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大久保利通のこと

私は西郷隆盛も大久保利通も好きなのだが、西郷は情に流されて判断を誤る傾向があり、冷徹な大久保のほうをより好ましく思っている。古今の政治家としては最高の人物だったと思う。
彼が死んだとき、私財がまったく無く、借金すらあったというエピソードが好きである。私財と借金は政府のため、他人のために使ったものであり、無私という点では西郷と大久保は双璧だろう。

(以下引用)

人物・逸話

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大久保の銅像(鹿児島市

仕事ぶり

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  • 金銭には潔白で私財を蓄えることをせず、それどころか必要だが予算のつかなかった公共事業には私財を投じてまで行い、国の借金を個人で埋めていた。そのために死後の財産が現金140円に対して8,000円もの借金が残り、所有財産も全て抵当に入っていたが[16]、大久保の志を知っていた債権者たちは借財の返済を遺族に求めなかった。政府は協議の結果、大久保が生前に鹿児島県庁に学校費として寄付した8,000円を回収し、さらに8,000円の募金を集めてこの1万6,000円で遺族を養うことにした。
  • 「わしの国(薩摩)のものは政治には役に立ちません、戦にはいいが」と語り、出身藩に関わらず能力が高い者を登用した。伊地知貞馨のようにこれまで親交を結んでいた者であっても、不正(琉球から賄賂を受け取った)が明らかになった場合は容赦なく切り捨て、公正無私に取り扱った[17]
  • 寡黙で他を圧倒する威厳を持ち、冷静な理論家でもあったため、面と向かって大久保に意見できる人は少なかった。「人斬り半次郎」の異名を持つ桐野利秋(中村半次郎)も大久保に対してまともに話ができず、大酒を飲んで酔っ払った上で意見しようとしても大久保に一瞥されただけで気迫に呑まれていた。
  • 大久保の部下だった河瀬秀治は、大久保没後の内務省で後任の内務卿・伊藤博文の部屋で西郷従道中井弘が盛んに夕べの宴会の話をしたり、用もないのに中居が出入りするようになるなどの例を挙げ、「すべてが奢侈に流れ堕落した」と嘆いている。
  • 今日でいう風光関係の問題にも関心があった。明治6年(1873年)に五代友厚浜寺公園へ案内された大久保は、県令・税所篤が園内の松を伐採して住宅地として開発しようとするのを知り、「音に聞く 高師の浜のはま松も 世のあだ波は のがれざりけり」と反対する歌を詠んだ[注釈 5]。税所はこの歌を知り開発計画を撤回した。なお、浜寺公園の入り口付近にこの時に詠んだ歌が、「惜松碑(せきしょうひ)」として顕彰されている。

技能

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畳を回すという技能を持っていた[18]薩長との会合の際、長州代表主催者、周布政之助を快く思っていなかった堀小太郎(後の伊地知貞馨)が言葉じりを捕らえ、嘲った。空気が非常に重くなったが、さらに堀は周布を嘲り続けた。怒った周布は「芸を見せる」と言い抜刀し踊り始めた。堀を斬ることを察した、長州藩の藩士が堀との間に入り抜刀して踊り止めようとし、空気に緊張感がましたその時、大久保は畳を一枚ひっぺがえし、畳を回すという芸を見せた。これで空気が弛緩し、ことなきを得た。これはのちの世で幕末の鴻門の会と呼ばれている。[要出典]

