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気の赴くままにつれづれと。
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孔徳秋水氏のツィッターから転載。
啓発的で示唆的な言葉だ。私もよく同じようなことを考えるが、時々こういう言葉を外部で見ると、新たに心が洗われる。つまり、ふだんは心が塵に覆われている。哲学の価値はこういうところにあるのかなあ、などと思うそばから、「ほら、お前はまた『価値』を考えている」という声が聞こえてくる。
まさに、「価値(物事を価値で考えること)は心の牢獄」だ、と思う。これはもしかしたら、あらゆる哲学や宗教のエッセンスではないか。それほどの金言かもしれない。
テレビ画面に映る誰それを嫌悪し、あるいは好きになる。身近な誰かを嫌悪し、あるいは好きになる。すべて「価値観」の為せるわざだ。あるものを欲しがる、あるものを避ける、すべて「価値観」の為せるわざだ。自分の現状にいらだったり、不満を持つのも、「自分が価値のある何かをしていない」からである。誰かからほめられて一時の快感を得るのも「自分の価値が認められた」からである。そして、またほめられ、報酬を得るために必死で努力する。その努力で得た「価値(カネ)」の一部を集めることで自分の財産を膨らませる人々がいる。そして「価値」の無くなった人々は廃棄される。
何かが自分にとって(あるいは誰にとっても)価値がある、と思うから、それを求める。求めること、つまり欲望が娑婆苦の最大の原因であると見做すことは仏教の基本思想だろう。
あらゆる欲望から解放されることが解脱・涅槃にほかならない。輪廻とは、ただの寓話だ。もし輪廻があるとすれば、それは「欲望のサイクル」の中に取り込まれた状態のことだろう。生まれ変わり死に変わることは、その比喩にすぎない。さまざまな哲学すら、その輪廻の一部だからこそ、悟った世界では「無苦集滅道」なのだ。「苦集滅道」とは、古来のあらゆる哲学や宗教を意味している、と考えていい。
まあ、あらゆる欲望から解脱したら、木石同様になるわけで、それこそ「価値」が無い存在だ、と通常の人間には思われるだろう。それではいったい何のためにこの世に生まれてきたのだ、とwww まあ、そこまで解脱しなくてもいいから、あまり「あれが欲しいこれが欲しい」と餓鬼状態にならないだけでもいいのではないか。そういう餓鬼こそが消費社会の理想的住人なのだがww
(以下引用)
仏教は実は、エゴイズムや損得を否定していない。本当のエゴイズム、損得は、世界が「ひとつ」と知ることで実践できるということ。「相手のトクになることは、自分にとってはソン」と凡夫は考えるから、結局、自分にも他者にもトクにならないことをやる。
[7/23 10:00] >それは「自分が全宇宙」と知ることだ。その時、『価値』の感覚が一時的な道具であったと知るだろう。いずれ、価値の遊園地から卒業しなければならない。
[7/23 09:59] >牢獄地獄は一人ひとりの心の中にある。自由を知るには心の牢獄を自分で発見するしかない。牢獄の鉄格子には『価値』と書かれている。価値が心を縛っているのに気づく必要がある。自分は価値のためにあるのではなく、あるからある。絶対的な必然が自分を自分にしている事実に気づくことだ。
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