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言葉の破壊はナショナルアイデンティティの破壊

批判的な意味で転載しておく。
言葉に誤用は無い、という思想は、言葉を破壊するものだろう。詩人などによる意図的な言語破壊ならまだ言葉の可能性を広げるかもしれないが、使っている当人たちが間違いに気づいていないならば、言語学者たちは「それは正統的な表現ではない」と指摘し続けないと、言葉がどんどん乱脈になり、言語によって保たれる国民的アイデンティティも失われる。
確かに言葉は不変のものではないが、その変化は「道理にかなっていて、使う意味がある」場合にのみ許容される、というのが私の考えだ。
「的を得る」のような言葉は、はっきりと「誤用。だが、広く使われている」としておけばいいのである。


(以下引用)

「的を得た」って50年以上前から使われているけど、それでも誤用なの?専門家に聞く

2016/7/23 19:01 ネタりかコンテンツ部

こんにちは、ネタりかコンテンツ部の菊池良(@kossetsu)です。


あなたは「的を得る」という言葉を使ったことありますか? 使ったことはなくても、聞いたことはあるのではないでしょうか。


一般的にこの言葉は誤用だと言われ、「的を射る」が正しいとされています。


 


東京外国語大学教授で、NHK放送用語委員も務めていた吉沢典男の『どこかおかしい日本語』(1987年)にはこう書かれています。


 


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吉沢典男『どこかおかしい日本語』(ごま書房)11pより引用


 


的は「射」るものであるから、「得」るのは変だ、「当を得る」と混同しているのでは、という指摘です。これはいろんな日本語本でなされている説明です。東京大学名誉教授の国広哲弥による『日本語誤用・慣用小辞典』でも、同様の指摘がされています。


 

半数以上が「的を得た」を正しいと思っている

1996年11月にNHK放送文化研究所が第7回「ことばのゆれ」全国調査を行っています。
約1400人の成人男女に「的を射る・得る」のどちらが正しいか聞いたところ、以下の結果となりました。


 


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『放送研究と調査』1997年5月号(NHK出版)55pより引用


 


「的を射た」よりも、誤用とされる「的を得た」の方が回答を集めています。年代別にみると、30代では半数以上が「的を得た」が正しいと答えたそうです。


文化庁が2004年に行った「国語に関する世論調査」でも54.3%の人が「的を得る」が正しいと回答しています。


 


 

新聞や雑誌では「的を得る」は使われているのか?

「言葉のプロ」とも言える新聞や雑誌でも、実は「的を得る」が用いられています。


1985年8月16日の朝刊に載せられた「北朝鮮、両にらみ外交」という記事では、


 


「ソ朝関係に比べ中朝関係が後退したなどと観測するのは的を得ていないだろう」


 


と「得る」の方が使われています。また、1995年12月10日の朝刊でも「ガリ国連事務総長を痛烈批判」という記事でも、「ひとつずつ事例に沿って反論する声明を発表し、批判が的を得てないことを強調した」とあります。


朝日新聞だけではありません。毎日新聞でも「的を得る」という表現は確認できました。


雑誌でも使われています。『日経ビジネス』の1972年9月4日号。


 


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『日経ビジネス』1972年9月4日号(日経BP社)14pより引用


 


「悲観説が的を得ているようにもみえる」とあります。このように新聞や雑誌でも古くから「的を得る」は使われています。


 

口語ではいつから使われている?

文章だけではなく、口に出す言葉ではいつごろから使われているのでしょうか。
1947年の第1回国会以降、すべての本会議、委員会の議事録を検索できる「国会議事録検索システム」で調べてみました。


議事録での初出は1951年11月5日。発言者は参議院議員の岡本愛祐。


 


「答弁かあつたときにはどうも腑に落ちないくらいで済んだのですが、よく読んで見ると、やつぱり腑に落ちないのが当然であつて、はつきり、つまり的を得た答弁をしてくれてないのです。」


 


このように発言しています。今から約60年前には「誤用」されていたのです。


その後も議事録上で「的を得る」は絶えず確認され、最新のものですと2016年5月12日、おおさか維新の会所属の室井邦彦が「まさに、潮流に乗ったというか、的を得た結果といいますか」と発言しています。


 

「的を得る」って誤用なの?専門家に聞いてみた

これほど古くから多くの人間が誤用しているとなると、もはや誤用ではないんじゃないでしょうか?


日本語学者・国語辞典編纂者の飯間浩明さんに聞いてみました。


 


お話を聞いた人:飯間浩明さん(@IIMA_Hiroaki
1967年、香川県高松市生まれ。日本語学者・辞書編纂者。『三省堂国語辞典』編集委員。著書に『辞書を編む』『三省堂国語辞典のひみつ』『辞書編纂者の、日本語を使いこなす技術』などがある。


 


──そもそも言葉にとって「誤用」とはどんな状態のことですか。


 言語学的には「ことばの誤用」についての一般的な定義はありません。「『見れる』は誤りか」という問題は、新聞の投書欄のテーマとしてはあり得ても、それを論文として取り扱うことはできません。学問的対象になるのは、「『見れる』という語形は何年頃から増加してきたか」といったような客観的事実だけです。


