日本社会の様々な場で行われている習慣や義務的行事の大半は、その意味を誰も考えないまま前例踏襲で続いていると思う。特にそれが甚だしいのが学校教育の場である。
たとえば、生徒に宿題を出すことに本当に意義があるのか、と考える人はほとんどいない。同様に、運動能力測定や身体測定の意義は何なのか、誰も何も考えていないと思う。
ところが、宿題で苦しむ子供は膨大にいるし、運動能力測定で、幼いころに劣等感を植え込まれ、「自分は運動能力が無い」と思い込んだまま成長する人間は多いのではないか。かくいう私がそれである。その劣等感は、少々のことでは治るものではない。何しろ、学校時代というのはスポーツのできる子供が子供世界のチャンピオンなのだから、多少成績が良くても惨めなものだ。ところが、その運動能力というのは、実は子供時代においては「早熟かそうでないか」「運動経験があるかないか」でほとんど決まるわけだから、子供に一生も続くような劣等感を植え付けるそのような学校習慣にはたしてどれだけの意義があると言えるのだろうか。はたして、功罪どちらが勝っているか、学校関係者は考えたこともないだろう。なお、「座高の高さ」でも私はかなり劣等感を持っていたwww 身長は高い部類だったが、それも座高の高さによるものだったので、恥ずかしいだけだった。日本人というのは、昔から行われていることは変えちゃいけないと思う国民性なのだろうか? まずやっていることにどのような意義や意味があるか考える。そうすればそれをする理解も深まるし、それが今の時代無意味なことなのか? 実はもっと好い方法があるのではないかと発展させることもできるのに。
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それが何故だかわからないのに、それをわけもなく行っている。理由を訊くと、その意味は誰もわからず、昔から続けてきたことだから。すでに考えることすら、放棄しているのだ。昔から行われてきたことが、今の時代に即しているとは限らないし、それが一番好いとは限らない。本気になるとは考えること。
- あと走り高跳びという競技、あれも純粋なジャンプ力よりも、体格差が如実に出るので、身長に合わせた目標設定をしないと、全然無意味なことになると思う。跳躍力を図りたい、伸ばしたいなら、そのぐらい考えてくれ。
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- 座高の測定なども数年前にようやく廃止されたようだが、こんな初期的なことに気がつかないのか、気がついても改善する気がないのかわからないが、何十年も全国の生徒にやり続けさせているところが、この国の根本的な問題。生徒の学力云々以前に、お前らも頑張れよと言いたい。
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- ソフトボール投げって、純粋に遠投力を図るのには疑問を持つ。しっかりボールを握れる手の大きさがある子としっかり握れない子がおり、純粋に遠投力以外の部分が飛距離に大きく影響されるからだ。
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