「教養を身につけても別に良いことはない」という断定は凄い。実体験なのだろうか。
自分に教養がある、と言える人間というのは世の中に1%いるかどうかだと私は思うのだが、そうした人々は「何かメリットがあるから教養を身に付けよう」と考えただろうか。教養を身に付けたことを「無駄なことをした」と後悔しただろうか。
まあ、旨いご馳走を食って、「無駄なことをした」と思う人間はほとんどいないと思うのだが、教養というのは、好きなことをしているうちに自然と身に付くもので、飯を食うのとさほど変わりはしないし、いちいちメリットを考えて食事はしないのである。教養は、それ自体が報酬なのだ。「面白きことも無き世を面白く」するのが教養のメリットだろう。
ただし、記事筆者の現代の状況の分析は正しいと思う。
「人間を有り難がる姿勢が小説を支えていた。もうその前提が成り立たない。」
現代が、人間というものへの敬意を失った時代であるのは確かだろう。
無辜の人々が無意味に殺されたりひどい目に遭ったりする事件があると、それを面白がるコメントがネットに必ず登場するのは、その表れのひとつだ。政治家が嘘をつきまくってもほとんど真面目に批判されない、というのもそのひとつだ。
つまり、目に見えないニヒリズム、あるいは人間軽視思想が蔓延しているのが現代という時代だと思う。誰もモラルを信じていない時代には、力(金力と権力と肉体的暴力)だけが尊敬や畏怖や服従の対象になる。平気で嘘をつける能力も力のひとつなのである。簡単に言えば、「世も末だ」ということだ。
(以下引用)
翻訳家でアメリカ文学者の柴田元幸さんに、言葉を取り巻く今の社会に対する意見や、責任編集を務める文芸誌「MONKEY」に込める思いを聞いた。
ーネットやデジタルツールが普及した現代の言葉に関する問題意識を教えてください。
「言葉は真実を伝えるためのものだという前提が今まではあったが、その前提がなくなってきている。以前は「うそをつけば世の中機能しない」という考えのもとに何らかの歯止めがあった。言葉を公の場で発する時には新聞や本があり、色々な人が関わることでチェック機能も働いていた。今はチェック機能なしで全世界に情報を流せる。実はチェックが働いていた方が幸運な状態だったのかもしれない」
ー言葉の発し手も受け手もモラルがより必要になりますか。
「自分も含め世の中は本当にモラルを求めているだろうか。「世の中全体がうまく行った方が良い」「皆が幸福な方が良い」という視点に立てば、モラルを求めた方が良い。しかし今は、そう考える余裕のある人がどれだけいるだろうか」
ーそのような時代に教養として読むべき小説はありますか。
「その問いが成り立たなくなっている。小説と教養がセットだった時代は過ぎた。教養とは、人間のことを知ろうとする試み。しかし今は「人間の中身なんて知ってもしょうがない」というシニシズムがあるように思う。これは健全なことかもしれない。実際に今、人間が地球に対して行なっていることを見ても、そんなに賢いとは思えないし」
-そもそもどうしてセットだったのですか?
「おそらく市民社会ができたことと小説が生まれたことがセットだった。王様がすべてを支配している社会では、民衆一人ひとりの個人性なんて誰も考えなくて、小説は成り立たないだろう。市民社会になって、一人ひとりが心の中に豊かな世界を抱えていて皆が違っているという前提ができると、人の心を分かろうとする気概が生まれる。そういったことに高揚を感じられた時代には、小説は教養としての役割があったと思う」
-今はそのような時代ではないのですね。
「人間を有り難がる姿勢が小説を支えていた。もうその前提が成り立たない。日本の場合、教養を身につけるという行為は明治の開国以来ずっとやってきた。そこには頑張れば物質的にも精神的にもより良くなれるはずだという大前提があった。今は、教養を身に付けても別に良いことはないことが露呈して、教養として小説を読むことは義務でもなんでもない時代になった。でも好きな人しか小説を読まなくなっているのはある意味で健全。ただ、好きな人が一定数いないと商品として成立しないので、そこは面白がりながら頑張りたい」