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神無き世界は無道徳世界になるか

私のブログを読んでいる人がいるなら(数人はいると思うが)、一応、「使用上の注意」を書いておく。

私のブログは「面白半分」で書き、それを面白がって読んでくれる人がいれば嬉しい、というつもりで書いているのであり、その記事の内容は冗談が多いし、真面目に書いたものでも信頼性は低いはずだ。何しろ私は「自分で確信できないものはすべて疑う」主義なので、「ビッグバン説」も「膨張宇宙論」も「進化論」も神や仏の存在も疑っている。
そして、何より、フィクションはフィクションそれ自体として価値があり、人生を豊かにするという考えであり、そういう意味では宗教の根底がフィクションでも「フィクションだから無価値だ」と主張したことはないはずだ。宗教を信じるかどうかは個々の問題だ。何かを信じたい人に、私(無神論)こそが真理だ、などと言う気はまったく無い。無神論が真理である証明も不可能なのである。昔は「無神論は犯罪の温床」とされていたかもしれないが、現代では有神論者のほうが少数者ではないか。だから犯罪が増えた、という説も可能かもしれないが、私は犯罪は経済問題から起こるという説である。
ただ、世間には有害な宗教(主に新興宗教だが)がたくさんあり、それは「善良な信者たち」を利用して社会を捻じ曲げ、悪化させることが多いというのが私の考えである。統一教会やオウム真理教が実は「真実そのもの」だったとしても、それが社会の大きな悪(犯罪)の原因になったのは事実だろう。これは、知能や知性の高い人々も信者になっていたのである。
宗教には時代による有効性や有益性の問題、あるいは適応範囲の問題もある。ユダヤ教はユダヤ教徒にとっては有益かつ有効な宗教だったかもしれないが、他民族には迷惑この上ない宗教だったし、キリスト教は大きな社会規範となって社会秩序維持の要素になったが、その一方では教会支配社会の拘束具にもなってきた。
で、現代では「神や仏を根拠としない道徳」の確立こそが求められているのであり、私が「通俗道徳批判」を批判するゆえんだ。なぜなら「通俗道徳」とは「大衆道徳」と混同され、通俗道徳批判は「道徳そのものの否定」となる可能性が高いからである。そのあたりは何度も書いてきた。

或る意味、「自然崇拝」とまで行かなくても、「自然尊重」「公衆道徳」が、今後の大衆道徳の土台になるかと思う。それは聖徳太子の「十七条憲法」にも存在し、「日本国憲法」の精神でもあると思う。つまり、前に書いた「大和(だいわ・大いなる和)の精神」だ。「自然尊重」は科学の暴走への歯止めになるだろう。「大いなる和の精神」では、ある意味、地球そのもの、宇宙そのもの、そして人類全体が尊重の対象になるわけだ。

以上、私のブログの「使用上の注意」である。


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酔生夢人
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男性
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仙人
趣味:
考えること
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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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