 学問的には、「誤用」の定義はないのですが、一般の人々の頭には、それぞれぼんやりと「誤用」の定義があるはずです。それはさしずめ、


  1. 昔(自分が習い覚えた頃)とは違う新しい言い方である


  2. 自分にとって不合理と思われる言い方である


という2点です。


 このような「一般に言われる誤用」とは、あくまで「その人にとっての誤用」であることに注意が必要です。絶対的ではなく、相対的なものです。


 


──辞書編纂者が特定の言葉を「誤用」と判断するのは、どういう要件を満たしたときなのでしょうか。


 『三省堂国語辞典』の場合、絶対的な基準に基づくことのできない「誤用」という表現はなるべく避けようという方向に進んでいます。むしろ、「何年頃からの言い方」「この言い方は文章語(硬い書きことば)、この言い方は俗語(仲間内のことば)」といった情報をつけることを重視しています。こういった情報があれば、辞書の利用者の好みで「新しい言い方なのか、じゃあ、自分は使うのをやめよう」というように選択することができるからです。したがって、『三国』には、「誤用認定のための基準」そのものがありません。


 


──「誤用」とされる言葉を世の中の大半の人が使っていたとします。多数派が使っていても誤用なのでしょうか。


 ある古いことばを使う少数派の人にとっては、新しいことばを使う人がいくら多数派になっても、その言い方は誤用と感じられます。


 一方、多数派の新しいことばを日常的に使う人にとっては、そのことばこそが普通で、古い少数派のことばは死語、化石語と感じられます。


 そのどちらかを誤用、どちらかを正用、と客観的にジャッジできる人はどこにもいないでしょう。正誤のジャッジは、主観的にしかできないものです。


 「年配の教授に出すレポートならば古めのことばで書く」「仲間内の雑談では仲間のことばに合わせる」といったように、ことばを臨機応変に使い分けることも必要です。


 


──古い言葉を習っていると、現代の用法と違う言葉がありますが、今ではそちらが正しいとされています。「意味が変わった」「誤用じゃなくなった」という判断はどの時点でなされるものなのでしょうか。


 「当初一般的でなかった意味が、後に普通になった」というパターンは、古来いくらでもありますね。「ありがたし」は、「有ること難(かた)し」で「稀だ」という意味だったのが、いつの間にか「(そういう稀な恩恵を受けて)感謝したい気持ちだ」という意味に変化しました。問題は、この新しい意味が現れたとき、世間の人が「誤用だ」と言ったかどうか、ということです。


 長い日本語の歴史を通じて、新しい意味が「誤用」と批判されることは、ほとんどありませんでした。人々は、周囲の人が使う意味で自分も使い、その意味が知らず知らずちょっとずつズレていきました。『枕草子』『徒然草』などに「今の人のことば」を批判する文章はありますが、全体として、そういうことに世間の関心は向かいませんでした。


 そもそも、昔の人にとって「正しいことば」とは、大昔の古典語でした。歌学者は大昔の正しいことばを研究して歌を作ろうとしました。一方、自分たちの使っていることばは「今の世の俗語」でした。その俗語について「正しいの、間違いの」と言っても始まりません。


 「そのことばは誤用です」というような批判のしかたが一般に広まったのは、戦後、特に1970年代以降です。それまでは、校正の本を見ても「同音語を取り違えないように書こう」というように、ひたすら「漢字を間違えないように」ということばかり注意されていました。ところが、70年代の「日本語ブーム」に乗って、日本語の誤用を論難する本が数多く出版されるよにうなりました。たとえば、「おそらく晴れるでしょう」は誤用だ(「おそらく」とは「恐れること」が原義だから)、というような言いがかりに近いものも含めた「日本語の誤用本」が商売として成立する(読者が興味を示す)ようになりはじめました。


 この時期から、ある新しいことば、耳慣れないことばを、「誤用本」の著者などの「識者」が指摘した時点で、そのことばが「誤用」認定される、というシステムができあがりました。


 面白いのは、識者に指摘されていなければ、似たような言い方でも、あまり批判の対象にならないということです。「汚名挽回」という言い方は、「汚名を取り戻してどうする」という批判が70年代に現れて以来、誤用認定されています。一方、「劣勢挽回」は、たまたま識者がこの言い方を批判しなかったために、いまだに誤用とは見なされていません。


 現代、「誤用」認定されたことばが「誤用じゃなくなった」とされる事例は、あまり知りません。


 ただ、今後はどうでしょうか。現在、誤用を指摘する人に対して「誤用警察」と揶揄することばも生まれ、やみくもに「誤用」認定することは今後減っていくのではないか(減っていけばいいな)と思っています。その時には、もと「誤用」とされていたけれど、「誤用じゃなくなった」ということばも少なからず出てくるのではないでしょうか。


 


──「的を得る」は誤用なのでしょうか。


 誤用とする理由はない、と言えます。従来、「的を射る」「当を得る」の混用、という論拠で「誤用」とされていましたが、「正鵠を得る」「当を得る」「要領を得る」「時宜を得る」などの「得る」は、「うまくとらえる」という意味と考えれば、「的を得る」も十分合理的に解釈できます。


 あることばを「誤用」と客観的に主張することは困難ですが、「べつに誤用でない」と主張するためには、その語が広く受け入れられており、また、一定の合理性があることが認められさえすれば、それで十分です。


 


──ありがとうございました。


 


(文:菊池良、写真:アフロ)



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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
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