私自身の別ブログから転載。
(以下自己引用)
(以下自己引用)
単なる思い付きだが、白川静の「回思九十年」の中の対談の一部に、「人が神や死者を叱責する」話があり、そこに、日本人にとっての神や死者はやたらに崇高なものでもやたらに畏怖する対象でもなく、もっと身近な存在だったのではないか、という発想を得たのだが、いわば「となりのトトロ」である。人間でも動物でもないが、意思を通わせることが可能な不思議な存在が神や死者だったのではないか。
それは何かの禁忌を人間が犯すことで時には人間に罰を与えもし、捧げものをすることで喜びもするという「人間的感情」をもったもの、というわけだ。と同時に、キリスト教やユダヤ教のように人間が神の奴隷というわけでもない。神や死者は天国や地獄にではなくもっと、「隣りにいる存在」である。
つまり、「物の怪」と「神」、あるいは「神」と「死者」はさほど遠い存在ではない、という思想である。祖霊崇拝は、まさしく「人間が神になる」のと同義である。そして人間(死者)は幽霊にもなるのである。
そこからの思想の系として、日本人は「偉い人」を心から畏敬してはいない、という考えも生じる。神や死者でさえ「隣人」なのだから、支配者など同じ人間でしかない、というのは明白であるわけだ。
西洋や中東の絶対神思想と、支配者の絶対性というのは表裏の関係ではないだろうか。
すなわち、日本の民衆は権力者には従うが、尊敬はしない、ということだ。そうすると、「面従腹背」というのは重要な思想である、とも言えそうである。いざとなれば、どんな偉い人でも刀を振るって殺す、というのが本来の日本人だったとまで言えば大袈裟になるが、とりあえずは「利害計算で従っているだけだ」というのはむしろ日本人の「誇り」を示すものだろう。それは精神の奴隷化とは正反対なのだから。会社社長は君主ではないし、社員は奴隷でもない。(某大会社の社長は子供に「社員は犬だ」と言っているらしい。)単なる雇用関係だ。
それは何かの禁忌を人間が犯すことで時には人間に罰を与えもし、捧げものをすることで喜びもするという「人間的感情」をもったもの、というわけだ。と同時に、キリスト教やユダヤ教のように人間が神の奴隷というわけでもない。神や死者は天国や地獄にではなくもっと、「隣りにいる存在」である。
つまり、「物の怪」と「神」、あるいは「神」と「死者」はさほど遠い存在ではない、という思想である。祖霊崇拝は、まさしく「人間が神になる」のと同義である。そして人間(死者)は幽霊にもなるのである。
そこからの思想の系として、日本人は「偉い人」を心から畏敬してはいない、という考えも生じる。神や死者でさえ「隣人」なのだから、支配者など同じ人間でしかない、というのは明白であるわけだ。
西洋や中東の絶対神思想と、支配者の絶対性というのは表裏の関係ではないだろうか。
すなわち、日本の民衆は権力者には従うが、尊敬はしない、ということだ。そうすると、「面従腹背」というのは重要な思想である、とも言えそうである。いざとなれば、どんな偉い人でも刀を振るって殺す、というのが本来の日本人だったとまで言えば大袈裟になるが、とりあえずは「利害計算で従っているだけだ」というのはむしろ日本人の「誇り」を示すものだろう。それは精神の奴隷化とは正反対なのだから。会社社長は君主ではないし、社員は奴隷でもない。(某大会社の社長は子供に「社員は犬だ」と言っているらしい。)単なる雇用関係だ。
そしてその「面従腹背」によって社会は安定し、和が保たれるのである。これこそが、「実用道徳」かもしれない。
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