽、エスの欲動だ。 |
現実界のモノとはもちろん母のことであって、つまりは母の名なる享楽、エスの欲動だ。
という蚊居肢氏の言葉が正確なフロイトやラカン理解によるものかどうかは私は分からないが、とりあえず、「モノ」と「エス」について、あるいは「自我」と訳されている「Ich」について確認しておく。
「モノ」と訳されている「la Chose」は、「モノ」という訳語では大多数の人には意味不明だろうから、「実在物」と訳しておく。つまり、人間の精神が立脚する「現実世界」である。それをラカンは「エス(それ:後で説明する。下線をつける)の確かな参照領域」という、正確(精確)な定義をしているわけだ。精確なために、かえって分かりづらいわけである。「参照領域」という言葉がなぜ精確で、かつ分かりづらいかというと、人間の精神が現実世界に立脚するのは自明であるとほとんどの人は思っているからで、実は人間の精神は「精神内部で独自の運動をしている」のであり、現実世界は実はその「参照領域」でしかないという指摘がピンと来ないわけだ。
「自我」と訳されている「Ich」は、ドイツ語の一人称で「私」の意味であるが、フロイトはこれを「私の中の『真の私』」という意味で「自我」としている。この「自我」という訳語は日本のフロイト紹介者の苦心の産物だろう。しかも、人間の精神の中ではこの「自我」と「精神の他の領域、特にエス(英語の「it」に相当するドイツ語で、これをそのまま「エス」としたのは、「それ」と訳するとかえって意味不明になるからで、これも「精確さのためにかえって分かりにくくなっている」とも言える。)は、いわば「現実原則」とでも言うべき「野生の精神」で、これを「女性性」と見ているのが、蚊居肢氏の末尾の言葉
現実界のモノとはもちろん母のことであって、つまりは母の名なる享楽、エスの欲動だ。
だろう。ただ、「モノ」=「母」という等式は、「母」という言葉で「現実界の存在」すべてを包含させるという、非常に誤解を招く言い方だと思う。誰でも「母=女」で、男とは無関係と思うが、男の精神の中にもエスがあり、大きな働きをしているからだ。
私としては、フロイトの
エスはまったく無道徳であり、自我は道徳的であるように努力する
という言葉がまさに私が主張する「男性と女性における『愛と正義』の比重の差」を実に明確に示していると思う。しかし、それは女性が「現実的」であり、男が抽象的思考にとらわれがちだという話でもある。
ちなみに、蚊居肢氏は、女性原理(現実主義、享楽主義)が世界に蔓延し、男性原理(理想主義、規範主義)が衰退したことで世界は混乱し、悪化したという思想のようだが、まあ、それにも「一理はある」としても、問題はこれまで「悪しき規範」の下で苦しんでいた人たちがかなり存在することではないか。つまり、世界を精神分析すること自体が、単なる知的オナニーではないか、という気がするwww まあ、私の毎度毎度の妄想垂れ流し文章も大きく見れば同じだがww