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東海林さだおに対する「かっこいい漫画家」という評言の意味

マイクロソフトニュースにイーロン・マスクがXで「侘び寂び」(この漢字が、芭蕉などの言った「わびさび」に適合しているかどうかは議論の余地があるかと思うが、一番近いニュアンスだとは思う。)と言ったという記事があり、これは案外重要な発言ではないかと思うのだが、先に書いておこうと思ったことから、忘れないうちに書く。

それは市民図書館から借りた、児童向け図書のコーナーにあった川上弘美の「明日、晴れますように」という、まあ、ジュブナイル(中高生など未成年者向けの本)に属するかと思われる本の中に出て来た言葉で、あまりに意外な言葉なので、考察してしまったものだ。

それは、作中人物が、漫画家の東海林さだおを、「かっこいい漫画家」と発言したことで、おそらくこれは作者の川上弘美自身の考えを代弁したものだろうと思われる。もちろん、単に作中キャラの発言としてもいいが、東海林さだおは「(キザな二枚目やその真似をする連中の)かっこいい(と自分だけが思っている)振る舞い」を嘲笑的に描いてきた漫画家であり、その東海林さだお自身を「かっこいい漫画家」とするのが非常に興味深い。言うまでもないが、この言葉は東海林さだおの外貌についてのものではないはずだ。いや、そうかもしれないが、まあ、そこは蓼食う虫も好き好きとしか言いようがない。

言うまでもなく、東海林さだおは漫画だけでなく文章の才能も抜群であり、偉大な人物のひとりだが、その偉大さが、「自分を戯画化する手法」があまりに見事なために見えなくなっている。おそらく、漫画家としても、漫画史上の「ワンアンドオンリー」なのではないか。それが「大人向け漫画」であるために、誰も評論しないし、「評論する価値もない」、と見做されている可能性が高い。
たとえば、柳田国男や南方熊楠が現代に生まれて、たまたま漫画の才能があり、漫画で社会や人間の俗物性を評論したなら、東海林さだおになるのではないか。だが、その手法が「はい、私もみなさん同様の俗物で、ちっぽけな人間です」というものなら、絶対に、この社会は彼を高く評価しないはずだ。つまり、この社会はかなりな程度「自己申告」が通るので、自己戯画化は「損な手法」だが、その損さを顧みず、自分が真実と思うことを表現する、それが「かっこいい漫画家」という評言の意味ではないだろうか。


なお、川上弘美の「明日、晴れますように」は、小学生の男の子と女の子二人を主人公にした小説なので、児童書のコーナーにあったが、社会評論、人間評論として面白い作品で、大人こそが読むべきだろう。

たとえば、次のような文章(赤字にしておく)は、今の日本の、いや、世界の初頭教育の危機を暗示している、と読める。「義務教育からの逃走」が進みつつある今、教育界のひとたちに、こういう危機感はあるだろうか。

小学校や中学校に毎日行くのは、かあさんにとっては、「えらい」ことのようなのだ。別にえらくもないんだけど、と思うけど、ときどきは、もしかしたらえらいことなのかも、と思う。


蛇足だが、たしか、関西弁では「えらい」は「難儀な、疲れる」意味があった気がするが、小中学生たちは「えらい思い」をして学校に通っているのではないか。特に人間関係問題だ。今のように「コミュニケーション能力全能主義」の社会では、主人公の「小さな科学者」仄(ほの)田りらなどは、コミュ障、さらには「発達障害」の烙印を押される可能性が高い。





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