高橋春男は、もちろん知る人ぞ知る、知らない人は知らない漫画家だが、その俳人としての才能を知っている人は少ないかと思う。
石寒太が宗匠を務めた「七人の句会」の句会の内容をまとめた「冷や酒と君の科白は後で効く」の中でも高橋春男の作品は私としては一番の好みである。ただし、俳句に「深い人生の観照」を求めるような旧式の俳人やアマチュア俳人には好まれないだろう。ある意味、与謝蕪村的な「フィクション俳句」が彼の骨頂なのである。そして、彼の俳句のユーモアもまた一般人には好まれないだろう。「俳句とはもっとまじめなものだ」と毛嫌いされるかと思う。
上記の本の中から、彼の作品と、他の人の作品から私が好ましく思った作品を幾つか挙げておく。
まず、高橋春男の句。
春の風邪ひねもす寝たり寝たりかな
夕焼けに鳴る目覚ましやドラキュラ城
包帯を解いてミイラの夕涼み
突っつくと崩れる芸者冷や奴
軒下で父は揺れけり釣忍
好きですと言えずにすすすすすきかな (表記を少し変えた。「すすす薄かな」でもいい)
以上は「七人の句会」で詠まれたものではなく、この句会では少し真面目な作品を提出しているが、彼の美質はこうした「遊び心」にこそあり、それは江戸俳句にはあったが現代俳句から失われた特質である。その復興の旗手になれる才能だと私は思う。
少し真面目な作品を幾つか挙げる。
変声期煙草にむせる西日かな
清貧の人の机に柚子二つ
つくし野に狸が開く書道塾
道づれは御伽草子と春の月
旧友も少し壊れて卯月波
目覚めれば輪廻の果ての蝸牛
何度でも死ねたらいいね更衣
ひれ酒に鼻からゆるむしかめ面
紅をひく女の顔の小春かな
福寿草抱いてバス待つ人の妻
「何度でも死ねたらいいね更衣」は、蕪村の「お手討ちの夫婦なりしを衣替へ」を連想させる。衣替えという「毎年繰り返される行事」と、死という「一回きり」の出来事の対比が素晴らしい。
「目覚めれば輪廻の果ての蝸牛」は、もちろん、六道輪廻の果てに虫に生まれた絶望感を描いているわけだが、カタツムリのあの「ぐるぐる模様」が、輪廻の見事な象徴的形象になっている。
ついでに、「七人の句会」の他の人たちの作品の中から、私好みの作品を幾つか挙げておく。
福寿草五人姉妹の目が笑ふ (吉行和子)
福寿草という目出度い名前の花と「五人姉妹」が実に見事に調和し、「目が笑ふ」で穏やかな幸福感をかもしだしている。
ゲイバーのトイレの窓に春の月 (吉川潮)
「ゲイバー」と「トイレ」という、俗の極みが「春の月」との対比で詩になっているところが、まさに俳句である。
石寒太が宗匠を務めた「七人の句会」の句会の内容をまとめた「冷や酒と君の科白は後で効く」の中でも高橋春男の作品は私としては一番の好みである。ただし、俳句に「深い人生の観照」を求めるような旧式の俳人やアマチュア俳人には好まれないだろう。ある意味、与謝蕪村的な「フィクション俳句」が彼の骨頂なのである。そして、彼の俳句のユーモアもまた一般人には好まれないだろう。「俳句とはもっとまじめなものだ」と毛嫌いされるかと思う。
上記の本の中から、彼の作品と、他の人の作品から私が好ましく思った作品を幾つか挙げておく。
まず、高橋春男の句。
春の風邪ひねもす寝たり寝たりかな
夕焼けに鳴る目覚ましやドラキュラ城
包帯を解いてミイラの夕涼み
突っつくと崩れる芸者冷や奴
軒下で父は揺れけり釣忍
好きですと言えずにすすすすすきかな (表記を少し変えた。「すすす薄かな」でもいい)
以上は「七人の句会」で詠まれたものではなく、この句会では少し真面目な作品を提出しているが、彼の美質はこうした「遊び心」にこそあり、それは江戸俳句にはあったが現代俳句から失われた特質である。その復興の旗手になれる才能だと私は思う。
少し真面目な作品を幾つか挙げる。
変声期煙草にむせる西日かな
清貧の人の机に柚子二つ
つくし野に狸が開く書道塾
道づれは御伽草子と春の月
旧友も少し壊れて卯月波
目覚めれば輪廻の果ての蝸牛
何度でも死ねたらいいね更衣
ひれ酒に鼻からゆるむしかめ面
紅をひく女の顔の小春かな
福寿草抱いてバス待つ人の妻
「何度でも死ねたらいいね更衣」は、蕪村の「お手討ちの夫婦なりしを衣替へ」を連想させる。衣替えという「毎年繰り返される行事」と、死という「一回きり」の出来事の対比が素晴らしい。
「目覚めれば輪廻の果ての蝸牛」は、もちろん、六道輪廻の果てに虫に生まれた絶望感を描いているわけだが、カタツムリのあの「ぐるぐる模様」が、輪廻の見事な象徴的形象になっている。
ついでに、「七人の句会」の他の人たちの作品の中から、私好みの作品を幾つか挙げておく。
福寿草五人姉妹の目が笑ふ (吉行和子)
福寿草という目出度い名前の花と「五人姉妹」が実に見事に調和し、「目が笑ふ」で穏やかな幸福感をかもしだしている。
ゲイバーのトイレの窓に春の月 (吉川潮)
「ゲイバー」と「トイレ」という、俗の極みが「春の月」との対比で詩になっているところが、まさに俳句である。
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