嗜好

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  • 家庭内では子煩悩で優しい父親だったという。出勤前のわずか10分か15分の間を、唯一の娘である芳子を抱き上げて慈しんだ。また大久保が馬車で自宅に帰ってくると、三男の大久保利武ら子どもたちが争って、玄関に出迎え靴を脱がせようとして、勢いあまって後ろに転がるのを見て笑って喜んでいた。平生は公務が忙しく、家族と夕食を摂ることもままならなかったが、土曜日は自らの妹たちも呼んで家族と夕食を摂るようにしていた。大久保はこの土曜日の家族との夕食を無上の楽しみにしていたという。
  • 趣味は囲碁。碁好きの島津久光に接近するために碁を学んだといわれるが、それ以前の嘉永元年(1848年)の日記に碁を三番打って負けたとの記述もある。また囲碁に関しては負けず嫌いで、負けたときは露骨に機嫌を悪くすることもあった。
    • 大隈重信
      • 「(碁に関しては)岩倉と大久保は両人ともなかなか上手であった。どちらかと云うと大久保の方が少し上手であった。ところが大久保は、激し易い人であったので、岩倉はその呼吸を知って居るから、対局中常に大久保を怒らせて勝ちを取った」[19]
      • 「道楽の少ない男で、碁が一番大好きであった。何処へ往くにもお高と云う女碁打(三段)を連れて歩いた。我輩の宅などへ遊びに来るにも、先づお高を先き案内に寄越すと云う風である。大久保は碁に負けると厭な顔をするけれども、決してその場では腹を立てない。併し家に帰ると家人や書生に当り散らしたそうだ。ナンでも碁に負けて帰ると、玄関から足音が違ったという評判であった」[20]
    • 本因坊秀栄 「大久保公の碁は珍しい品の好い碁であって、永年の間相手となったが、一度も手許の乱れたことはなかった」
    • 伊藤博文 「公の一番好きなのは碁じゃ。余程好きで能くやって居った。詩もチョイチョイあるが、詩人としては成功しない方だが、自分の志を云うだけのことは出来た」[21]
    • 牧野伸顕 「父は碁が非常に好きだった。あまり好きなので、体に障りはしないかと心配するものがあり、或る日松方さんが同志を代表して出掛けて行き、父に注意すると、『私に碁を止めろと言うのですか。私は碁が出来なければ死んでしまいます』と父が答えたので、勿論冗談ではあったが、死なれては困るというので、碁を止めさせる計画は沙汰止みになった。父は翌日があるので夜更しはしなかったが、少しでも暇があると碁を打っていた。気分転換の意味もあったと思う」[22]
  • ヘビースモーカーで、濃厚な指宿煙草(日本で初めて栽培されたたばこ)を愛用し、子供達が朝晩パイプを掃除しなければすぐに目詰まりするほどだった。また、朝用と夜用のパイプをそれぞれ分けて使っていた(そうしなければならないほど、年中煙草を吸っていた)。
  • 茶は京都宇治玉露を濃く淹れたものを好んだ。
  • 漬物も好きで、何種類か並んでいないと機嫌が悪かったという。
  • 写真嫌いだった西郷隆盛とは対照的に、これを好んだため多くの肖像写真が残っている。
  • 青いガラス製の洗面器具を使い、家庭内においても洋間に滞在しながら洋服を着用し、当時としては非常に洋風な生活をしていた。また頭髪をポマードでセットしていた。
  • 頭頂部に大きな禿があり、それを髪で隠していたため、早朝に邸宅を訪問しても髪をセットするまで応対に現れなかったという。
    • 大隈重信 「如何いうものか頭の頂辺は早く禿げた。房やかな髭は黒々と伸び彼の通りの謹直な人で厳めしく見えたが、悲しい事には肝腎な頭の真ん中に毛が無い。そこで苦心して矢張り髭のあたりから毛を持ち運んで隠して居た。大久保は仲々御洒落で、身体の修飾をやったて、すこぶる勉強家で毎朝八時半頃から登省して事を視るという人であったが、その前にこの様なことで少なからず時間を費やしたものだ」[23]
  • 明治8年(1875年)から1年かけて、麹町三年町(旧丹羽左京大夫邸及び旧佐野日向守邸跡)に白い木造洋館を建てた(建築費用は恩賜金と盟友の税所篤からの借金で賄ったとされる。後にこの邸はベルギー公使館となった)。当時は個人の家としては珍しい洋館であったが、金をかけたものではなかった。また、これとは別に高輪に純和風の別邸を所有していた。

