「ブラックラグーン」を見ていて思うのは、善悪とかいう概念はその人間が生きる場所、生きる世界によって変わる、ということである。と言うより、善悪という概念が無意味になる場所や世界がある、ということだ。そこでは、生きること、生き延びることが最優先され、善悪などという概念が入り込む余地は無くなる。
この作品の女主人公とでも言うべきレヴィ(本名はレベッカという可愛い名前だww)は、敵と見做す人間は何のためらいもなく殺す女であり、その行動だけを見れば殺人淫楽症かと思われるほどの人殺し、大量殺人者だが、それは彼女の生きてきた世界が暴力の支配する世界であったからであり、そこでは暴力を肯定しなければ生きることができなかったのである。
彼女が、「普通の世界の道徳と善悪」を語る主人公に対し、物凄い嫌悪感を示す描写が「ヒトラーの描いたらしき絵」を巡るネオナチとの争いを描く巻にあったが、それは、主人公の言葉がそのままレヴィの存在そのものを否定する思想であったからだろう。
要するに、パンを盗まないと飢え死にする状況の子供がパンを盗んだことに対し、それは法律にもモラルにも反する行為だから、泥棒などせず飢えて死ね、と言う権利が誰にあるか、ということである。
法や道徳の支配する世界、というのもひとつのゲームであり、法や道徳が意味を持たない世界というのもひとつのゲームだ、というのが、私がこの文章を書き始めた時に考えたことである。人間世界に生まれるということは、どちらのゲームを選ぶか、という選択をすることだ。
この世界は、まったく違うゲームのルールで生きている人間が混在しているわけである。
どちらのゲームを選ぶかは本人の自由であることも、強いられた運命的状況であることもある。
大事なのは、片方のゲームを選んだ人間は、そのルールに縛られるのが当然だ、ということで、もう一方の世界に勝手に侵入してはいけないということだろう。つまり、無法を肯定する人間が、自分に都合のいい時だけ法による保護を求めるという卑怯卑劣は汚らわしいと私は思うのだが、まあ、これは美感の問題にすぎない。モラルというのはもともと「行動の美」なのである。
この作品の女主人公とでも言うべきレヴィ(本名はレベッカという可愛い名前だww)は、敵と見做す人間は何のためらいもなく殺す女であり、その行動だけを見れば殺人淫楽症かと思われるほどの人殺し、大量殺人者だが、それは彼女の生きてきた世界が暴力の支配する世界であったからであり、そこでは暴力を肯定しなければ生きることができなかったのである。
彼女が、「普通の世界の道徳と善悪」を語る主人公に対し、物凄い嫌悪感を示す描写が「ヒトラーの描いたらしき絵」を巡るネオナチとの争いを描く巻にあったが、それは、主人公の言葉がそのままレヴィの存在そのものを否定する思想であったからだろう。
要するに、パンを盗まないと飢え死にする状況の子供がパンを盗んだことに対し、それは法律にもモラルにも反する行為だから、泥棒などせず飢えて死ね、と言う権利が誰にあるか、ということである。
法や道徳の支配する世界、というのもひとつのゲームであり、法や道徳が意味を持たない世界というのもひとつのゲームだ、というのが、私がこの文章を書き始めた時に考えたことである。人間世界に生まれるということは、どちらのゲームを選ぶか、という選択をすることだ。
この世界は、まったく違うゲームのルールで生きている人間が混在しているわけである。
どちらのゲームを選ぶかは本人の自由であることも、強いられた運命的状況であることもある。
大事なのは、片方のゲームを選んだ人間は、そのルールに縛られるのが当然だ、ということで、もう一方の世界に勝手に侵入してはいけないということだろう。つまり、無法を肯定する人間が、自分に都合のいい時だけ法による保護を求めるという卑怯卑劣は汚らわしいと私は思うのだが、まあ、これは美感の問題にすぎない。モラルというのはもともと「行動の美」なのである。
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