士族反乱~最期

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遭難地近隣の清水谷公園に立つ哀悼碑
  • 征韓論で対立した江藤新平と確執があり、佐賀の乱で江藤が裁判にかけられた際には日記に「江東(ママ)陳述曖昧実ニ笑止千万人物おし知ラレタリ」、死罪判決が出た際には「江東(ママ)醜体笑止なり、今日は都合よく済み大安心」と意図的に名字の名を変え、江藤への罵倒ともとれる言葉を記している[24]。このことから「江藤を死罪にした裁判長の河野敏鎌は大久保から1,000円で買収された」[25]「上京していた江藤の弟・江藤源作を見て江藤の亡霊を見たかのように驚いた」[26]など当時から現在に至るまで様々な風説を生み出している。なお、大久保は江藤の才能を認めつつも、その強引さ故に政府を去り反乱を起こして死亡した様を商鞅に例えている[27]
  • 萩の乱の一報を千坂高雅から受けると、大久保は「これ(電報)を伊藤(博文)参議の所へ持っていって、どうか木戸(孝允)さんへお渡し下さいと言ってくれ」と送り出した。意味がわからぬまま千坂が持っていくと伊藤が涙を流したため訳を聞くと、(萩の乱の首謀者である)前原一誠は木戸と伊藤が参議に推挙したが、前原について聞き及ぶところがあった大久保が難渋を示したところ、木戸が天下の志士を疑ったとして立腹したという経緯があり、木戸の面子を立てようとする大久保の配慮であった[28]
  • 西南戦争の時には、伊藤博文に対して「朝廷不幸の幸と、ひそかに心中には笑いを生じ候ぐらいにこれあり候」と鹿児島の暴徒を一掃できるとし、また西郷については、これでは私学校党に同意せず「無名の軽挙」をやらかさないだろうと書き送っている(明治10年2月7日付書簡)。一方で、「あの男のことだから進退去就には困っているだろう」として、勅使を立てて明治天皇の意向を伝えて挙兵を防ごうとし、その意向を受けて西郷の縁戚の川村純義が会見を試みたが、実現しなかった。周囲の者達が西郷が乱に与するに違いないと伝えても、大久保は最後まで西郷の不参加を信じて疑わなかったが、西郷が反乱軍を率いて鹿児島を出立したという確報や証拠を突きつけられ、「そうであったか」と言って涙を流した[29]。大久保は西郷と会談したいと鹿児島への派遣を希望したが、大久保が殺されることを危惧した伊藤博文らに朝議で反対されたため、希望は叶わなかった。
  • 西郷死亡の報せを聞くと号泣し、時々鴨居に頭をぶつけながらも家の中をグルグル歩き回っていた(この際、「おはんの死と共に、新しか日本が生まれる。強か日本が……」と呟いた[30])。西南戦争終了後に「自分ほど西郷を知っている者はいない」と言って、西郷の伝記の執筆を重野安繹に頼んだりもしていた[31]。また暗殺された時には、生前の西郷から送られた手紙を持っていたとされる[32]
  • 明治11年(1878年)に暗殺される日の朝、福島県令・山吉盛典に対し、「ようやく戦乱も収まって平和になった。よって維新の精神を貫徹することにするが、それには30年の時期が要る。それを仮に三分割すると、明治元年から10年までの第一期は戦乱が多く創業の時期であった。明治11年から20年までの第二期は内治を整え、民産を興す即ち建設の時期で、私はこの時まで内務の職に尽くしたい。明治21年から30年までの第三期は後進の賢者に譲り、発展を待つ時期だ」と将来の構想を語った[33]
大久保神社(郡山市安積町)
  • 安積疏水計画の推進者であった大久保利通を水神として祀る「大久保神社」が、福島県郡山市にあり、地元の人々によって「大久保様の水祭り」が毎年9月1日に執行されている[34]
  • 地元鹿児島では長らく「西郷どんの敵」とされていた。彫刻家の中村晋也が制作した銅像が建てられたのは、徐々に再評価が高まってもいた昭和54年(1979年)の西南戦争百周年の機会であった。

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酔生夢人
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職業:
仙人
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考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
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